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弓取りよ天下へ駆けろ  作者: 富士原烏
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竹千代と龍王丸

 廊下の奥から控えめなすり足が聞こえてきた。急いで顔を向けると、頬を赤く染め、遠慮がちに微笑む稲穂さんが立っていた。気が付いた時には、僕は彼女のもとへ駆けていた。彼女の細い身体を優しく抱きかかえる。頭の後ろに手を回し、彼女の髪に唇を当てた。ほんのりお香の香りがした。僕は泣きそうな声で言った。


「稲穂さん、心配したよ! 死んじゃうのかと思った!」


「大袈裟です、関介様。稲穂は大丈夫ですから」


 一瞬驚いたような声を上げた稲穂さんだったが、すぐに穏やかな声に変わった。僕の背中に手を回し、胸に顔を埋めた。首筋にかかる、彼女のサラサラとした綺麗な髪がくすぐったかった。

 僕の心配をよそに、稲穂さんはすぐに帰ってきた。顔色も悪くない。表情も明るかった。

 胸から顔を離した稲穂さんは、次に綺麗になった机へ視線を移した。あっと悲鳴に近い声を上げ、僕の顔を見上げた。首元から頭のてっぺんまで深紅に染まり、口元を手で押さえ、震える声で呟いた。


「もしかして、机を綺麗にしてくださったのって……」


「うん、僕だけど。どうかした?」


 当然のように答えると、ひゃっと声にならない悲鳴を僕の耳元で叫んだ。突然耳元で大きな声を上げないで欲しい。稲穂さんは、俯いたまま囁くように言った。


「どうかしたって、あれは稲穂の口から出た物でして。だから、その……」


 最後の方は蚊の鳴くような声で、ほとんど聞き取れなかった。何が言いたのかよく分からなかったが、妻が大変な時に助けるのが夫の務めだ。全く問題ないし、稲穂さんが気にする必要なんてない。


「気にしなくてもいいから。ちょっと匂ったけど、全然嫌じゃなかった、って痛いよ稲穂さん」


「関介様の馬鹿! もう知りません!」


 胸をポカポカと叩く稲穂さん。何だかご立腹のようだが、元気を取り戻したみたいでよかった。彼女の攻撃を喰らいながら、僕はほっと胸を撫で下ろした。

 それにしても、どうして稲穂さんは急に顔を赤くしたり、怒ったりしたのだろう。結局最後まで分からずじまいだった。


 駿府にやってきた竹千代くんは、名目上は人質という事になっているのだが、実質留学生に近い立場だった。教育係として、雪斎さんが読み書きや兵法を直接教える事になった。将来の今川家の重臣に育て上げると、随分と張り切っていた。館から少し歩いたところにある雪斎さんが住職を務めるお寺、臨済時の一画に、竹千代くん専用の勉強部屋を作るくらいにはやる気満々だった。

 竹千代くんが駿府に来て、一週間ほど経ったある日。雪斎さんは館で仕事をするらしく、竹千代くんもこちらに来ていた。館での勉強部屋には、承芳さんの部屋の隣があてがわれ、竹千代くんへの期待の大きさがよく分かった。

 仕事で忙しい雪斎さんの代わりに、今日は承芳さん直々に、竹千代くんへ勉強を教えているらしい。冷やかしではないけれど、竹千代くんの様子を見たいという事もあり、僕は勉強部屋まで足を運んだ。

 廊下に面した角部屋で、二方向から明るい日差しが照らすいい部屋だった。最近畳を替えたばかりなのか、い草の香りが微かに漂っている。廊下を出たすぐには、名高い庭師が手掛けた見事な庭園が広がっており、大きな池には上物の鯉が優雅に泳いでいた。


「分かったか竹千代。この戦乱の世において、戦というのは武力を行使する事だけではない。相手国とよりよい関係を築く事、時に謀を用い相手国より優位な外交戦略をとる事、それらもまた戦と言えるのだ。つまり、戦乱の世を生き抜く当主というのは、軍略だけを磨くのでは不十分であるのだ」


 おお、承芳さんにしては、真面目に教えを説いている。僕は障子に耳を当て、隣の部屋から承芳さんの勉強会を盗み聞きした。次はどんなありがたいお言葉を残すのだろうか。


「竹千代、少しよいか」


 承芳さんが畳から立ち上がる音が聞こえた。何処へ行くのだろうと思っていると、突然障子が開け放たれた。目を細め、湿った視線を向ける承芳さん。僕は乾いた笑い声を上げた。


