↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
弓取りよ天下へ駆けろ  作者: 富士原烏
PR
102/102

花見

 1550年 3月


 三月の初旬、暦上では清明に当たる。春の心地よい風が胸の中を満たし、優しい日差しは今日を生きるエネルギーとなる。清明は全ての命が生き生きと躍動し、清々しく明るく美しい季節だ。遠くの山から、ウグイスの美しい旋律が流れ、青空の彼方に悠々と飛び回るヒバリの姿も見えた。多くの生命が、平和な駿府の地で息吹いていた。

 ここ浅間神社の境内に足を踏み入れると、荘厳に構える社殿と、屋根の高さを優に超えるヤマザクラが出迎えてくれた。淡いピンク色の花の中に、赤褐色の新芽が次々と顔を覗かせている。神社の奥に見える山にも多くのヤマザクラが立ち並び、薄紅色の絨毯を広げている。

 淡いピンク色の木漏れ日の下にござを敷き、持ち寄った重箱を広げる。中には旬の山菜や肉、焼き魚が敷き詰められていた。中でも一番目を引くのが、一粒一粒のお米が立つ純白の握り飯だ。今朝稲穂さんが、せっせと握ってくれたのだ。僕が美味しそうと呟くと、彼女の頬がヤマザクラのように薄紅色に染まった。

 僕と稲穂さん、承芳さんと龍王丸、そして多恵さんの五人の声が、静かな浅間神社の境内に響き渡る。不意に承芳さんの肩に一羽の蝶がとまった。白い羽を重ね、肩の上で休息をとる蝶の邪魔にならないよう、承芳さんは唇にそっと人差し指を当てた。

 頭上高くから淡いピンク色の花びらがひらひらと舞い降りてきて、多恵さんの白い手のひらの上に落ちた。彼女の真白な頬が僅かに紅潮し、口元がほろっと綻んだ。ほっと甘い吐息を吹きかけると、花びらは風に乗って小春の青空へ舞っていった。


「ようやく春が来たわね」


 多恵さんが呟いた。そうだなと承芳さんが頷いた。肩にとまっていた蝶は、羽をはばたかせ勢いよく上空へ飛び立っていった。春は始まりの季節と言われる。それと同時に別れの季節とも言う。春の風に舞う蝶の行方を見つめる二つの横顔は、朗らかであり何処か寂しげであった。


 冷たい雪に閉ざされた一月は、まさに多恵さんにとって苦難のひと月だった。一日の大半を布団の中で過ごし、弱りはてた姿はとても見ていられなかった。だが懸命な看病と京から招集された高名な医者たちの治療、そしてなにより彼女自身の強い精神力によって、何とか命を繋ぎとめていた。

 寒さが僅かに和らいできた二月中旬。完全復活とまではいかないが、医師の判断のもと、無理のない範囲で布団から出るまで回復した。つい先日も、龍王丸と二人で庭園の池を眺めている姿を見かけた。その時の龍王丸の表情は、少年のように生き生きとしていた。当主の息子として真面目に立派に育った龍王丸だが、母親が病に伏せていた時期は、深海にまで沈んだ顔をしていた。一緒に外へ出られるようになって、きっと童心に返ったように喜びをかみしめていたのだろう。

 三月に入ってすぐ、承芳さんよりこんな提案をされた。


「一緒に浅間神社までお花見ですか? もちろん行きたいですけど、多恵さんの身体は大丈夫なんですか?」


「ああ、今はだいぶ落ち着いている。それに、花見に行きたいと言い出したのは、他でもない多恵自身なんだ」


 僕は目を見開いた。彼女の口から願望が聞かれるなんて、いつぶりだろうか。記憶を遡ってみたが全く見つからなかった。

 花見に行く、それも浅間神社までとなると、今の彼女一人の力では到底無理だ。強気で凛々しい多恵さんは、人に助けを求める事を極端に嫌う。恐らく弱い自分を見せたくないのだろう。自分の信条を破ってまで花見に行きたいというのは、それだけ強い気持ちがあるはずだ。


