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第6話 的は二つ

「胸の青、確認。……二つあります」


 隔壁の噛み合った音がまだ頭上で唸っているうちに、背後の足音は止まっていた。止まり方まで揃っていて、続いて金属の擦れる短い音が、私の背中の幅を測るように左右へ散っていく。


「スミス様、どちらを」


 若い声だった。振り向かなくても、銃口のひとつが肩甲骨のあいだに乗ったのが分かる。雨の中で翅のレンズに見つけられたときと同じで、見られている場所だけ皮膚が薄くなった。


「白いのは撃つな! 的はでかいほうだ!」


 スミスは崩れた山の裾で、曲がった棒を杖にして身体を起こしているところだった。


「射線に入っています。どかせてください」


 声は平らなままだった。


「隔壁は落ちました。上は子どもたちです。ここで死械(しかい)を止められなければ、次に止める場所がありません」


 正しい、と思った。光る胸を撃てと言われて走ってきたら、光る胸が二つあった。片方は靴も履いていない見知らぬ誰かで、逃げもせずに機械へ寄っていく。私があの銃を持っていても、同じ場所へ銃口を置いただろう。


 それでも、私は退かずにいた。私が退けば、背中の人たちはあの穴の奥を撃つ。撃たれて砕けるものが何なのかを私は知らないのに、砕けたら二度と戻らないことだけは、胸の熱が知っていた。


 半歩、横へずれてみた。背中の一点も同じだけ横へずれ、正面では胸の青が同じだけこちらを追ってくる。二つの的を結んだ線の上から、私はどちらへも降りられずにいた。


 先に動いたのは、機械のほうだった。


 スミスに打たれて沈んだ膝をさらに折り、巨体が粉を降らせながら前へ屈んでくる。残った腕が私の脇の床へ降りて、掌を上にして開いた。倒れかけた身体を支えたのだと、そのときは思った。


 見上げていた胸の穴が、私の顔の高さまで降りてきた。裂けた縁の奥で、青が私の胸と同じ間隔で脈を打っている。腕を伸ばせば届く距離だった。


 だから、突いた。


 手首を返し、刃を外へ向けて、教わったとおりの形のまま腕を伸ばした。形は合っていたのだと思う。欠けていたのはその先で、刃先は穴の縁の装甲に当たって滑り、滑った刃は私の指の力をあっさりと越えた。柄が掌の中で回り、刃の腹が手首のほうへ寝て、薄い縁が手首の内側を撫でていく。


 痛みは遅れずに来た。細い線が熱を持ち、そこから赤いものが一粒、肘のほうへ伝っていく。


 思わず腕を引いたその一瞬に、脇で開いていた掌が閉じた。床を割ったあの腕が、私の胴を掴んでいる。支えていたのではなく、私が寄るのを待っていたのだ。


 潰される、と身体を固くしたのに、指はそこで止まった。金属の指は背中と脇腹に回り、割れ物を運ぶような力で閉じている。冷たさが布を抜けて肋骨に届き、それから、足の裏にあった破片の感触が消えた。


 見た目よりだいぶ軽い、とスミスが量った身体は、機械の腕には何の重さでもないらしかった。私は抵抗らしい抵抗もできないまま持ち上がり、穴のほうへ運ばれていく。


「撃てません! 白いのが被っています!」


 スミスが横から滑り込み、曲がった棒で肘の継ぎ目を打った。火花が散っただけで、腕は止まらない。二度、三度と打つ音の向こうで、穴の奥の青がゆっくりと近づいてくる。


 この指は、床を掻いていた指だ。


 立つこともできずに長いあいだ、同じ幅の溝を同じ場所に刻み続けてきた指だった。何を掴もうとしていたのかが、掴まれてみて分かる。背中に回った指の一本が、床にしてきたのと同じ幅で私の背を一度だけ掻き、そこで止まった。外にあることが間違いだと感じていたのは、私だけではないらしい。


 回収されるのは、私のほうかもしれない。


 穴の縁が目の前まで来て、奥の光で自分の指が青く染まったとき、スミスの声が変わった。


「……なら、胸だけ狙え! 穴の奥だ!」


 止める声ではなかった。どういう戦闘スタイルが好みだ、と訊いたときの、仕事の声だった。


 言われて気づいた。足が、床を離れている。


 腰の高さにも跳べないあの脚は宙に垂れていて、爪先の下には何もなく、穴は私の胸よりも低いところで口を開けている。足の下に何もないことを、身体は少しも怖がっていない。腕が覚えている高さだった。考えるより先に右手が頭の上へ持ち上がり、天井しかないと言われたあの構えになって、そこで止まる。


 握りは、まだ駄目だった。切れた手首から力が逃げて、刃がまた寝ようとしている。私は左手を柄の上から被せ、寝かけた刃を両手で起こして、真下へ振り下ろした。


 刃は縁に触れずに穴へ落ちた。暗がりを抜けて青の真ん中へ届き、金属が金属を噛む手応えが肘まで上がってくる。巨体がびくりと跳ね、刃の赤が滲むように内側へ広がって、青の脈が乱れた。


 抜かなかった。抜けば逃げる。逃がせば、今度は溝を掻く指さえ残らないところまで逃げていく。なぜそう分かるのかは分からないまま、私は両手で柄を捻った。


 割れ物を運んでいた指が、締まった。


 肋骨が軋み、吸ったはずの息が入ってこない。視界が縁から白くなっていき、その白の向こうで誰かが何かを叫んでいる。それでも指は柄に貼りついていた。持ち続けることさえできずにいた手が、今は離し方のほうを知らない。


