湯治①
1549年 2月
庭先にちらちらと粉雪が舞い、枝木の先に薄く積もっていた。池に落ちた雪の結晶が、溶けてじんわりと広がった。あれから半月が経ち、春の芽吹きが待ち遠しい二月となった。
この月の初め頃、ようやく甲斐へ向かう手はずが整った。多恵さんの体調も、外出できるくらいまでには回復した。昨日も、龍坊の稽古の様子を、冷たい廊下から愛おしそうに眺めていた。久しぶりに明るい姿を見せる母親に、龍坊もいつも以上に気合が入っていた。
甲斐までの旅は、二日か、天候によっては三日を要する長旅が予想される。冬の甲斐は、大雪になる事も珍しくない。本当は、温かくなる五月ごろを予定していたのが、多恵さんたっての希望で、この時期のお出かけとなった。甲斐出身の多恵さんなら、その厳しさを、よく知っているはずだ。承芳さんと一緒に、何度か説得を試みたが、多恵さんが首を縦に振る事は無かった。まぁあの頑固な多恵さんが、初めから納得するとも思っていなかった。仄暗い雲と吹き付ける冷たい風に、少しだけ不安な気持ちがよぎった。出発は、明日の夜明けだった。
心配の種はあるものの、行楽としての長旅は久しぶりな事もあり、僕は今朝からいつになく浮かれていた。それは稲穂さんも同じだった。
「関介様、どうですか? 変ではないですか?」
稲穂さんはそう言い、その場でくるっと一回転してみせた。淡い黄色の小袖の袖がひらひらと舞う。それ以上に視線が向くのは、彼女の下半身だった。別にいやらしい意味ではない。
「稲穂さんの袴姿、初めて見たよ。うん、凛々しくて似合ってるよ」
今まで小袖を身に纏った姿しか見たことが無いため、稲穂さんの袴姿はとても新鮮だった。これで薙刀でも持たせたら、かなり様になるだろう。今度一緒に稽古をしようかと一瞬思ったけど、残念ながら僕には薙刀は教えられない。
僕が称賛の言葉を口にすると、何故か口をへの字に曲げ、不満気な視線を向けてきた。何か気に障る事でも言っただろうか。
「関介様、女子は凛々しいと言われるより、可愛らしいと言われる方が嬉しいのですよ」
腰の後ろで手を結び、くねくねとくすぐったそうに身体を揺する稲穂さん。どうやら本気で怒っているわけはなく、僕からの高評価に満更でもなさそうだ。
「この姿、多恵様に見せてきても良いですか?」
やはり、すごくはしゃいでいる。僕がいいんじゃないと言い終える前に、稲穂さんは廊下に出ていってしまった。僕は苦笑いで、彼女の背中を見送った。
さて彼女もいなくなった事だ、僕も外出用の衣類を探さねば。いつも稽古で着用してる道着を手に取る。袖やら袴の裾の糸が、所々ほどけている。流石にこれはまずいだろう。他に何か残っていただろうか。箪笥の中から、数少ない衣類を引っ張り出した。その中で、一つ目に留まった小袖があった。それは、十年以上も前に、承芳さんに買ってもらった小袖だった。二人の結婚式の時に着て以来、ずっと箪笥の奥に眠っていた。清流を思わせる鮮やかな水色に、紫色の美しい朝顔が目を引く。懐かしい思いと、ちょっとした好奇心で、僕はその小袖を手に取った。
稲穂さんがいない内に、そそくさと着替える。袴まで履くのは面倒なため、腰のところでキュッと帯を結んだ。久しぶりに袖を通し、初めて着た日を思い出した。あの日は少しぶかぶかだった気がするが、今着ると丁度良いサイズだった。とそこで、僕はショッキングな事実に気が付いた。戦国時代にやってきて十年以上経つのに、身体がほとんど成長していないのだ。単純に成長期が高校生で止まってしまったか、はたまた食事が問題なのか。
「むぅ、お二人とも、凛々しいや勇ましいばかり。義元様に至っては、武士の妻らしく益荒男のようだ、ですって。どこがそう見えたのでしょうか、って関介様、そのお姿」
ブツブツ文句を言いながら、部屋に入って来る稲穂さん。まだ戻ってこないと完全に油断していた。この小袖姿だけは、稲穂さんに見られたくなかった。何故なら、僕が今着ている小袖は、誰の目から見ても女性用のものだったから。