「是非行きましょう。大自然に触れれば、多恵さんもきっと元気を取り戻すはずです」


「そうだな、ありがとう関介。きっと多恵も喜ぶよ」


 呟いた後に、ふうと重たい息を吐きだした。庭に見える梅の木には、ちらほら若い蕾が見え始めたというのに、承芳さんの表情は暗い冬から抜け出せていなかった。僕の心の中に、冷気を帯びた嫌な予感が走った。その予感を振り払うように、僕は努めて力強く言った。


「最期の春じゃないですよ。来年も再来年も、その次も。みんなで花見に行きましょう。ねえ、承芳さん」


「ありがとう、関介」


 承芳さんは、最後まで浮かない顔をしていた。

 何とも上がり切らない気分のまま、花見当日を迎えた。


 重箱に敷き詰められた握り飯を一つ持ち上げ、真ん中まで一気にかぶりついた。仄かな米の甘みと程よい塩味が口いっぱいに広がり、米を飲み込む前に思わず美味しいと声を上げてしまった。その拍子に米が二粒ほど宙を舞い、ござの上に落ちた。


「もう関介様、食べながら喋らないでください。お行儀が悪いですよ」


「そうだ関介、汚いぞ」


 僕の左に腰掛ける稲穂さんのみならず、その左隣にちょこんと正座の姿勢をとっている龍王丸にまで注意されてしまった。ごめんなさいと素直に謝り、飛ばした米粒を拾い上げた。何気なしにひょいと口に運ぼうとした瞬間、パシンと右手を叩かれた。


「もう関介様、落ちたものを食べないでください! はしたないですよ!」


 すると正面から、小さなため息が聞こえた。春真っ盛りにもかからわず、一瞬だけ冷たい風が吹いた気がした。ため息がした方を見ると、やれやれと呆れた様子の多恵さんが、おでこを押さえながら言った。


「恥ずかしい夫を持つと大変ね」


 酷い言われようである。多恵さんの言葉に、稲穂さんはうんうんと大きく頷いた。ガックリと肩を落とすと、既に頬をかなり赤くした承芳さんが、ガハハと豪快に笑った。

 多恵さんの冷たい視線が、僕から承芳さんの方へ移った。細い腕を伸ばし、彼の鼻の先についた米粒をつまみ、自分の口の中に放った。あっと声を上げた承芳さんは、ははっと乾いた笑い声を上げた。


「恥ずかしい夫がいると大変ですね」


 稲穂さんが言った。多恵さんは大いに頷いた。僕と承芳さんは、二人並んでガックリと首を垂れた。頭の上で、二人の妻の笑い声が聞こえた。

 多恵さんが思いのほか元気でよかった。花見の直前まで、不安と焦りを混ぜ合わせた複雑な感情が胸の中を渦巻いていたが、蓋を開けてみれば、それらは全て杞憂に終わった。重箱を箸でつつき、美味しそうにご馳走を頬張る彼女の姿は、とても病人には見えない。美味しいねと龍王丸に微笑みかける彼女の顔は、凛々しく逞しい母親の顔だった。

 不安が解消すると、途端にお腹が減ってきた。美味しいごはんには、もちろん美味しいお酒が付き物だ。お猪口になみなみとお酒を注ぎ、炙った鴨肉と一緒に流し込む。かなり辛口だが、澄み渡る清流を思わせるような滑らかな飲み心地で、お猪口を傾ける手が止まらない。承芳さんも、どんどん飲めと徳利を傾けた。揺れる日本酒、飛び交う笑い声。楽しい時間が、どこかスローになって感じた。

 少しだけ焦点がぐらつき、頭の中がぽわぽわとしてきた。後から考えれば、どうしてあれだけ飲んでしまったのかと反省するのだが、飲んでいる最中は先の事まで思考が巡らない。