 青が、割れた。


 砕けたのではなかった。結び目を解かれた糸のように、穴の奥から淡い光が幾筋も浮き上がり、刃を伝い、手首の傷を越え、腕の内側を胸へ向かって流れてくる。熱くも冷たくもない。糸の張っていた場所がそれを迎え入れ、入ってきたぶんだけ、内側から押されていた布が静かに沈んでいく。


 胴を締めていた指が開いた。


 落ちた、と思ったときには足の裏が破片を踏んでいた。さっき跳びそこねて落ちたときとは、沈み方が違う。破片は足の裏に深く食い込み、膝が自分の重さを受けそこねて折れ、私は刃を握ったままの拳と左手を床についた。


 頭の上で、開いた指が空を一度だけ掻いた。床に溝を刻んでいたのと同じ動きで、今度は何も掴まずに止まる。胸の穴は暗く、巨体は打たれた膝のほうへゆっくりと傾いで、金属の山をひとつ潰しながら横倒しになった。墓場が鳴り、粉が降る。一発も撃たれないまま、それが収まるまで、誰ひとり動かずにいた。


 胸の奥が、静かだった。


 息は荒く、手首は痛み、肋骨は息をするたびに軋むのに、糸の張っていた場所だけがひとつ深いところで落ち着いている。欠けていたところに、なくしていたものが嵌まっていた。何が嵌まったのかは分からない。分からないまま、唇が先に動いた。


 舌が上顎に触れて、離れる。息が細く漏れる。意味よりも先に、口の形が音を覚えていた。数えきれないほどの声が、どれも下のほうから見上げるようにして同じ音を呼んでいて、私はそのたびに、この形で答えていたのだ。


「……エアラ」


 その三文字が喉を通ったとき、身体の輪郭が内側から一枚、はっきりした。


「エアラ。……それが、お前の名前か」


 スミスがそばに膝をついていた。倒れた機械ではなく、私を見ている。頷くと、首の重さがさっきまでより確かにあった。


「そう、みたいです。……いえ。そうです」


 声は震えていた。ただ、自分の声がどこから出ているのかが、初めて分かった。


 銃口の向こうで、誰かがその音を小声でなぞった。的に名前があるとは、誰からも聞かされずに来たのだろう。


「スミス様。離れてください」


 若い声は、今度は近かった。顔を上げると、散っていた銃口が倒れた機械から順に外れていくなかで、ひとつだけが私の胸に残っている。


「的は胸の青と聞いています。まだひとつ、灯っています」


 見下ろすと、布の下にまだ淡い色があった。スミスは立ち上がりもせず、膝をついたまま、大きな背中を銃口と私のあいだへずらした。


「よく見ろ。消えるところだ」


「見えません。スミス様の背中で」


 破片を踏む音が横へ半歩回り、スミスの肩の向こうに銃口がもう一度出てきた。胸を押さえかけていた左手を、私は床へ戻した。隠せば、この人は見えないものを撃つしかなくなる。


 光は脈をひとつ打つごとに浅くなっていった。三つめは前と同じ濃さに見えて、引き金にかかった指の節が白くなる。四つめで、布の白に戻った。構えを解く装備の音がしたのは、それからさらにひと呼吸あとだった。


「下ろしました。……スミス様、今のは何ですか」


「俺が訊きたい」


 スミスは私の右手を見て、固まった指を一本ずつ柄から剥がした。刃の赤は、渡されたときの半分ほどに痩せている。


「ただじゃなかったか。こいつはあとで診る」


 それから金属の指が、私の左の手首を取った。作業場の前でそうしたのと同じ場所を同じ指で掴んで引き起こし、立たせたところで、また止まる。秤に載せ直すように、小さく上下させた。


「……さっきより、重いな」


 独り言の大きさだった。私にも分かっていた。足の裏の破片が、階段を降りてきたときよりも深く刺さっている。


 谷の向こうから、足音がひとつ駆けてきた。


 セキは倒れた巨体の手前で足を止め、暗くなった胸の穴と、銃を下ろした隊員たちと、スミスに手首を取られた私を順に見た。手は腰にある。


「隔壁は閉じました。子どもたちは奥です。……翅が、動きました」


「降りたか」


「いいえ。旋回に戻っています。ただ、輪の中心が入口ではなくなりました。この真上です」


 スミスは天井を見上げ、それから私の胸を見た。下ろされていた銃口のひとつが、床から指一本ぶんだけ浮く。こいつが起きたのを嗅ぎやがったか、と言った人は、今度は黙っていた。


「……撃ったのですか」


 セキが訊き、若い声が答える。


「一発も。私たちは、見ていただけです」


 セキの目が、空になった穴から私の胸へ移った。短銃の上で、指がひとつ曲がる。あの中にあったものがどこへ行ったのかを、この人は口にしない。訊かれても、私には自分の胸を指すことしかできない。


「生きてるなら十分だ。だが、これは報告が要るな」


 スミスが言った。報告の相手は、ひとりしかいない。君を外へ出せば翅は去る、それがいちばん安い、と言った人だ。輪が私の真上へ移ったいま、その値段はもっと下がっただろう。


 エアラ、と声に出さずにもう一度呼んでみた。掴む前に失くしたあの赤い笑い方とは違って、これは消えずに残っている。


 脚を床に縫い止められたまま、白いやつ、と急かすように私を呼んだ人は、まだこの名前を知らない。追い出されるのなら、その前に、これだけは渡しておきたかった。

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