第8話 名指し
「お名前を。……扉の外で聞きました」
墓場へ降りる階段の途中で、セキは前を向いたまま、そう言った。
乾いた金属の踏み板が私の足の裏で鳴り、その音が一段ごとに今朝より低くなっている気がした。セキの足は音を立てず、腰の短銃に置いた手も、階段を降りるあいだ一度も動かずにいる。
「アーカイブ様は、まだそうお呼びになりません。私も、まだです」
知っている、と告げられて、呼ばれずにいる。リオは私が言ったのと同じ高さで名前を返してくれたが、この人は自分の口に、まだそれを置くつもりがない。返事のしようがなく、私は踏み板の数を数えるほうへ耳を戻した。
「上の輪は真上のままです。降りてはいません」
それだけを付け足して、セキは階段を降りきった。
後ろから、スミスの大きな身体が降りてくる。作業着の内側から布包みを出し、ほどかないまま私の右手に押しつけた。布越しにも柄の窪みが分かり、開いてみると、刃の赤は今朝の机の上で見たままの細さで、掌ほどの刃渡りの半分だけを薄く照らしている。
「一度か二度だ。無駄撃ちはするな」
柄の手擦れは、やはり私の指の形に合わない。誰かの掌に磨り減った窪みへ自分の指を無理に沈め、セキに直された向きで握った。右手首の内側の線が柄の角に触れて薄く疼き、その疼きは昨日より薄い。息を吸えば肋骨はまだ軋むが、骨の位置を教えてくる声も、今朝は少し遠い。
墓場は昨日のままの形で、裂けた装甲板と折れた脚と砲身の山が、天井近くまで谷の道を作っている。倒した大きいやつは打たれた膝の側へ横倒しのまま、胸の穴を暗くして谷の奥を塞いでいた。
その残骸の脇で、破片の山が三か所、青く瞬いていた。
一つは、大きいやつの腕の下敷きになった破片の中にある。一つは、斜面に刺さった翅のすぐ上。三つ目は谷のいちばん奥で、私の胸からいちばん遠い場所で光っていた。
近づくと、手前の二つは私の胸と同じ間隔で脈を打った。糸の張る場所が熱を持ち、布の合わせ目の内側で同じ色が応える。三つ目だけが違った。私の胸が一つ打ち、二つ目を打ちかけたところで、遅れて瞬く。合っていない。
私が斜面の手前で足を止めると、手前の二つは私の胸の拍を続けたが、三つ目だけは灯ったまま一拍止まり、それから瞬きに戻った。
「昨日の朝は、一つもいなかった」
スミスは腰の棒を抜かずに、金属の指でそれぞれの方向を順に指した。三つ目を指した指が、ほかより長く止まる。
セキの目は青のどれも見ずに、私の胸を見ていた。
一つ目は、千切れた腕ほどの大きさの死械の片だった。関節から先の指だけが残っていて、私が破片の山を素足で登り始めると、その指が山の中で這い、私の踵のほうへ向きを変えた。破片の角が足の裏を押し、昨日までなら痛みの前に滑っていた足が、今日は角を掴んで止まる。
指が届く前に、青の穴へ刃を刺した。
縁で滑る。昨日の失敗が手首の線ごと蘇り、刃先を穴の奥へ滑り込ませ直して、抜かずに捻った。手応えは肘まで上がってこず、指先だけが金属を噛んでいる。
青は結び目を解かれるようにほどけ、刃から手首の線を通って、胸へ流れ込んだ。熱くも冷たくもない。ただ肩が、朝に下がっていた位置から、もう一段だけ下がる。破片の上に立ち直すと、足の裏で装甲板が、さっきより低い音で鳴った。
刃の赤が、細い一筋に痩せている。
「あと一度だ」
スミスは私ではなく刃を見て言った。這っていた指は青が抜けたあとで力なく開き、それきり動かない。
二つ目は、斜面の翅のすぐ上で瞬いていた。
残った赤は一度分しかない。三つ目にそれを取っておくべきだと、刃を握った手より先に頭が決めていた。昨日、大きいやつは私を割れ物のように掴んで胸の穴へ運ぼうとした。向こうが手で私を回収しに来たのなら、こちらも手で足りる、と思った。同じ間隔で打っているものなら、割らなくても、胸のほうへ来るはずだった。
刃を左手に持ち替え、右手を青へ伸ばした。
青は指の腹に触れた瞬間、胸へは来ずに、指の内側を上がった。爪の根元から手首へ、手首の線を跨いで肘へ。冷たいのではない。糸が一本、皮膚の内側を引き抜かれていくような痺れで、肘まで上がったところで右腕の感覚が消えた。
足首に、指が閉じた。
翅の下から出てきた小さい死械の指が、私の足首を掴んで斜面の中へ引いていた。膝が破片の角に落ち、昨日擦り剥いたほうの膝がまた擦れる。山が崩れて、腰まで沈んだ。右腕は上がらず、左手の刃は最後の一度を握ったまま、私は自分の足首を引く力に対して、何も持っていない。
