第5話 胸の青
気がつくと、私の足はセキの半歩前に出ていた。
アーカイブの部屋を出たときは、確かにこの人の背中を見て歩いていたのだ。それが通路を二つ曲がるうちに肩が並び、三つめの角では、セキが身体を向けるより先に私の爪先が左を選んでいた。胸の真ん中で張った糸が、床の下へ向かって斜めに私を引いていて、足はそれに従っただけだった。
「先に行かないでください」
セキの声は低く、歩幅はそのままだった。
「道を知っているのは私です。……そのはずです」
最後のひと言のところで、短銃の上の指がひとつ曲がった。初めて来た者が墓場への曲がり角を知っている。それがこの人にとって何を意味するのかは、さっき私の胸へ向いた銃口の高さが、もう教えてくれている。私は足を緩めて半歩下がり、右手の中の刃をまた見た。
刃の腹は外を向いている。セキが直してくれた向きのまま、指の位置もずらしていない。それでも見ていないあいだに勝手に自分のほうへ寝てしまう気がして、部屋を出てからもう何度も確かめていた。柄の手擦れは誰かの掌の形に磨り減っていて、私の指はその窪みのどこにも合わない。
通路の終わりに、下へ降りる階段があった。ホームへ降りたときの濡れた段とは違う乾いた金属の踏み板で、裸足の裏に粉のようなものがつく。降りるほど灯りの色が硬くなり、壁を這う配線が腕の太さになっていった。
「私が出て行く話は」
背中に訊くと、セキは前を向いたまま答えた。
「決めるのはアーカイブ様です。まだ決めていません」
まだ、という言葉が踏み板の上に残った。その数段あとで、セキの首が小さく傾く。
「……翅が増えています。降りてはきません」
報告の相手は、私ではないのかもしれない。それでも声に出してくれたのだと思うことにして、私は擦りむいた膝を庇いながら残りの段を降りた。
階段の下で、空間が急に広がった。
積まれているのは壁でも寝床でもなく、金属の山だった。裂けた装甲板、折れた脚、砲身、骨組み、絡まった配線の束が、天井の近くまで重なって谷のような道を作っている。匂いは濃いのに音は響かず、足元の細かい破片だけが、踏むたびに乾いた音を立てた。山の斜面には、見覚えのある翅が一枚刺さっている。
「墓場です。隣がスミス様の作業場になります」
セキが示した先で、薄い灯りが揺れていた。壁で区切っただけの一角から金属を叩く音が規則正しく聞こえていて、私たちの足音が届いたあたりで、その音が止まった。
灯りを背にして、人影が出てきた。
人の形をしている。けれど歩いてくるあいだに、肘が私の知っている角度より少し深く畳まれるのが見えた。肩と腰の厚みは肉ではなく骨組みの厚みで、衣服の下に硬い線が走っている。
大きな身体なのに足音は静かで、破片の上でも迷わずに足を置く。手の先は金属で、指の腹に焦げと削り痕が残っている。道具を挟まずに、あの指で直接やっているのだ。
「話は聞いてる」
スミスは私の前で止まり、白い布と白い髪と裸足を一度に見た。
「死んだ目を灯らせたってのは、お前か。手を出せ」
刃を持っていないほうの手を出すと、金属の指が手首を取った。冷たいだろうと身構えたのに、作業の熱が残っていて、人の指よりも温かい。親指が腱の上を一度押し、腕を返そうとしたところで、その指が止まった。持ち上げた私の手首を、秤に載せ直すように小さく上下させる。
「……見た目より、だいぶ軽いな」
独り言の大きさだった。それから腕を返して、肘の内側を灯りに透かす。値踏みではなく、部品の噛み合わせを確かめる目だった。
「線も継ぎ目もない。機械化はしてないみたいだな」
頷くと、スミスは手を離して首を傾げた。
「なら、どこで灯したんだか。まあいい、そっちはアーカイブの仕事だ。俺の仕事はこっちだ」
金属の指が、私の右手の刃を指した。
「どういう戦闘スタイルが好みだ」
「えっと……」
