↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
弓取りよ天下へ駆けろ  作者: 富士原烏
PR
91/98

子宝祈願

 1549年 1月


 小豆坂で織田家を破ってから半年以上経ち、駿府には束の間の平穏が訪れていた。戦に敗れた織田信秀は、織田信広を安祥城に置き、尾張へと退いていった。これにより、三河の支配権をめぐる情勢は、今川優勢に大きく傾く事となった。だが狡猾な織田信秀の事だ、きっと一筋縄ではいかないだろう。それに、松平広忠の嫡男である竹千代くんは、いまだ織田の手にある。嫡男を奪われている広忠も、今のところは今川に従っているが、いつ織田方に寝返るか分からない。僕らの方が優勢なはずなのに、常にどこからか狙われているような恐怖がちらつく。織田信秀は、獰猛な顔で獲物を狙う毒蛇だ。結局のところ、織田家を倒さない限り、標的にされてしまった今川に本当の平穏は訪れないのだ。

 それでも、ずっと気を張っているわけにはいかない。戦国時代は、常に外からの脅威にさらされている。そんな日々を過ごすうちに、僕は仮初の平穏を楽しむ事にも慣れてきてしまっていた。それが良い事なのか、悪い事なのかは分からないけど。


 新年を迎えたのが三日前の事だった。僕は今、涼しいというには少し無理のある、突き刺すような冷たい風を全身に浴びながら馬を走らせていた。空からはちらちらと雪が降っており、地面にうっすらと積もっていた。耳がピリッと痛む。指で温めようにも、手綱を握っているため不可能だった。すると突然、両耳が柔らかな感触に包まれた。


「関介様、お耳が真っ赤ですよ」


 稲穂さんが弾むような声で言った。彼女の温もりで、耳だけではなく心までポカポカとするようだった。ずっとこうして欲しかったけど、流石に両手を話すのは危ない。


「稲穂さん、危ないから手を放しちゃだめだよ」

 

 僕がそう伝えると、はーいと聞き分けのいい返事をして、僕の小袖のわき腹辺りをきゅっと掴んだ。城下町に繰り出した僕らは今、とある神社へ向かっていた。

 新年を迎え、お祝い事が大好きな今川館では、もちろん盛大に正月行事が執り行われた。大晦日から宴会は始まり、そのままの勢いで元日も一日中酒盛りだった。正直この辺りの記憶はほとんど残っていない。元日の夜に、稲穂さんからこってりと説教を受けたのは薄っすら覚えているが、何を言われたかまではハッキリとしない。微かに袴をごしごし洗った記憶が残っている事から、まあそういう事があったのだろう。深くは思い出さない事にした。

 新年あけて二日目は、稲穂さんのご実家へ、喜介くんも一緒に三人で挨拶に向かった。二日酔いのせいで割れるように痛い頭を押さえ、重たい身体を引きずるようにして実家まで歩いた。道中、稲穂さんから向けられた冷たい視線が痛かった。喜介くんは、大体の事を察してか、乾いた笑みを浮かべた。

 実家へ着くと、僕は直ぐに机に突っ伏した。気を遣ってか、お義母さんが肩に毛布を掛けてくれた。尚も稲穂さんの突き刺すような視線は痛かったが、僕は気にしないように顔を背けた。ご両親は、お酒の付き合いがあるのでしょうと僕を庇ってくれた。実際は、僕が飲みすぎてしまっただけだが、この日は優しさに甘えることにした。最初こそ文句を言い続けていた稲穂さんも、久しぶりの実家に、少しずつ表情を和らげていった。ぐったりしている僕をそっちのけで、四人は家族水入らずの会話に花を咲かせた。僕はせめて邪魔しないように、部屋の隅っこで、温かいお茶を啜った。

 ご両親は、稲穂さんが身に着けている上等な小袖に、目を丸くして驚いていた。稲穂さんが館で侍女として働くことが決まった時、寿桂尼さんから贈られた小袖だった。絹で編まれ、淡い黄色の生地は、彼女の名前の通り豊かに実る稲穂を思わせる美しいものだった。娘の立派な姿を驚くと共に、目にうっすらと涙を溜め誇らしげに見つめていた。

