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第7話 音がする

「あの人、音がする」


 柱の陰から、子どもの声がそう言った。


 声のほうへ首を回そうとして、白い布が肩から昨日より低いところにあるのに気づいた。ずり落ちているのではない。布の重さは同じなのに、それを載せている肩のほうが下がっている。


 起き上がると、背中の下で寝台の板が短く鳴った。ホームの端を布で仕切っただけの一角で、昨夜スミスに「ここで寝ろ」と置かれた場所だ。板が鳴るのを聞いたのは、これが初めてだった。


 足を床へ下ろすと石の冷たさが足の裏まで届き、一歩目で踵が音を立てた。


 雨の中でも階段でも破片の上でも、昨日までの私は足音というものを持たずに歩いていた。リオは私が後ろにいることを、いちいち振り返って確かめていた。いま柱の陰の子どもは、顔も出さずに私の居場所を言い当てている。


 右手首の内側には細い線が残っていて、布の端が擦れるたびに昨日の熱を思い出す。息を吸えば肋骨が軋み、その軋みが昨日よりはっきりと骨の一本一本の位置を教えてくる。さっきより重いな、とスミスは私の手首を秤に載せて言った。重さは本人には、板と踵の音になって来るのだと知った。


「起きたか。行くぞ」


 仕切りの布の向こうに、大きな影が立っていた。スミスの腰の棒は昨日のまま半ばで曲がっていて、私の手は空だった。刃はこの人が預かっている。


 通路を歩くあいだ、足音は私のぶんだけ増えていた。スミスの大きな身体は昨日と同じで音を出さず、私の踵の音が乾いた壁に当たって戻ってくる。中枢層へ降りる床下の唸りに、それが混じる。


 本の印のある厚い扉の前に、セキが立っていた。手は腰の短銃の上にある。


「輪は墓場の真上です。降りてはいません」


 私の胸を一度見てから、セキはそう言った。昨夜から誰かがずっと空を数えていて、それがこの人だったのだと、目の下の色で分かる。


「中には入りません。扉の外で聞いています」


 スミスは扉を掌ひとつぶん開けたままにして、私を先に入れた。


 部屋は昨日のままで、壁一面の棚に紙束と金属箱と割れた端末が並んでいる。ひとつだけ違っていた。棚にあったはずの縦長のレンズが、机の上に置かれている。アーカイブは椅子に座ったまま、私ではなく、私の踵が立てた音のほうを先に見た。


「聞こう」


「墓場のでかいやつの胸から青が抜けて、こいつの胸に入った。手首を持ったら、昨日より重い。名前が出た。エアラだと言った」


 金属の指を一本ずつ折りながら、スミスは私ではなくアーカイブを見て言った。三本目で指が止まり、視線が天井へ上がる。


「上の翅の輪が、入口からあれの真上へ移った」


 四本目が折れて、報告はそれで終わった。


「エアラ」


 アーカイブは名前を一度だけ口の中で転がし、それきり呼ばずにいた。


「輪が君の真上へ移ったのなら、君を出せば翅は付いていく。昨日より、安くなった」


「出て行きます」


 昨日と同じ言葉を、昨日より確かな声で言えた。声がどこから出ているのか、いまは分かっている。


「昨日も聞いた。まだ受け取っていない」


 アーカイブは机の上のレンズを、掌の底で私のほうへ押した。


「もう一度、触ってみろ」


 昨日は棚の上の死んだ目だった。指を当てたら奥に青が灯り、離したら一拍遅れて消えた。それを、この人は今度は机の上で見ようとしている。


 指を伸ばすと硝子の表面は冷たく、冷たさは指の腹から爪の根元まで一息に上がってきた。奥で青が灯り、昨日と同じ色で、昨日と同じ速さで、私の胸の間隔に合わせて脈を打つ。


 指を離した。


 青は消えずにいた。


 一拍待っても、二拍待っても、レンズの奥の色は同じ濃さで脈を打ち続けている。机の上で、縦長の硝子がわずかに向きを変えた。私が半歩ずれると、同じだけ回ってこちらを向く。首のない頭が、目だけで人を追うときの動き方だった。


 扉が、掌ひとつぶんから肩ひとつぶんまで押し開いた。


 セキが敷居に片足を乗せて、部屋には入らずに立っていた。短銃に置いた手はそのままで、目は私ではなく、私の胸を見ている。


「輪が縮みました。真上のままです。径が、半分に」


 止め方を、私は知らずにいた。触れば灯ることは昨日覚えた。消し方は誰にも教わっていない。手を引くことしかできず、引いた手は宙で行き場を失ったまま、青は私の胸と同じ速さで机の上から呼び続けている。


「消せ」


 アーカイブの声は低いままで、怒鳴られるよりもその低さのほうが近くまで来た。消せるものなら消している。指先で、掌で、布の端で、何をどうすればあの色が引くのかが分からず、私は自分の胸を押さえた。それで消えるものではないことも、押さえてから分かった。