急な問いに戸惑ったのに、胸の奥の引っかかりが言葉を押し上げた。
「……空中戦、だと思います」
スミスの眉が上がり、セキの目までが一瞬こちらへ動いた。
「空中戦。機械化もしてないのにか」
「分かりません。でも、空で戦っていた気がするんです」
自分の口から出た言葉なのに遠かった。気づくと、刃を握った右手が勝手に持ち上がり、頭の上で止まっている。高いところから真下へ振り下ろす構えで、腕だけが、自分の足の下に広い空間があることを信じ切っていた。
「そいつは、上から降ってくるやつの構えだな」
スミスは天井を見上げた。
「ここには天井しかないぞ」
顔が熱くなって腕を下ろした。スミスは笑うでもなく、すぐそばの山の裾を顎で示す。腰ほどの高さに、装甲板が一枚平らに載っていた。
「あの上まで跳んでみろ。身体が何を覚えてるか、見たほうが早い」
セキの目が私の右手へ降り、何か言いかけて、やめた。刃は握ったままだった。置けばまた向きが分からなくなる気がして、私はそのまま装甲板を見て膝を曲げた。
曲げた瞬間に、身体が思い出した。床を蹴れば、蹴った以上のものが足の裏を押し上げてくれる。腰の高さなど、踏み切りの途中で過ぎていく。考えるより先に知っていることだった。
だから、蹴った。
何も、押し上げてはくれなかった。
薄い身体は蹴ったぶんだけ浮き、蹴ったぶんだけで落ちはじめた。爪先が装甲板の縁にかかり、板が斜面を滑って、私は擦りむいたほうの膝から破片の上に落ちた。痛みが遅れずに膝を刺し、開いた手から刃が跳ね、赤い光が金属の谷を二度、三度と打ちながら、墓場の奥の暗がりへ滑っていく。
乾いた音は、滑るには長すぎる距離を行ってから、遠くで止まった。
「……脚は地面のもんだな」
スミスは呆れるでもなく、滑っていった光の先を目で追っていた。
「腕だけが空を覚えてる。面白い壊れ方だ」
壊れ方、と言われたことよりも、命綱だと渡されたものを、もらっていくらも経たないうちに手放したことのほうが堪えた。持ち方を直してもらっても、持ち続けることさえできていない。私は膝に噛んだ破片を払わずに立ち上がった。
「拾ってきます」
「待て、俺も行く。どうせ奥に用がある」
刃が滑っていったのは、糸が引いているのと同じ方向だった。
奥へ行くほど灯りは弱くなり、山の影が濃くなった。スミスが先に立ち、骨組みをひとつ跨ぐたびに、膝が人とは逆のほうへ少し沈む。セキは私の後ろにいて、手は腰にある。
「空でやる気なら、刃だけじゃ届かない」
スミスは歩きながら、山から突き出た砲身を指で弾いて音を聴いた。二本めも弾いて、首を振る。
「距離が要る。銃だな。その腕で振り回せる軽さのやつを、ついでに探す。機械化する気はないんだろ」
「それは……ちょっと」
「だろうな。その腕に線を入れるのは、俺も気が進まん」
答えるあいだにも糸は強くなっていて、私の肩はスミスの背中に並びかけていた。後ろでセキの足音が半歩詰まり、私は空の右手を握って歩幅を戻した。
谷の突き当たりに、赤い光が見えた。
刃は、ひときわ大きな影の足元に落ちていた。影は山ではなかった。片腕のない胴体が壁にもたれて座り、裂けた装甲のあいだから内部が剥き出しになっていて、胸には私の頭が入るほどの穴が空いている。
「そいつが、うちの死械だ」
スミスが足を止めた。
「拾ってきたときから指が曲がるだけで、立ったことはない。塔から切れてるのに胸の奥が消えないんでな、ばらさずに置いてある。何で灯ってるのか分かれば、向こうの力をひとつ盗めるかもしれん」
穴の奥は暗く、私には消えているように見えた。刃の前に膝をつき、柄に指をかけた。
胸が、熱を持った。
糸の張る場所が内側から押されて、白い布の合わせ目から淡い青が漏れた。自分の身体が光っている、と理解するより先に、目の前の穴の奥で同じ色が灯る。その青は、私の胸の熱と同じ間隔で脈を打っていた。