 また会話の中で、ご両親は度々、身体は大丈夫なのかと心配そうに尋ねていた。稲穂さんは、その度に困ったように大丈夫だよと笑った。今はほとんど今川館で暮らしている娘を、きっと誰よりも心配しているのだろう。そんな人がいる、帰る場所があるというのはいいものだ。どんなに心が落ち込んでも、すっと楽になる。久しぶりに、現代にいたころの両親を思い出した。今でも、顔も声も鮮明に思い出せる。稲穂さんと喜介くん、そしてご両親の会話を聞いていると、胸がキュッと締め付けられた。その時の僕は、恐らく人に見せられないくらい情けない顔をしていただろう。恐らく酔いがまだ残っていたのだろう。隠すように顔を突っ伏していると、いつの間にか眠ってしまったらしい。起きた時には、すっかり酔いから醒めていた。

 三が日の最終日、つまり今日。僕らはとある神社へ向けて、馬を走らせている途中だった。すぐ背中に、稲穂さんの温度を感じる。火照った頬に、冷たい風が吹きつけた。遠くの方に、三角屋根がちらほら見えてきた。もっと近づくと、二階建て、三階建ての立派な建物が見えてきた。農村の多くは、粗悪な掘っ立て小屋のような家屋で暮らす事が多い。稲穂さんの実家もそうだった。建物群に近づくにつれ、僕はしまったと、稲穂さんに聞こえないように舌を鳴らした。このコースは外すべきだった。赤い提灯がいたる所にぶら下がり、どこか浮ついた空気が流れていた。ここは今川館の城下町一の歓楽街だった。建物の陰から、何人かの飲んだくれが顔を出した。店から出てきた男は、ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべていた。


「城下町には、このような所もあるのですね。少しお酒臭いです」


 後ろから不満気な声が聞こえた。駄目だ稲穂さん。純粋な彼女が見ていい景色ではない。馬のスピードを上げる。一刻も早くこの空間から逃げ出したかった。

 ふと前方を見ると、見覚えのある建物。建物の軒下では、一人の女性が暖簾を掛けていた。あっと、声を上げた時には遅かった。その女性がこちらに振り向き、僕の顔を見つけるや否や、大きく手を振りながら声を上げた。


「関介様、この間はどうも! うちの娘も大層喜んでいたよ。また遊びにおいでよ!」


 僕は何も言えず、ペコっと頭を下げた。店主は僕の後ろに腰掛ける稲穂さんの姿を見つけ、いけないと舌を出して頭を軽く下げた。ちらっと稲穂さんの様子を見る。彼女は建物の二階部分を、口をポカンと開けて見つめていた。その視線の先を追うと、二階の格子窓から、着物の襟をはだけさせた艶っぽい女性が、口元に妖艶な微笑みを湛えこちらを見下ろしていた。

 僕は手綱を目いっぱい押し、馬の速度はぐんぐん上がっていく。ようやく歓楽街を抜けだしたころ、右のわき腹に鋭い痛みを感じた。


「関介様、先ほどのお店は何ですか?」


「いやあ、この間友達と行ったんだよねえ。美味しい料亭でね、今度稲穂さんも、って痛い!」


「行きません!」


 次は左のわき腹に痛みが広がった。振り返らないでも分かる、稲穂さんのジトっと視線が後頭部に突き刺さる。くそ、苦しい言い訳だったか。さて、どう言い訳しようか頭を悩ませる。もちろんあの店は料亭などでは無く、いわゆる大人のお店というやつだ。当然女の人とそういう行為を。思い出したら、身体の一部がムズムズと疼いてきた。いかんと、頭を振って煩悩を振り払った。

