小さな命
1550年 1月
遠くの方で、ボーンと鐘の音が鳴った。激動の一年が終わり、新しい年が始まろうとしていた。
今年は色々な事があった。年明けには湯治のために甲斐に向かい、晴信くんたちと久しぶりの再会を果たした。三月には織田信広の立て籠もる安祥城を攻め、十一月には二度目の城攻めが行われた。一度目の城攻めの後には、雪斎さんに思い切り殴られたし怒られた。今でもたまに、あの日の雪斎さんの鬼のような顔を夢に見る。ふと思い出してしまい、背中に冷たい汗がつたった。
そして先月には、織田家に捕らえられていた竹千代くん駿府へようやく到着した。最初は敵意丸出しだった龍王丸も、僕が相談に乗ってあげてからは、随分と態度が軟化した。きっと竹千代くんが将来の自分の優秀な家臣になると気付き始めたのだろう。真面目な龍王丸と、どこかぼーっとしている竹千代くん。正反対な二人は、将来の今川を背負う立派な武士になるはずだ。
新年を迎えると、早朝から挨拶まわりや贔屓にしてる寺社仏閣への参詣と大忙しだ。せめて大晦日くらいはゆっくり過ごしたいのだが、結局は飲み会でべろべろに酔っ払い、二日酔いの状態で新年を迎えるのが毎年のことだった。
ただ今年はどうした訳か、誰からも飲み会を誘われなかった。喜介くんや親永さんは何処となく避けているようだったし、承芳さんには、直接宴会に参加するなと釘を刺されてしまった。別にショックを受けていないと嘯いてみせたが、猪口へ注いだ日本酒に映った僕の顔は、やっぱり寂しそうだった。
「どうしてみんな、僕を避けるんだろう」
「まあまあ。きっと皆さま、何か事情があるのですよ」
月夜に照らされた縁側へ腰掛け、日本酒をちびちびと飲みながら稲穂さんに愚痴を漏らすと、彼女はふっと柔らかな笑みを浮かべた。優しい光が稲穂さんの横顔を照らした。酔いが少し回ってきた僕は、彼女の頬に唇を当てた。
顔を離し再び猪口に手を伸ばすと、パチンと叩かれてしまった。ジトっとした視線を向けられ、おとなしく手を引っ込めた。
「そうやって稲穂の気を逸らそうとしても無駄ですからね」
そう言うと、ほろっと相好を崩した。猪口と徳利を持って一度部屋に下がった稲穂さんは、手ぶらのまま縁側に戻ってきた。僕の隣に同じように腰掛けると、澄んだ星空を見上げた。僕も彼女をまねて顔を上げた。無数の星を結ぶと、色々な絵になる。夜空は無限に広がるキャンバスだ。
清らかな風が二人の間を吹き抜け、後ろの襖をガタガタと揺らした。火照った頬に冷たい風が吹いて心地よい。遠くの方で、再び鐘の音が鳴った。年越しを知らせる鐘の音だった。星が降るような空の下で、稲穂さんと年越しを過ごせるなんて、どれだけ贅沢な事だろう。それこそ、へべれけになるまで酒を浴びる年越しよりも、ずっと愛おしい時間だと思えた。
「綺麗な星々ですね。関介様は、どの星が一番綺麗だと思いますか?」
街灯の無い戦国の夜空は、現代とは比較にならないほど星がよく見えた。比喩ではなく一千を超える星の中から一つの星を選ぶなんて、稲穂さんは難しい質問をする。僕は目を凝らしうんと悩んだ末、ちょうど真上を見上げ、ひときわ鮮やかに輝く一つの星を指さした。
「あの星かな。一番綺麗に光ってると思う」
「稲穂も……関介様と同じにございます」
呟くと、稲穂さんは僕の肩に頭をそっと寄せた。彼女の横顔は、淡い星の光の下でも分かるほど真っ赤だった。僕の顔も、きっと稲穂さんに負けないくらい赤いはずだ。
