回診
息を切らせながら、僕は廊下を走った。向かった先は承芳さんの寝室だった。急いで向かわなければ、後悔してしまう気がした。血相を変えた侍女さんの顔を見て、直感的にそう思った。長い長い廊下を駆け、右に左に曲がりようやく承芳さんの寝室が見えてきた。ぐるっと四角い形をした今川館の一番角に、承芳さんたちの寝室はあった。廊下には、何人もの侍女さんたちが、部屋の中を覗いていた。中には、涙ぐむ人の姿もあった。何故かそこで、ベッドに横たわる、全身やせ細った祖父の姿を思い出した。喉の奥がひゅっと鳴った。人混みを掻き分け、僕は飛び込むようにして部屋の中へ入った。
「承芳さん! 多恵さんの容体は、ってあれ?」
僕の目に飛び込んできたのは、布団に横たわる、やせ細った多恵さんの姿。ではなく、布団の上に腰掛け、醬油につけたお餅を美味しそうに頬張る多恵さんと、僕の顔を見て苦笑いを浮かべる承芳さんだった。想像と違う光景に、僕は何も言えずポカンとしてしまった。
「もう関介様、早いですって。あれっ、多恵様、お身体はご無事なんですか?」
ようやく追いついた稲穂さんが、肩で息をしながら意外そうに言った。僕の背中を必死に追いかけてきたのだろう、襟がはだけ、顔の化粧も汗で一部崩れてしまっていた。部屋に入って直ぐの場所で立つ僕と稲穂さんに、承芳さんはすまんと手を合わせた。それで冷静になったのか、稲穂さんは気恥ずかしそうに襟を直した。
お餅を置き、上品に口を拭った後、無言のまま承芳さんの顔を横目で見つめる多恵さん。承芳さんは、さらに申し訳なさそうに眉を寄せた。多恵さんは、軽く咳き込んだ後、面倒くさそうにかぶりを振った。
「だから大袈裟だと言ったの。方々にも心配をかけて。コホッ、コホッ。二人にも、心配をかけて申し訳ないと思ってる」
多恵さんはペコっと頭を下げて言った。僕らは慌てて、そんな事ありませんと手を振った。承芳さんは、肩を落としながら言った。
「急に多恵が庭で倒れて、どうすればよいか分からず慌ててしまい」
「私が昔から身体が弱い事くらい、貴方も知っていたでしょう。まぁ、これ以上大ごとにならなくてよかった」
そう言うと、ほっと小さく息を吐いた。騒然とした今川館を見ると、既に十分大ごとになっている気はする。ふと承芳さんの方を見ると、しまったと気まずそうな顔をしている。それに気が付いたのか、多恵さんも怪訝そうな視線を向けた。
「すまん多恵。その、既に医者を連れてくるよう京へ遣いを出してだな、三日後には駿府へ到着する事になっているんだ」
部屋の中がピシッと凍り付いた。多恵さんは、軽蔑のこもった冷ややかな視線を向け、大仰にため息をついた。冷たい視線を向けられ、泣きそうな声ですまんとだけ呟く承芳さん。さっきよりも一回りも二回りも小さくなった気がする。
まぁ承芳さんも多恵さんを思っての行動なはずだ。それに、医者に診てもらうのは、何も悪い事ではないはずだ。段々と承芳さんが可哀そうに思えてきたし、ここで一つフォローを入れてあげよう。
「その辺にしてあげてくださいよ多恵さん。承芳さんも、多恵さんの身体の事を想っての事ですし。ねえ承芳さん」
「関介ぇ」
目をウルウルとさせて抱き着いてきた承芳さん。よしよし、当主なのに鬼嫁の尻に敷かれる、可哀そうな承芳さん。僕は承芳さんの背中を優しく叩いた。二人で何してるんですかと、背後から稲穂さんの呆れた声が聞こえた。これは、男にしか分からない友情なのだよ稲穂さん。
「はぁ、煩いのが増えて、頭が痛くなってきた」