 暫く無言が続いた。心なしか、馬の脚も重たくなった気がする。気まずい空気に押しつぶされてしまいそうだ。僕は意を決し口を開いた。


「ごめんて稲穂さん。行ったのはたった一回だけだから。それに、稲穂さんが想像する事は何も」


「稲穂の想像する事って何ですか?」


 稲穂さんの冷たい声に顔が引きつる。何と答えようか思い悩んでいると、背中からクスクスと笑い声が聞こえた。背中に柔らかな感触が広がる。心臓が大きく鳴り、身体が熱くなるのを感じた。稲穂さんは、僕の背中に頭を寄せ、楽しそうに言った。


「ふふっ、稲穂はもう怒ってませんよ。関介様も男なのですから、一度や二度、そのような経験をしますよね」


 ははっと、乾いた笑い声を上げた。一度や二度ね。まあ黙っているのが吉だろう。

 稲穂さんは、ほんのり上気した声で続けた。


「関介様が、稲穂の事を一番愛している事は分かっていますから」


「そっ、そう。ありがとう」


 僕はボソッと早口で答えた。その後お互い気恥ずかしさのあまり、長い沈黙が続いた。歓楽街を抜け、人通りのほとんどない路地裏に差し掛かる。馬の蹄だけが響く静かな道だった。稲穂さんの息遣いが直ぐ耳元で聞こえる。ふわふわと夢心地のような気分だ。丁度その時、頭上からふわふわと雪が降ってきた。お互い同時に、あっと声を漏らした。二人の肩にうっすらと雪が積もる。冷たいねと僕が呟くと、稲穂さんは、気持ちいいですねと呟いた。気温は氷点下近いはずなのに、首から上は真夏のように暑かった。

 城下町を少しだけ離れ、ようやく目的地の近くまで到着した。薄く積もった雪に、朝の日の光が反射してキラキラと銀色に光った。馬の足が止まったのは、真っ赤に染められた鳥居の目の前だった。鳥居の上にも雪が積もっていた。さっき降った雪ではなく、未明まで続いた大雪の残りだろう。近くの馬小屋に手綱を結び、僕らは鳥居の前まで歩いて戻った。ふと立札を見ると、子宝神社と達筆の文字で書かれていた。


「この先が神社だね。さ行こうか」


 二人同時にペコっと頭を下げ、鳥居をくぐって先へ進んだ。僕らがやって来たのは、名前の通り子宝祈願ができる神社だった。

 稲穂さんと正式に夫婦の契りを結んでから、人並みくらいには夜の営みを続けてきたと思う。だがそのかいもなく、僕らは子宝に恵まれなかった。多恵さんや、周りの奥さんが子供を授かるのを見て、僕ら夫婦の間に焦りが生じていた。そこで、寿桂尼さんに相談したところ、この神社をお勧めされたのだった。何でも、この神社に参詣した夫婦のほとんどが、一年以内に子供を授かるのだと。何とも眉唾物の話だったが、稲穂さんは目を輝かせ、直ぐに神社へ向かおうと喜んでいた。まぁ藁にも縋るというやつだ。だめならだめで、小旅行だと割り切れば楽しいだろう。

 石畳の真ん中を避け右側を歩いていると、正面に本堂が見えてきた。思っていたより小さかった。寿桂尼さんがお勧めするくらいだから、もっと立派な神社だと思っていた。


「静かな所ですね」


 稲穂さんが僕の顔を見上げ微笑んだ。僕もニコッと笑顔を返した。

 ただ一つだけ、僕は小さな違和感を覚えていた。ここまで歩いてきて一度も宮司さんや巫女さんの姿を見ていない。それどころか、境内の中に社務所と思われる建物も見当たらない。僕から少し遅れて稲穂さんも違和感に気が付いたのか、眉根を寄せて僕の顔を見上げた。僕はわざと明るい口調で、大丈夫だよと、頭を撫でた。不安な気持ちを抱えつつ、僕らはゆっくりと歩を進めた。


「ここが、子宝神社の本殿」


 僕の呟き声は、ピュッと吹いた風にかき消された。

 本殿に上がる階段の前に、直径が拳三つ分くらいの木桶が置かれていた。寿桂尼さんの言った通りだ。僕は懐から、二人の名前の書かれた上質な紙を取り出し、木桶の真ん中へ置いた。離れて様子を見ていると、突如正面の障子が僅かに開き、人の手がぬっと現れた。二人同時に肩をびくつかせた。その手は、ゆっくりと手招きを始めた。こっちへ来いと言っているのだろう。僕は稲穂さんの手をぎゅっと握り、慎重に階段を上がった。