二人で一緒に指をさした星に向かって、僕は一つのお願い事をした。織姫と彦星じゃないから、叶うかどうか分からないけど。願わくは、こんな愛おしい時間が、ずっと続きますように。
今川家の年間行事への情熱はすさまじく、挨拶まわりや寺社仏閣への参詣などの儀礼的な行事を終えると、大勢の家臣が一堂に会しての大宴会が開かれる。この宴会は昼間から夜中まで続き、その間は飲めや歌えやの大騒ぎだった。それ以外にも、高名な能楽師や歌人が招かれ、華やかな舞いや連歌などを楽しむのも、貴族文化への造詣が深い今川家ならではだった。
大広間から漏れ出た微かな騒ぎ声を聞きながら、僕と稲穂さんは、自室にて二人で静かにお雑煮を食べていた。他にも新鮮な鯛のお造りや焼いた鴨肉や猪肉、野菜の煮物など豪勢な料理が広がっている。美味しそうな料理を前に、稲穂さんは目を輝かせ、口にしては頬を押さえ幸せそうに噛みしめていた。
実家への挨拶と初詣を済ませたところで、稲穂さんが少し疲れましたと言うため、昼前には館に戻ってきた。例年通りなら、今頃僕も大宴会に出席し、稲穂さんも他の侍女さんたちと一緒に宴会会場を走り回っているところだ。だが昨日の内に承芳さんより直々に、新年は二人で過ごせと言われてしまった。大晦日の日同様、僕だけ除け者だ。稲穂さんは、お手伝いをしなければと引かなかったが、他の侍女さんたちに説得され渋々納得した。
そうして今にいたるわけだが、思い返すと、昼間から二人でゆっくりと過ごす正月は初めてかもしれない。静かな正月というのは新鮮だった。大麦の香りがよく立っているお餅を飲み込み、美味しいねと笑いかけると、こんな美味しいごはんは贅沢ですねと稲穂さんも微笑んだ。傍らに重箱が置かれている。明日は喜介くんと一緒に実家へ帰省するから、そこで館の美味しいご飯を家族や農村の仲間におすそ分けするのだろう。優しい稲穂さんらしいと思った。
美味しいごはんには、やっぱりお酒がつきものだ。宴会に出られないからと、承芳さんから一升分のお酒をいただいた。濁り酒ではなく、京都にある伝手を頼って手に入れた、最高級の清酒だそうだ。一口飲むと、辛めだけどすっきりとした味わいで、奥の方に米の仄かな甘みを感じ、流石時代の先端を行く京都が作る逸品だと感心した。
「美味しいよこのお酒。稲穂さんも飲んでみてよ」
「いえ、稲穂は遠慮させていただきます」
「そんな事言わずにさ、ねっ一口だけ」
「それほどまで言うなら、では一口だけ」
やや強引に勧めると、渋々といった様子で、猪口にそっと口づけした。キュッと喉が揺れた。猪口から口を離した彼女は、目を大きくさせ、ほうと感嘆のため息を吐いた。一口だけと言った稲穂さんだが、猪口を傾ける手が止まらない。二口、三口と飲み、結局は全て飲み干してしまった。
顔を上げた稲穂さんの頬は、仄かにピンク色に染まっていた。お酒が入ったからか、一口だけといった手前恥ずかしいのか。
「つい飲み干してしまいました。ですが、これ程美味しいお酒、稲穂は飲んだことありません」
「でしょっ、美味しいよね。流石は承芳さんが苦労して手に入れたお酒だよ」
その勢いで、猪口にもう一杯注ごうとしたが、稲穂さんは丁重に断った。それじゃあと調子に乗って飲もうとしたところ、ほどほどにしてくださいねと笑った。ただし目は笑っていなかった。
理由は言わないけど、稲穂さんは最近お酒を控えている。少し前まで体調を崩す日が続き、彼女なりに身体に気を付けているのだろう。それでも最近は、食欲も体調を崩す以前ほどではないが回復してきた。頬やお腹周りもふっくらしてきたように感じる。