 酒をあおろうとお猪口に手を付けた瞬間、頭の隅に小さな手のひらが浮かんだ。ぷにぷにと柔らかい手のひら、つぶらな瞳。そしてたどたどしくも愛らしい声。その子は僕と稲穂さんの間の子だった。

 僕は伸ばしかけた手を引っ込め、ふらふらと左の方へゆっくりと倒れた。そこは硬い地面ではなく、柔らかな太ももだった。前にぷにぷにと触ったところ、本気で怒られたことを思い出した。顔を上げると、見えたのは青空ではなく稲穂さんの顔だった。目が合うと、彼女はふっと微笑んだ。


「もう飲まないんですか、関介様」


「うん、僕らの未来を想像しちゃって」


「未来?」と稲穂さんが呟く。僕は頷き、彼女の膨らんだお腹をそっと触れた。


「この子と、僕らの未来。そっかぁ、僕も父になるのかぁ。幸せだなぁ」


 思わず口元が緩んでしまった。傍から見たら、かなりだらしない顔をしているに違いない。きっとお酒がまわっているせいだ。視界の先で、稲穂さんは薄紅色の唇を仄かに震わせながら囁いた。


「稲穂も、母になるんですね。この子との未来、幸せですね」


 稲穂さんの口元が緩み、段々とだらしない顔をしていく。彼女も少しお酒を飲んでいたから、きっとそのせいだ。僕らは再び顔を見合わせ、へらっと笑い合った。


「父となる前に、お前はもう少し大人になる必要があるな」


 別の方向から水を差す声が聞こえた。顔を上げ、声を出した男の顔をキッと睨みつけた。


「余計なお世話ですよ。第一承芳さんだって、全然子供っぽいというか、大人の余裕とかないじゃないですか」


「私は関介と違ってすぐに泣かないし、夜分に一人で厠へ行けるぞ」


 痛いところを突かれ、ぐぬぬと口元から唸り声が漏れた。承芳さんはどうだと言わんばかりに笑った。確かにこの前も、夜中に多恵さんを起こして厠へついて来てもらったけど、って何でそれを知っているんだ。


「貴方、まだ一人で厠へ行けないの。そう、くふっ」


 多恵さんは顔を隠し、肩を震わせて笑い始めた。なんだ夫婦そろって馬鹿にして。妻である稲穂さんに助けを求めるよう顔を向けると、彼女は顔を熟れた林檎のような顔で、居心地悪そうに俯いていた。


「稲穂さん、どうしたの?」


「関介様、早く一人で厠へ行けるようになりましょう。ねっ?」


 消え入るような声で呟いた稲穂さんは、そのまま顔を両手で隠してしまった。

 そんなこと言われても、一人で厠へ行くのは怖いんだからしょうがないじゃないか。


「関介、龍も十歳になるまでは母上に付いて来てもらったから。そこまで気にする事は無いと思うぞ」


 龍王丸から、励まされているのか貶されているのか分からない言葉をもらった。

 腹を抱えて笑う承芳さん。肩を震わせる多恵さん。恥ずかしがる稲穂さん。そして憐憫の視線を向ける龍王丸。花見会場は、何だか不思議な空気になってしまった。


「へくちっ」


 不意に控えめなくしゃみが聞こえた。声のした方へ視線を向けると、口元を両手で抑える多恵さんと目が合った。何よと言いたげな目で睨まれた。


「大丈夫か多恵。冷えるようなら、そろそろお開きでも」


「心配しすぎ。私は大丈夫だから」


 僅かに頬を赤らめながら、口調はいつも通りだった。そんな彼女に、承芳さんは心配そうな顔で食い下がった。多恵さんの正面に座り、ジッと顔を見つめながら言った。


「多恵は無理をしすぎだ。少しは私を頼っても」


 承芳さんの必死な声に被せるように、多恵さんが声を上げた。


「いいの。もう少し、みなと此処にいたいの。だめなの?」


 二人は数秒顔を見合わせ、先に音を上げたのは承芳さんだった。ふっと息を吐き、敵わないなと呟いた。


「多恵にそう言われた、だめと言えるはずがないだろう。そうだな、もう少しこの場を楽しもう。ただ約束してくれ。本当に身体が辛くなったら、すぐに私に言うのだぞ。分かったか?」