「ったく、いつからそこにいたのだ、関介。盗み聞きとは、趣味が悪いな」


「別に盗み聞きなんて。勉強の邪魔になると思って、外から聞いていただけですよ」


「関介がいても邪魔にはならん。むしろ、こそこそされる方が余計に目が散る」


 そう言って、承芳さんは障子を開け中に招き入れてくれた。入ると、二人の他にもう一人、龍王丸の姿があった。承芳さんと僕のやり取りを傍らで聞いていたのだろう、僕の顔を鬱陶しそうに見つめた。なんて生意気な顔だ。最近の龍王丸は、絶賛反抗期中だ。もともと舐められていた僕はともかく、承芳さんや雪斎さんにまで口答えする事があるのだ。ただ二人は、それくらい反骨的な方がよいと、むしろ喜んでいた。確かに反抗期を迎えるのは、しっかり成長している証拠だ。承芳さんと多恵さんの、子育ての賜物だ。

 わざとらしく龍王丸の隣に腰掛けると、嫌そうな顔こそしたが、承芳さんの手前特に声を上げる事はしなかった。中断してしまった勉強会の続きだ。少しざわついてしまったが、竹千代くんは静かに机の前で待っていたようだ。庭の外を、やっぱりぽけーっと眺めている。鯉が跳ねたのを見て、楽しそうに笑った。

 その後勉強会は、粛々と行われた。立派な武士になる心構えを長々と説き、続いては漢字の読み書きの勉強だ。かなり上達してきたと自信満々な僕の隣で、達筆な字を披露する龍王丸。完璧な漢字を見せつけられ、僕の自信は何処か遠くへ飛んで行ってしまった。

 二刻、つまりおよそ四時間ほど机に向かっていただろう。そろそろお尻や腰が痛くなってきた。左隣に座る龍王丸は、四時間前と変わらず、集中力を切らさず真剣な顔で机とにらめっこしていた。


「疲れた! もうやめ!」


 突然部屋中に響き渡るほどの大声が上がった。竹千代くんは、墨の付いた筆を机に投げ捨て、畳の上でごろんと横になった。突然の事に、目を丸くする承芳さん。すると、龍王はすくっと立ち上がり、竹千代くんのもとへ歩み寄った。


「何をしている竹千代! 父上が直々に教えてくださっているというのに。それに、筆を投げるとは何事だ!」


 掴みかかろうというほどの剣幕で怒る龍王丸。承芳さんが慌てて間に入る。張本人である竹千代くんは、何が起こったのか分からないといった様子で、首を傾げながら龍王丸の顔を見つめた。厳かな空気が一変して、ギスギスとした重たい空気に変わった。出遅れてしまった僕は、黙って成り行きを見守る事にした。


「まあまあ龍王丸。竹千代もまだ五つなんだ、今日はここまでにしよう」


「むぅ、父上がそう言うのなら……」


 唇を尖らせ、明らかに納得していない様子だが、何とか落ち着いたようだ。自分の机の前に戻り、ドカッと腰掛けた。キッと竹千代くんを睨み、吐き捨てるように言った。


「父上は甘い人だが、龍はそうはいかないからな」


 竹千代くんに向けられた龍王丸の顔には、明らかな敵意が映っていた。年も近いからか、意識する事もあるのだろう。それにしても目の敵にしすぎな気がする。龍王丸だって、竹千代くんくらいの年の頃は、わがままばかりだったろうに。ここは一つ、大人げない龍王丸に、本当の大人としての態度を見せてやろう。


「竹千代くんは駿府にやってきて間もないんだから、年の近い龍王丸が優しくしてあげないと」


「関介はうるさい」


 さいですか。おっかない龍王丸には、これ以上近寄らない方がいいだろう。

 龍王丸に関わるのを諦め、竹千代くんのもとへ近寄り、膝を折って目線の高さまでしゃがんだ。目の合った竹千代くんは、にんまりと笑ってくれた。近くで見ると、前の歯が一本だけ抜けていた。とんだ間抜け面を披露する竹千代くんに、僕も思わず笑ってしまった。部屋の中に、再び温かな温度が戻ってきた。

 本日の勉強会はここでお開きとなった。早速畳の上でごろんと転がる承芳さんと、それをまねて横になる竹千代くん。一方の龍王丸は、縁側に腰掛け一人黙々と書物を呼んでいた。対照的な父と息子の姿が何だか可笑しく見えた。

 龍王丸の隣に腰掛けると、彼は書物を読みながら、器用に体を僕と反対側に捻った。どれだけ嫌われているんだ僕は。小さく苦笑し、何も言わず庭を眺めた。部屋の中とは違い、風が吹きつける縁側は肌寒かった。