僕の姿を見つけた彼女は、目を丸くして、部屋の入り口で固まってしまった。
「いや、その。これには深い事情があってね」
すると、稲穂さんの表情がみるみるうちに強張っていき、頬を膨らませ、ぶすっとした口調で言った。
「どうして関介様が、そんな可愛らしいお召し物を着ているのですか。とても似合っているのが、余計にこう、言葉が大変汚いですが、腹が立ちます」
後半の言葉はほとんど聞き取れなかった。稲穂さんの、可愛らしいという言葉が、胸にぐさりと突き刺さって抜けなかった。
その後、部屋の中に重たい沈黙が訪れた。廊下に面していない両角で、僕と稲穂さんは、互いに膝を抱えて壁を見つめた。承芳さんが部屋に訪れるまで、僕らはその場を動こうともしなかった。部屋の異様な光景を見た承芳さんは、呆れたようにため息をつくのだった。
翌日、結局僕らは、昨日お互い見せ合った着物で出かけることにした。可愛いよと稲穂さんに伝えると、ありがとうございますと、女の子らしくはにかんだ。
今から長旅だ。稲穂さんの手を引き、ゆっくりと馬に乗ってもらった。袴を結ぶ帯をキュッと締め、小袖の上から薄桃色の羽織を着た。この薄桃色の羽織も女性物だった。承芳さんに、可愛らしいぞと揶揄われた。顔を赤くした僕は、彼の脛を蹴った。悲鳴を上げる承芳さんを尻目に、僕は馬に飛び乗った。
少し遅れて多恵さんが現れた。その瞬間、この場の空気が一変した。清流の袂に芽吹いた、小さな一輪の花のように、儚さと美しさが融合した、もはや神秘的な空気さえ纏っていた。今の彼女を前にしたら、羽衣を纏った天女ですら霞んで見えてしまうだろう。僕はだらんと口を開けたまま、彼女の姿に釘付けとなってしまった。横目で見た稲穂さんは、のぼせたような顔でとろんと焦点のあっていない視線を向けていた。同性の彼女まで、多恵さんの美しさに見惚れていた。
純白の小袖の上から、淡い藤色を基調とする、洗練された美しい打掛を羽織っていた。淵が丸く、真ん中がちょこんと出っ張った形をした笠を被り、薄い布が顔を隠すように垂れていた。布の隙間から、彼女の白い肌が一瞬だけ見えた。それだけで、くらっと倒れてしまいそうなほどの妖艶な雰囲気を放っていた。多恵さんは、ゆっくりとした歩幅で歩き、身をかがめて用意された輿の中へと入っていった。彼女の一挙手一投足の所作が、全て美しかった。僕らは一言も発することなく、彼女のいる方向をジッと見つめていた。
「えっと、そんなに見られると、恥ずかしいのだけど」
多恵さんの控えめな声が聞こえた。輿の中からひょこっと顔を出し、少し赤くした顔をこちらに向けていた。冷静さを見せつつも、恥ずかしそうに狼狽える彼女の姿も可愛かった。
突如として、わき腹に鋭い痛みが走った。振り返ると、般若の如く怒りに満ちた稲穂さんの顔があった。
「痛いよ稲穂さん! 一体どうしたのさ」
「見惚れすぎです関介様! 鼻の下を伸ばして、はしたない」
「そっちからじゃ見えないでしょ。それに、稲穂さんだって見惚れていたじゃないか」
言い返されて、上手く反論できないのか、ううと唸り声を上げた稲穂さんは、再び僕のわき腹を思い切りつねった。僕の叫び声が、静まり返っていた場に響き渡った。
わき腹を押さえつつ、ふと承芳さんがどんな顔をしているのかが気になった。ちらりと視線を向けると、承芳さんは、頬を赤く染め、照れくさそうに頭の後ろを掻きながらボソッと呟いた。
「その、綺麗だぞ、多恵」
「……別に」
夫婦の微笑ましいやり取りが聞こえた。承芳さんのぎこちない誉め言葉に、多恵さんは素っ気なく返した。だけど、彼女のあの一言に、以前のような冷たさは無かった。夫婦の温かい絆が見えた気がした。
一方の僕は、稲穂さんから背中をポカポカと叩かれていた。僕の妻といったら、どこか子供っぽいと言うか。まぁ僕が言えた事では無いんだけど。