 障子を開けると、目の前に二つの人影が見えた。服装から、宮司さんと巫女さんだろう。不思議な事に、二人とも能面を被っている。宮司が翁で、巫女は恐らく老婆だろう。異様な光景に、稲穂さんはひっと悲鳴を上げた。


「あの、勝手に入って来ちゃって大丈夫でした?」


 返事は返って来ない。代わりに、翁の面を被った方が、手招きして目の前に座るよう合図した。翁の前には、二つの座布団が並んで置かれていた。二の足を踏みつつ、僕らはそれぞれの座布団に座った。

 

「目を閉じよ」


 男の低い声が響いた。その声には、有無を言わせない圧があった。キュッと目を閉じる。暗闇が、不安な気持ちをより一層膨らませた。

 シャラーンという甲高い音が、頭の上で響いた。鈴か何かの音だ。続いてサラサラと、紙が擦れる音が聞こえる。自身の頭の上で何が行われているのだろうか。想像しているうちに、何だか眠たくなってきた。頭が重たい。薬を盛られたのではと考える間もなく、僕は暗い意識の底へ沈んでいった。

 目を覚まして、真っ先に確認したのは、稲穂さんだった。彼女は横たわって、すうすうと可愛らしい寝息を立てていた。僕はほっと胸を撫で下ろした。肩を優しく揺すると、小さなうめき声を漏らしながら目を覚ました。目をパチパチとさせ、僕の顔を見て、おはよとニコッと笑った。寝ぼけているのだろうか、可愛い。

 ふと人の気配がしない事に気が付き、正面を見ると、さっきまでいたはずの宮司さんと巫女さんは、煙のように消えていた。代わりに、僕と稲穂さんの目の前に、松の枝が一本ずつ置かれていた。


「何でこんな物が?」


 松の枝を拾い上げ、ボソッと呟いた。不思議と僕は、それを捨てる気にはなれなかった。

 本殿から出ると、さっきと変わらない石畳が続いていた。やっぱり人影はなく、静かな境内だった。神社からの帰り道、稲穂さんに本殿での出来事について話しを振った。


「さっき、急に眠たくなって、いつの間にか寝ちゃったけど。一体何だったんだろうね」


「分からないですけど、きっと何かのおまじないだったんですよ。これで、本当に子供ができればいいですね」


「そうだね。よしっ、今日も張り切って」


 そこまで言って、一気に顔が紅くなる。稲穂さんの顔も真っ赤だった。

 それにしても、今日は奇妙な体験をしてしまった。寿桂尼さんに、今日起きた事を早く話したい。それか、承芳さんでもいいか。あの人、この手の不思議な話が大好きだから。昔のそういった伝承を集めた書物を持って、僕の部屋に来て読み聞かせを始める事もあった。とにかく今は、誰でもいいから、さっきの不思議な話をしたくてしょうがなかった。

 城下町をすいすいと抜け、館の城門に辿り着いた。馬を降り一先ず自室に戻って休憩しよう。承芳さんのところへ行くのはそれからだ。自室に戻った僕らは、松の枝を机の上に並べた。

 その時、廊下の奥の方から、誰かが走って来る足音が聞こえた。どたどたと、明らかに普通ではない足音だ。


「関介様! 義元様がお呼びです!」


 息を切らした侍女の方が、血相を変えてそう報告した。脳裏にゾワリと嫌な予感がよぎった。


「どうしたんです?」


「多恵様の、多恵様のご容態が……」


 目の前が真っ白になった。次の瞬間には、僕は無意識に廊下を走っていた。背後から、僕を呼ぶ稲穂さんの声が聞こえたが、申し訳ないけど、気にせず承芳さんのもとへ急いだ。背中に嫌な汗がつたう。呼吸が浅いのは、走っているせいだけでは無かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。