乾いた音が一つ、私の肩の上を越えていった。耳の横で空気が一度だけ熱くなり、髪が銃線の風に持ち上がって、遅れて肩へ落ちた。
セキの短銃だった。銃口は私の胸と機械のあいだで迷わず、肩の高さを一直線に越えて、足首を掴んだ指の関節に当たった。指が開く。二発目が同じ場所に来て、関節から先が斜面を転がり落ちた。
振り返ると、セキは短銃を下ろさずに立っていた。目は私の胸ではなく、掴まれていた足首を見ている。
「立てますか」
立てずにいた。右腕は肘から先が私のものではなく、その痺れが指先まで戻ってくるまで、私は破片の山に腰まで埋まったまま、自分の胸の間隔で瞬く青を、手の届く高さで見ていた。セキは手を貸さず、短銃を斜面の奥へ向けたまま、私が自分の腕を取り戻すのを待っていた。
痺れが指の先まで戻ったとき、腕は昨日の切り傷より深いところで疼いていた。
刃を右手に戻し、直された向きで握り直す。窪みは相変わらず合わず、それでも二度目の穴は一度目より奥へ、刃先を滑らせるべき場所を指が覚えていた。刺して、抜かずに捻る。
青が胸へ入り、肩がまた一段沈んだ。私の足の裏で破片が、さらに低く鳴る。
刃の赤が、根元から抜けた。
色は先端から引いていくのではなく、柄のほうから灰色が上がってきて、掌ほどの刃を、ただの薄い金属に戻した。
「終いだ。赤が抜けた」
スミスが私の手から刃を取り、灯りに透かして、灰色のまま返してよこした。渡すときの指は、道具を渡す持ち方ではなく、拾った破片を人の掌へ置く持ち方になっていた。
「刃が終わったら、俺の棒で潰す。生きてないものは潰していい。俺は、生きてるやつを優先する」
棒を抜いた。昨日の曲がりはそのままで、赤い光が途切れながらも伸びる。
三つ目に近づいても、胸は引かれなかった。
糸は張らない。熱も来ない。私の胸は自分の間隔で打ち、谷の奥の青は、それとは別の速さで瞬いている。これは、欠けていたところに嵌まるものではない。
「これは、違います」
言ってはみたが、何が違うのかは自分でも説明がつかない。
横で、セキの首が小さく傾いた。短銃の上の指が一つ、強く曲がる。
「上の翅の回線を聞いています」
傾いた首は、しばらくそのままだった。
「……いま、翅ではない声が乗りました」
「輪は」
スミスが訊く。
「径が、また縮みました。真上のままです」
セキの首が、もう一度傾いた。今度は長く、目は谷の奥の青と私の胸のあいだを行き来せず、どこも見ていない。聞き取ったものを自分の口に乗せる前に、確かめている間だった。首が傾いているあいだ、谷の奥の青は瞬くのをやめて、灯ったままでいた。
「上が……エアラ、と言っています」
初めてこの人の口から出た私の名前は、私に向けられたものではなく、頭の上を通っていく声の復唱だった。リオのときに下がった肩は、一段も動かない。
「回収優先度A。名指しです」
「……失くしもんの名前を、見つけたってことか」
スミスの声は低く、棒の赤が一度だけ強く灯った。
朝に机の上で消えずに灯り続けたレンズか、たったいま胸へ入れた二つの青か。どちらから抜けたのかは分からない。分かるのは、リオに渡したばかりの三文字が、私の頭の上を通って、私を探している側の口に先に届いていたことだ。
スミスの棒が、谷の奥の破片を打った。
装甲板が割れ、骨組みが折れ、青の周りの破片が斜面を滑り落ちる。棒を引いたあと、潰れた破片の奥で、合っていない間隔の青が、まだ瞬いていた。
二度目に打っても、同じだった。
「消えねえな」
「上の輪は変わりません。径も、位置も」
セキの声は、報告の形のまま平らだった。潰しても、上は動じない。
全部消すまでは置く。それが済んだら外。全部、の中に消せないものが一つ混ざっているのを、いま三人で見ている。
名は渡すものだと思っていた。取られるものでもあった。リオの口から戻ってきた三文字は肩を一段下げたのに、いま頭の上を通っていった同じ三文字は、私のどこにも降りてこない。隣の人の口には、私に向けて置かれるより先に、上の声として乗ってしまった。
胸の糸は、この谷でも塔でもなく、線路の先の暗がりを横へ指したままだった。
灰色になった刃を、私は自分の指で握り直した。窪みは合わない。それでも柄の角は手首の線に触れ、私がまだ立っていることを痛みの薄さで教えてくる。谷の奥で瞬く三つ目に背を向けず、私は破片の上に立った。