 多恵さんはやや不服そうに唇を尖らせると、俯きがちに分かったと呟いた。どこまでも人に頼るのが苦手な多恵さんらしくかった。

 食事を終えた後、五人で連歌を楽しんだ。多恵さんや承芳さんが見事な歌を詠みあげる一方で、僕と龍王丸はへたっぴだった。言いたい事を詰め込み過ぎて字余りになってしまい、承芳さんから散々に揶揄われた。その中でも、稲穂さんは特に酷かった。七七と繋げるところ、急に十文字以上歌い始めた時は、流石の僕でも目が点になってしまった。承芳さんに指摘されると、稲穂さんは耳まで真っ赤にして僕に助けを求めた。どうしようもないねと告げると、涙目になりながらそんなあと嘆いた。多恵さんはそんなやり取りを見て、肩を震わせて笑っていた。


「みんな笑いすぎです!」


 拗ねたように頬を膨らませる稲穂さん。僕がまあまあと宥めるも、ふいと顔を背けてしまった。


「稲穂殿も、研鑽を重ねればきっと上達するさ。来月には、京から歌人を招き、連歌会を開く予定だ。もし稲穂殿さえよければ、一緒に出席しないか?」


 承芳さんがそう提案するも、ううんと、深く悩み決めきれない様子だ。するとそんな稲穂さんに助け舟を出したのは、多恵さんだった。


「それなら私も出るわ。稲穂、私と一緒ならよいでしょう」


「多恵様と一緒なら安心です! 多恵様、来月の連歌会、よろしくお願いいたします!」


 弾けるような笑顔を浮かべる稲穂さんを、多恵さんは優し気な瞳で見つめた。

 温かな空気で満たされた境内に、思いがけずやや強めの冷たい風が吹いた。背中がぶるっと震え、体温が下がってゆくのを感じた。日が傾き始め、そろそろお開きの時間が近付いてきたようだ。

 風に飛ばされた花びらが、参道にはらはらと舞った。ふと視界の端に、憂い気な表情を見せる多恵さんの姿が映った。彼女の瞳は、真っすぐに承芳さんの背中を見据えていた。僕はそこである事を想いついた。


「そうだ稲穂さん、少し参道を歩こうよ」


 僕の唐突の提案に、稲穂さんは一瞬も考える素振りを見せず、ニコッと笑いながら頷いた。そうと決まれば、僕はすくっと立ち上がり、稲穂さんに手を差し出した。彼女の温もりが手のひらに広がった。


「僕らは少しその辺りを歩いてきます。折角なので、三人は家族水入らずの時間を過ごしてください」


 そうかと不思議そうな顔をする承芳さん。彼の隣で、多恵さんは僕の目を見て、ほんの僅かに口をパクパクと動かした。僕にはそれが「ありがとう」と言っているように見えたが、気のせいかもしれない。

 稲穂さんと手を繋ぎながら石畳を歩いていく。ヤマザクラばかり目が言っていたが、参道の脇を見ると、椿や堅香子が咲いていた。少しでも注意して見れば、すぐ近くにたくさんの命が咲いているのだ。

 参道の真ん中まで歩いたところで、僕は唐突に立ち止まる。どうしたのかといった顔で見上げる稲穂さん。僕は何も言わず振り返った。彼女も同じように視線を向ける。あっと小さく声が上がった。

 満開のヤマザクラの下で、三人は身を寄せ合って空を見上げていた。その情景は、どんな写真より、高名な絵師の描いた絵画よりも美しかった。稲穂さんと顔を見合わせ笑い合った。僕らは再び、命に囲まれた参道を歩いた。

 来年も、再来年も、みんなとまたこの場所で。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。