「えっと、稲穂さんも綺麗だよ」
「もって何ですか、もって!」
火に油を注いでしまったようだ。多恵さんのような、上品で奥ゆかしい女性になるには、稲穂さんはまだまだ時間がかかりそうだ。
一悶着がありながらも、甲斐への旅は順調に進んでいた。道中休憩を挟みながら、険しい山道や凍える風の中を、どんどんと突き進んでいった。今回の旅は、荷物持ちやお付きの者、そして護衛兵たち、合わせて五十人ほどの大所帯だった。もちろん人数の分だけお金もかかる。僕らが提案した温泉旅行は、かなり大規模な行事になってしまった。
今はなだらかな丘に差し掛かり、僕らの間に穏やかな空気が流れていた。遠くの方から、歌声に近い鳥の鳴き声が聞こえた。館を遠く離れなければ見えなかった、手つかずの自然を全身に感じることが出来た。頭上すぐの所に小鳥が飛んでいる。僕の頭を通り過ぎ、稲穂さんの肩に止まった。稲穂さんの朗らかな笑い声が聞こえた。
丘を越えると、途端に足場が悪くなった。かなり揺れるが、馬なら問題なく進めるのだが、輿となるとそうはいかない。一旦歩を止めると、馬から降りた承芳さんが、輿に駆け寄った。
「この先、輿では危険だ。多恵、こちらへ来てくれ」
承芳さんはそう言って、自身の馬の前で、多恵さんに向けて手を差し伸べた。顔が僅かに上気している。承芳さんでなければ、白馬に乗る王子様に見えただろう。
手を向けられた多恵さんは、不思議そうな顔をして首を傾げた。承芳さんもキョトンとしている。ああと、納得したように頷くと、ふっと嘲笑気味の笑みを浮かべた。手近な側近に手で合図を送ると、一頭の立派な馬を連れてきた。多恵さんは、小袖の裾を持ち上げ、膝の上の方で紐を結んだ。まさかと思った次の瞬間、やあっと馬に飛び乗った。みなポカンとした顔をしている。一方の多恵さんは、当然のような顔で言った。
「甲斐、武田信虎の娘なの。馬に乗れて当然でしょう?」
承芳さんは、寂しそうに手を下ろし、自分の馬に乗った。哀れに思った僕は、そっと近寄りボソッと呟いた。
「僕が乗ってあげましょうか?」
「煩い」
馬を上手に操る多恵さんの背中には、さっきまでの奥ゆかしさはなく、武家の娘としての勇ましさが映った。馬が揺れて、彼女の髪が宙をうねる。奥ゆかしさはさながら静御前のよう。そして、馬を乗りこなす姿は、薙刀を操る巴御前の様でもあった。
時刻は、二日目の日暮れ頃に差し掛かった。土地勘のない僕は、ここが何処なのか見当皆目もつかない。まだまだ武田の館に辿り着かないのなら、暗くなる前に宿を見つけなければ。
すると、前方の方から、ざっざっと足音が聞こえてきた。僕らの間に、緊張が走る。まさか野党か、それとも。護衛兵が僕らの前に出る。手に持った松明で前方を照らし、敵襲に備える。
人影は一つだった。ようやく顔が見えた。僕よりも十歳近く離れてそうな青年だった。どこか気の抜けたような、優し気な表情は、武田の誰かを思わせた。青年は軽く手を挙げ、怪しいものではありませんと笑顔を見せた。
「これはこれは、今川様御一行ですね。私は、晴信様の傍に仕えております、春日虎綱にございます。晴信様がお待ちしております、そこまで、私がご案内いたしますね」
青年は、慇懃な態度で頭を下げ、踵を返すとすたすたと歩いていった。僕らは彼の背中を追って進んだ。
やや歩くと、無数の松明の灯りが見えた。よく見ると、城門のような輪郭が見える。ようやく武田の館、躑躅ヶ崎館に到着したようだ。僕はここに来るのは二回目だ。ここで、晴信くんと、そして多恵さんに初めて会ったのだった。
城門が少しずつ開き始める。前来た時と同じように、ぎぎぎっと大きな音が響いた。
城門が完全に開け放たれる。そこには、大勢の家臣たちが並んでいた。その中心、以前は信虎さんが立っていた場所に、今度は青年が立っていた。
「義元殿、関介殿、そして姉上。お待ちしておりました」