 横から金属の指が伸びた。


 スミスがレンズを握った。硝子が割れる音は短く、指のあいだから青い粉がこぼれて机に散り、机の上で一度だけ瞬いて、それきり灯らずに黒くなった。


「戻りました。元の径です」


 セキの声が、扉の外で少し遠くなる。


 アーカイブは、粉になったレンズを見ずに私を見ていた。


「塔から切れたものは光らない。君が触ると灯る。触っていなくても、いまは灯り続けた」


 左の義眼が、机の上の黒い粉から私の胸へ移る。


「回収優先度Aは、未登録の人間に振る番号ではない。塔が失くしたものを探すときの番号だ」


 言い返そうとした。私は塔のものではない、と。


「私は、塔の――」


 その先が、喉で止まった。塔のものではないと言うには、自分が何のものなのかを知っていなければならない。私が持っているのは、あの塔へ行かなければいけないという一本の糸と、昨日拾ったばかりの三文字だけで、どちらも塔のものではないという証拠にはならない。


 覚えているものといえば、赤い笑い方がひとつ。それも、掴もうとすれば指のあいだから抜けていく。


「覚えていないものは、否定もできない」


 アーカイブは、私が言えずにいることを、代わりに言った。


「私は記録を守る者だ。何か分からないものを、子どもの寝ている奥に置いたまま、記録は守れない」


 この人の言うことは、昨日の隊員の言うことと同じ形をしていた。正しくて、私には返す言葉がない。


「墓場に、小さいのが出てる」


 沈黙を破ったのはスミスだった。


「大きいやつが倒れたあと、山の中で二つ三つ、青が瞬き始めた。昨日の朝までは、ひとつも見ていない」


「消しに行きます」


 言ってから、自分が何を言ったのかが分かった。出て行く、と同じ口で、残る理由を自分から取りに行っている。アーカイブは、しばらく粉を見ていた。


「墓場の青を全部消すまでは置く。それが済んだら外だ」


 守ってやる、という言葉とは違った。追い出す、という言葉でもない。仕事を渡された、というのがいちばん近い。私の胸の青が墓場の青を呼び、呼んだ青を私が消せる。それが尽きれば、ここに私を置く理由も尽きる。


「刃は」


 アーカイブが訊き、スミスが作業着の内側から布包みを出した。ほどくと、刃の赤は昨日と同じ濃さのまま半分に痩せている。


「痩せた赤は戻らない。あと一度か二度で終いだ」


 布を巻き直しながら、スミスは私ではなく、机の上の黒い粉を見て言った。


「俺は生きてるやつを優先する。あれが生きてるかどうかは知らん」


 あれ、というのが墓場の青なのか、私の胸の青なのか、訊けずにいた。


 扉を出るとき、セキは私の胸ではなく踵を見ていた。その目が扉越しに何を聞き取ったのかは、読めずにいた。


 ホームへ戻る通路で、油の匂いがした。


 油と濡れた鉄と、焦げた電線の匂いだ。雨の中で私の手首を掴んだ外套の匂いで、匂いのほうが先に私の足を止めた。


 ホームの端に、リオが座っていた。金属の脚を線路のほうへ投げ出して、腕から出す銃の筒を布で拭いている。切れた機体の半分を片付けに戻る、と言って去った人が、その匂いを外套に染み込ませて戻っていた。


 顔を上げた右目が、私を見つけて、それから少し驚いたように私の足元を見た。


「白いやつ。……生きてたか」


 私は数歩のあいだ、自分の踵の音を聞きながら近づいた。柱の陰で、朝の子どもが顔を出さないまま、その音の数を数えている気配がした。


「エアラ、です。……昨日、下で拾いました」


 左の義眼の赤が、一度だけ暗くなった。生身の目なら瞬きになる長さで、それが戻ったとき、リオは私の名前を、私が言ったのと同じ音の高さで言った。


「エアラ」


 白いやつ、と呼んでいた口が、その音を置く場所を確かめるように一度だけ言って、それきりまた閉じた。


 それから手が伸びて、階段で掴んだほうの手首を取った。親指が、あのとき強く握った跡の上をなぞる。昨日スミスに秤に載せられた手首を、今日は違う人の指が、違う重さの量り方で持っていた。


「音がするようになったな。前は、後ろにいるのが分からなかった」


 親指が跡の上で止まり、それから、いまは振り向かなくても分かる、と付け足した。


 名前を渡せば、渡した側は軽くなるものだと思っていた。リオの口から戻ってきた三文字は、朝に下がった肩を、もうひとつぶんだけ下げた。


 右手首の細い線に、リオの目が移った。訊かれなかったので、私も言わずにいた。


 胸で、糸が張った。


 昨日までとは違う方向だった。下ではない。墓場のある、深いほうではない。あの塔のある、地上の遠いほうでもない。糸は横へ張って、リオが脚を投げ出している先、線路がホームの灯りを離れて暗がりに続いていく方向を、まっすぐに指していた。


 目で追ったのが分かったらしく、リオは私の視線を線路の先まで辿って、それから手首を放した。


「そっちは線路の先だ。塔とは逆だ。……何もない」


 何もない、と言うまでに右目が暗がりの奥に留まった時間は、その言葉より少しだけ長かった。


 墓場の青を全部消すまでは置く、とアーカイブは言った。消せば外だと。それが、この名前を置いておける場所の、たったいま決まったばかりの値段だった。


 糸が指しているのは、墓場ではない。


 布の上から、糸の張る場所を押さえた。押さえても、糸は横へ引くのをやめず、私は、その手を降ろした。降ろした手首には、リオの親指がなぞっていった跡が、まだ残っている。

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