「……おい。お前、胸」
スミスの声が途中で切れたのは、金属が軋んだからだった。
曲がるだけだったはずの指が床を掴んだ。その下の床には指と同じ幅の溝が幾筋も、長いあいだ掻かれてきた深さで刻まれていて、指はそこへ収まるように食い込む。
壁にもたれていた胴体が、粉を降らせながら起き上がっていく。片腕がなく、装甲は裂け、胸には穴が空いている。それでも立った。頭の縦長のレンズは割れて暗いままで、代わりに胸の青が、目のようにこちらを向いた。
背後で、短銃の抜かれる音がした。
振り向くと、銃口は私の胸と機械の胸のあいだで一度だけ迷った。同じ色が二つ灯っていて、この人にとってはどちらも撃つ理由になる。迷ったのはひと呼吸で、銃口は私の肩を越えて機械のほうへ上がった。
「そんな豆鉄砲でどうにかなるか!」
スミスの声の温度が変わった。
「セキ、戦闘部隊に連絡! すぐ来るやつを呼べ! 的は胸の青だ、見りゃ分かる!」
セキの首が傾き、すぐに戻った。
「呼びました。……スミス様、上の翅が旋回をやめています。全部、入口の真上で止まりました」
「こいつが起きたのを嗅ぎやがったか。上の隔壁を閉めてこい。子どもを奥から出すな」
「了解。スミス様もお気をつけて」
足音が谷を駆け戻っていき、残ったのは私とスミスと、立ち上がった機械だった。踏み出すたびに破片が潰れ、重い振動が床を伝って裸足の裏に届く。スミスは片手で私を後ろへ押し、もう片方の手で腰から小さなものを抜いた。握ると金属が滑って伸び、刃と同じ薄い赤を帯びた棒になる。
「お前は逃げろ。ばらさずに置いといたのは俺だ。時間は俺が稼ぐ」
言い終えたときには、もう前に出ていた。機械の踏み込みに合わせて側面へ滑り込み、逆に畳まれた膝が低い姿勢のまま身体を運んで、棒が装甲の裂け目を打って火花を散らす。大きな身体なのに速く、あの関節の角度はこのためにあるのだと分かった。
闇雲に打っているのではなかった。膝の裏、腰の継ぎ目、残った腕の付け根と、赤い棒は機械をばらすときに最初に外す場所を順番どおりに叩いていく。三つめで機械の膝が沈み、巨体が片側へ傾いだ。
それでも、相手が大きすぎた。傾いだ勢いのまま残った腕が横に薙がれ、金属の山がひとつ崩れて、スミスは弾かれるように距離を取る。腕の通ったあとの床が割れていて、かすめただけの棒は半ばから曲がり、赤い光がそこで途切れている。受けていたら、骨組みごと折れていただろう。
私の手は、いつの間にか刃を拾い上げていた。
逃げろと言われたし、それが正しいことも分かっている。腰の高さにも跳べない脚と、刃を落とす手で、あれの前に立てるはずがない。
――回収しろ。
声ではなかった。胸の熱が、言葉の形をしただけだった。あの穴の奥で脈を打っているものが何なのか、私は知らない。知らないのに、あれが自分の外にあることのほうが間違いだと、身体が言っている。
柄を握ると、刃の腹がまた手首のほうへ寝ていた。
セキがやったとおりに、私は手首を外へ返した。それから柄の上で指をひとつずつずらして、刃を外へ向ける。こう持ちます。あの指の温度を思い出しながら、今度は自分の手で直して、足を前へ出した。
「来るな! その握りで寄ったら、腕ごと持っていかれるぞ!」
スミスが振り返って叫んだ。機械はその声のほうを見もせず、スミスに背を向けて、胸の穴をまっすぐ私へ向け直す。青が強く脈を打ち、布の下で、私の胸が同じだけ光って応えた。
頭の上の遠いところで、重いものが落ちて噛み合う音がした。セキの閉めた隔壁だ、と思った。上へ戻る道は、それで塞がった。
続いて谷の向こうから、揃った足音が近づいてくる。
戦闘部隊だ。胸の青を撃てと言われて、走ってくる人たちだ。
私は自分の胸を見下ろした。白い布を透かして、的と同じ色が灯っている。
それでも足は止まらなかった。あの穴の奥にあるのは、私のものだ。