酷い言われようだ。多恵さんは、ふらっと布団に横たわり、顔だけこちらに向けムスッとした表情で言った。
「医者は嫌いなの」
僕と承芳さんは、口を半開きのまま何も言えなかった。すると僕の背後で、ぷっと噴き出す声が聞こえた。
「ふふっ、多恵様、可愛い」
「そこ、笑わない」
稲穂さんは、はーいと間延びした返事をした。そこで僕と承芳さんは、同時に噴き出した。
「笑うな!」と叫んだ。そのせいか強くむせ、承芳さんが彼女の背中をさすった。多恵さんの顔は真っ赤だ。
「多恵さん、医者で嫌な思い出でもあったんですか?」
「甲斐にいた時、京からやって来た医者に、ある丸薬を飲まされたことがあった。一口飲んで後悔した。あんなものを飲ませるなんて」
そう言うと、多恵さんは口元に手を当て、うっとえづいた。ああ、相当ゲロゲロしたんだな。というか、そんな経験をしておいて、僕や承芳さんにお手製の丸薬を飲ませていたのか。なんと恐ろしい人だろう。
「その丸薬、効果はあったのか?」
「まぁ、効果はあった。けれど、あんなものを飲ませる医者なんて嫌い」
頬を膨らませ、布団で顔を隠す多恵さん。まるで駄々をこねる女の子みたいだ。僕らの温かい視線を燦燦と浴び、多恵さんは顔を真っ赤にして、布団の中に隠れるのであった。
二人の部屋に集まった七日後、京を発った医者が駿府に到着した。なんでも随分と高名な医者で、病気を見る目は当代一と言われているそうだ。将軍足利家を診察したこともあり、他の大名からも厚く信頼されているのだとか。そんな凄いお医者さんが来てくれたにもかかわらず、多恵さんは朝から機嫌が悪かった。まぁ、医者嫌いな多恵さんにとって、高名な医者もやぶ医者も同じなのだろう。
この日の夕方ごろ、医者が返った事を確認して、稲穂さんと一緒に再び二人の寝室に出向いた。部屋の灯りが薄く廊下に差し込んでいる。よかった、まだ寝てしまってはいないようだ。実は稲穂さんと話して、ある提案をしに来たのだ。
「失礼します。多恵さん、身体の調子はどうですか?」
障子を静かに開けながら、僕は部屋の中を覗いた。返事は返ってこなかった。部屋には、布団の中でうーんと苦しそうに唸る多恵さんと、その傍らで心配そうに見つめる承芳さんがいた。承芳さんは、水を張った桶に布を付け、ギュッと絞って多恵さんの額にそっと置いた。障子の隙間から、ひゅうっと風が室内に吹いた。そこで気が付いたのか、承芳さんはゆっくり僕らの方に顔を向け、気まずそうな笑みを浮かべた。
「見ての通りだ。今頃、悪夢にうなされているのだろう」
「まさか、病気が悪化したんですか?」
背中に冷たい汗が流れた。稲穂さんも、泣きそうな声で多恵さんの名前を呟いた。横たわる多恵さんに、僕はなんと言葉をかければよいか分からなかった。
暗い顔で立つ僕らを見た承芳さんは、ああと説明を始めた。
「違うぞ関介。病は治ったのだがな」
承芳さんはそう言う、後ろの引き出しから何やら包み紙を取り出して、僕らの目の前で広げてみせた。その瞬間、僕と稲穂さんは同時に後ずさりし、鼻と口を押さえた。ちらっと見えた茶色っぽい粉末状のそれは、強烈な悪臭を放っていた。稲穂さんは、またも泣きそうな声で、臭いですと呟き、うえっとえずいた。匂いだけでこの威力だが、まさか多恵さんは。僕が信じられないといった視線を向けると、承芳さんは静かに頷いた。
「これは熊の胆を粉末にしたものだ。凄まじい匂いだが、効果はてきめんだ。本来は高価でやり取りされているのだが、此度の医師は気前が良くてな。半分の金で売ってくれたんだ」