「それにしても、昨日に引き続き、どうして承芳さんは僕に宴会へ出るなと言うんだろう。事情があるのかもしれないけど、やっぱり寂しいよ。ねえ、稲穂さんはどうしてだと思う?」
僕が尋ねると、稲穂さんは複雑そうな顔をして黙ってしまった。いつもは僕の味方をしてくれる稲穂さんまでそうなのか。僕が何かみんなの気に障る事をしてしまったのか。ただどれだけ考えても、全く身に覚えがない。
流石に怖くなってき始めたころ、廊下の奥から歩幅の違う二つの足音が聞こえてきた。遠慮の感じられない堂々とした足音で、誰のものかすぐに分かった。後ろを歩くのは、きっと彼の息子だろう。
「おう関介、新年の挨拶に来てやったぞ。どうだ、稲穂殿と楽しくやってるか」
「あけましておめでとうございます、稲穂殿。ああ、関介もいたのか」
静かだった部屋が、一気ににぎやかになった。姿を見せたのは今川親子、承芳さんと龍王丸だった。承芳さんは、軽快に右手を上げてへらっと笑った。続いて稲穂さんに視線を向け、ペコっと頭を下げた。稲穂さんは姿勢を正し、深々と頭を下げた。龍王丸は僕の顔を見て、ニヤリとほくそ笑んだ。
僕を除け者にした張本人である承芳さんだが、どの面を下げてやって来たのだろうか。文句の一つでも言ってやりたいところだったが、新年から険悪モードも縁起が悪い。僕は口から出かかった文句を引っ込め、新年の挨拶を交わした。
「新年から相変わらず元気ですね、承芳さん。明けましておめでとうございます」
よく承芳さんの顔を見ると、頬に僅かな赤みがあった。それでも足取りもしっかりして、呂律も回っているら、宴会の席でのお酒は控えめにしたのだろう。いつもは酔うまで飲む承芳さんにしては珍しい。と一瞬だけ思ったが、床に臥せる多恵さんを気遣ったという事くらい、僕でもすぐに分かった。
本格的な寒さを迎えた去年の十二月ごろから、多恵さんの病状が一気に悪化した。一時は生死の境を彷徨っていたが、新年を迎える前には、自力で身体を起こせるまでには回復した。それでも、いつ急変してもおかしくない身体の状態なのは変わりなかった。
多恵さんの傍に居てあげたいが、当主として宴会に欠席するわけにはいかない承芳さんの気持ちを察すると、胸の奥がズキズキと痛んだ。
「それより関介、稲穂殿。時間があれば、多恵にも新年の挨拶をしてやってくれないか。二人の顔を見れば、きっと元気が湧いてくるはずだ」
そう言うと、承芳さんは気丈に笑って見せた。僕と稲穂さんは、互いに顔を見合わせ二つ返事で承諾した。
「僕もこの後、顔を見せようと思ってたところです。いいですよ、すぐに行きましょう」
「多恵様、最近はお身体も快方に向かわれているとお聞きします。お邪魔で無ければ、稲穂も顔を見たく存じます」
「よし、そうと決まれば早速参ろう」
承芳さんを先頭に廊下を歩く四人。庭の方から容赦なく冷たい風が吹きつける。冷たい風は身体に堪える。多恵さんがこれ以上体調を崩すことが無ければいいけど。
部屋の前に着くと、承芳さんは膝をつき障子を軽く叩いた。中から凛とした声が返ってきた。もっと弱弱しい返事を想像していたから、少しだけ安心した。
「多恵、関介と稲穂殿の二人を連れてきたぞ」