 沈黙が訪れた縁側で、最初に口を開いたのは龍王丸だった。


「何故父上は、龍ではなく竹千代の肩を持つのか。正しいのは龍のはずなのに」


 そう独りごちった龍王丸は、書物を脇に置き膝を抱いた。自分の太ももに顔を埋め、声にならない変なうめき声を上げた。

 そうか、龍王丸が竹千代くんを目の敵にする理由がやっとわかった。龍王丸は、竹千代くんに嫉妬しているんだ。思わずぷっと噴き出すと、龍王丸は顔を上げこちらを睨みつけた。

 僕は空を見上げながらそっかと呟き、続けて独り言のように言った。


「龍王丸は、お父さんが竹千代くんの肩を持っているように感じるのか」


「感じるじゃない、本当の事だ」


 僕の言葉に被せる龍王丸。彼の必死な姿が愛おしく、また健気に見え、僕は目を細めて微笑んだ。


「龍王丸のお父さんはね、すごい親馬鹿だから、子供に厳しく出来ないんだ。竹千代くんの事も、本当の子どもだと思って、厳しく出来ないんだよきっと」


「ほらやっぱり。父上は龍ではなく、竹千代を跡取りにしようと考えているんだ。龍は、この家から追い出されるんだ」


 龍王丸の目に涙が浮かぶ。追い出すとは、また突拍子の無いことを。


「あの人にそんな事が出来る訳ないだろ。言ったろ、子供には厳しく出来ないって。思い出してみな、龍王丸が今の竹千代くんと同じ歳の時の事を。お父さんから、たくさんの愛情を受け取ったはずだよ。って、そんな小さかった頃の事、覚えていないか」


「覚えてる。父上は、龍を全く叱らなかった。それどころか、何度も褒めてくれた。温かい言葉をかけてくれた。龍は、たくさん愛されていた」


 とうとう龍王丸の頬に涙がつたった。彼のすぐ隣まで滑ると、ぐしゃぐしゃと頭を撫でた。龍王丸は少しも抵抗しなかった。


「そうだろう。だから、もう馬鹿な事は言わないこと。追い出されると思ってたなんてお父さんが知ったら、すごく傷つくよ。あの人を立ち直らせるのは骨が折れるんだ」


 僕が笑うと、龍王丸も小さく笑った。

 

「しょんべん! しょんべんに行きたい!」


 不意に背中から泣き声が聞こえ、二人同時に振り返った。竹千代くんは、両手で股を押さえ、その場でぴょんぴょんと飛び跳ねていた。この部屋は、館の中でも一番奥の方に位置し、ここから一番近い厠に急いでも二、三分はかかる。今の竹千代くんの様子で、間に合うのだろうか。

 心配して見守っていると、竹千代くんは急いで縁側に走り、その場で腰の紐を解き始めた。僕が制止しようとする間もなく、袴を足首まで降ろし、小さな突起部を完全に露出させてしまった。次の瞬間、澄んだ空に黄色い放物線が描かれた。

 僕と龍王丸が唖然としていると、承芳さんだけ豪快に笑った。


「ハハハッ! 今川の庭に放尿するとは、流石は竹千代だ! よし龍王丸、私たちも負けてられないぞ!」


 興奮した顔で走ってきた承芳さんは、龍王丸の腕を掴み、竹千代くんの隣まで強引に引っ張っていった。


「わわっ、父上! 龍に何をさせるつもりですか!」


「決まっておるであろう。このままでは、今川の名が廃ってしまう」


 そう堂々と宣言した承芳さんは、自分と嫌がる龍王丸の腰紐を解き始めた。龍王丸の抵抗も虚しく、二人仲良く立派なお尻が並んだ。

 黄色い放物線が二つになった。ここまで来たら諦めがついたのか、放物線は三つに増えた。僕は遠くから、引きつった顔で三人の並んだお尻を見つめた。

 丁度その時、部屋の奥から、衣が畳に擦れる音が聞こえてきた。

 

「貴方たち、先ほどからうるさいけど、しっかり勉学に励んで……」


 顔を見せたのは多恵さんだった。朝から寝込んでいたはずだが、賑やかな声につられて顔を出したのだろう。縁側に並んだ三つの桃を見て、多恵さんはその場に呆然と立ち尽くした。それもそうだ。勉強をしていると見に来たら、三人並んで立ちションをしていたんだから。

 やや青白い肌をしていた多恵さんの顔が、みるみるうちに紅く染まっていった。つかつかと三人の背後に歩み寄る。ここまで元気な多恵さんの姿は久しぶりに見た。

 三人はまだ多恵さんの存在に気が付いていない。僕はこの後に起きるであろう惨状を想像し、せめて見ないようにと部屋を後にした。


「綺麗な桃が並んでいること。でも、私はもう少し熟れている方が好みなの」


 乾いた破裂音が三回響いた。続いて、多恵さんの折檻の声が、廊下の奥まで僅かに届いた。澄んだ空に、三人の情けない声がこだました。

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