承芳さんの言い放った薬の値段に、僕は思わず腰を抜かすかと思った。僕の給料何年、いや下手をすれば何十年かもしれない。その半額とはいえ、とてつもない値段だ。
ただどれだけ高価で、万能薬といえど、この匂いを嗅いで飲みたいかと聞かれたら、僕は迷わず首を横に振るだろう。
「あの多恵さんが、よくこの薬を飲みましたね。縛って無理やりにでも飲ませたんですか?」
「おっ、おい。人聞きの悪い事を言うな。私は立ち会っていないのだが、多恵自身が医師の話を聞いて飲むことを決めたんだ。まぁその結果がこれなのだが」
そう言って、承芳さんは苦笑いを浮かべ、多恵さんの顔を見つめた。目をキュッと閉じ、苦しそうにうなされる多恵さん。首元に流れる大量の汗と、寝間着の隙間から見える白い肌が妙に色っぽかった。治りかけが一番苦しいと聞く。多恵さんがうなされている理由は、あの臭い薬だけが原因ではないだろう。きっと彼女は、あの細い身体の中で病と懸命に戦っているのだ。その証拠に、医者が訪れる前よりも、随分顔色が良くなった。
「ところで、関介と稲穂殿は何か用があって来たのか?」
「ああそうでした。実は、多恵さんの病気の事を知った晴信くんから先日、是非甲斐の温泉に来てくださいという文が届いたんです。久しぶりの弟さんの顔を見れば、多恵さんも元気になるかなぁと稲穂さんと話していたんです。それで今日多恵さんに話そうと思ったんですけど、この様子ならまた後日にした方がいいですね」
「行く」
小さい声が室内に響いた。みんな声のした方へ同時に顔を向けた。声を出した張本人は、真っ赤な顔を上げて、とろんとした目で僕の顔を見つめていた。
「甲斐まで行く。たろ坊にまた会いたい、温泉にも入りたい」
息も絶え絶えにそれだけ言うと、多恵さんは布団に頭を付け、目を閉じてしまった。その直後、すーすーと寝息を立て始めた。さっきまでの苦しそうな呼吸は無く、穏やかな寝顔だった。
ふっと室内が温かな空気に包まれた。何だか、あんな素直な多恵さんは初めて見たかもしれない。多恵さんの傍に腰掛けた承芳さんは、彼女の髪をそっと撫でた。稲穂さんと顔を見合わせ、戻ろっかと笑った。
廊下から見えた空には、既に大きな月が昇っていた。月明りが庭先を優しく照らし、幻想的な光景が広がっていた。光に包まれた廊下は、まるで自然のヴァージンロードだ。廊下を二人で並んで歩き、寝室まで戻ってきた。
「今日の多恵様、何だか可愛らしかったですね。いつも素直になればいいと思うのですが、中々そういう訳にはいきませんね」
「自分の本心を、承芳さんに見せるのが恥ずかしいんじゃないかな。でも、きっと多恵さんの気持ちは、承芳さんには伝わっているよと思うよ」
稲穂さんはニコッと笑うと、縁側に腰掛け、月明りに照らされた庭を眺めた。僕も稲穂さんの隣に座る。今日は冬にしては珍しく、風が弱かった。冷たいそよ風が、稲穂さんの髪を揺らした。彼女の横顔を見ようと視線を向けると、丁度雲が月を隠してしまい、暗闇が彼女の顔を隠してしまった。諦めて、僕は何も見えない空を見上げた。
「多恵様、お身体が快方に向かわれればよいのですが」
「大丈夫だよ、きっと」
隠れていた月が姿をみせた。ちらと彼女の横顔を見ると、頬がキラッと光った。僕は手を合わせ、月に願い事をした。稲穂さんも同じように手を合わせ、目を閉じた。多恵さんの病気が良くなりますように。今なら、静かな風に乗って、僕らの願い事が、月まで届くような気がした。