部屋に入ると、むせ返るようなお香の香りで充満していた。勿論いい香りだし、きっと承芳さんが取り寄せた最高級品なんだろう。不思議と思い出すのは、ベッド上で横になる祖父の姿だった。病院の独特な臭いと、この部屋のお香の香りが重なり、心に複雑な思いが溢れた。
表情で悟られないよう、僕は努めていつもの笑顔を心掛けた。布団の傍まで寄り、畳に腰掛けてから静かな声で言った。
「多恵さん、明けましておめでとうございます」
僕と稲穂さんの声が重なった。多恵さんが必死に身体を起こそうともぞもぞすると、さっと承芳さんが掛けより、背中を優しく支えた。僅かに上がった息を整え、乾いた唇をおもむろに動かし「おめでと」と呟くと、口元にいくばくかの微笑みをたたえた。
頬がこけ、喉元や布団から見えた腕は随分と痩せたが、顔色はそこまで悪くないように見えた。安心と不安が行き来するような心持ちで、思わず顔に出てしまったのだろう。
「二人とも、心配しすぎ。私は武田の娘よ、簡単には死なないの」
多恵さんはムッとした顔でそう呟いた。
「そうだ、多恵は武田信虎の娘なんだ。病気の一つや二つ、どうてことないさ」
承芳さんの言葉に、多恵さんはふんと胸を張った。入ったばかりは寒かった部屋も、気が付けばぽかぽかとした空気に満たされていた。
多恵さんは、稲穂さんの顔を見上げ弱弱しく手招きした。気が付いた稲穂さんが、枕元まで擦り寄る。
「どうしました?」
尋ねると、多恵さんはそっと稲穂さんのお腹をさすり、愛おしそうに目を細めた。その優し気な母親の表情に、稲穂さんの瞳が潤んだ。
「そうなんですよ多恵さん。稲穂さん、最近まで体調を崩していて。でもまたご飯をよく食べるようになって、少しお腹もふっくらしてきましたよね」
僕が口を開くと、どうした訳か、部屋の中にいた全員の視線が僕に集まった。何か変な事を言っただろうか。
すると、背後にいた承芳さんが僕の肩に手を置き、おいと呆れたような声で言った。
「お前は、稲穂殿がただ太ったのだと思っているのか?」
うん、そうではないのか?
僕はてっきり、最近食べるようになったから、肥えてきたのだとばかり思っていた。ならば、他に理由は何だというのか。
「貴方、本当に分からないの? 呆れたわね。稲穂、貴方から伝えてあげて」
稲穂さんは、呆れを通り越し、信じられないといった様子で口を押えていた。背中に龍王丸の冷たい視線を感じる。なんだ、龍王丸もその答えを知っているというのか。
稲穂さんは僕の正面に座り直し、真剣な表情を作った。がそれも長くは続かず、ぷっと噴き出した。
「ふふっ、関介様らしいですね。関介様、私のお腹に触れてみてください」
そう言われ、僕はおもむろに彼女のお腹に手を置く。ドクンドクンと心臓が高鳴る。それは自分の心臓だけじゃなかった。手のひらの中に感じるのは、小さな小さな命だった。
「もしかして、稲穂さん」
「ようやくお分かりになりましたか、関介様。稲穂たち、母と父になるのですよ」
稲穂さんが言い終える前に、僕は彼女の身体を抱きしめていた。頬が熱い。畳の上にぼたぼたと雫が落ちる。喉につかえたように言葉が出てこない。情けなくしゃっくりを上げる事しか出来なかった。
「関介様、新しい命です。稲穂と関介様が繋いだ、小さな命です」
「うんっ、うんっ。僕と、稲穂さんの、新しい」
稲穂さんの肩が震えていた。泣いているのだろうか。部屋に響いているのは、僕の泣く声だった。僕の背中を、彼女の温かい手がさすってくれた。承芳さんの、龍王丸の、多恵さんの温かな視線を感じる。
僕は父になったんだ。




