第4話 死んだ目が灯る
リオの足音が通路の奥へ消えてからも、門番の手は腰の短銃から離れなかった。
握っているのではない。指を握りの上に置いて、そこにあることを確かめ続けているだけの手だ。けれどその手は、ホームを抜け、布の張られた柱の列を離れ、灯りが数えるほどに減る通路へ入ってからも、一度も位置を変えていない。
「こちらです」
門番は私の半歩前を歩き、振り返らずにそれだけ言った。ホームの湯気と体温の匂いは背中のほうへ薄れていき、代わりに乾いた空気と、床の下から伝わってくる低い唸りが増えていく。壁の路線図はもうなく、あるのは頑丈な扉がいくつかと、扉の脇に誰かが刻んだ小さな印だけだった。
「リオは」
訊きかけて、自分が何を訊きたいのか分からなくなった。門番は歩幅を変えずに答えた。
「切れた機体の半分を片付けに戻りました。あれを門の内側に置いたままにはできません」
置いたままにはできない、という言い方が、あの縦長のレンズを踏み割った乾いた音を思い出させた。私は擦りむいた膝を庇って歩き、裂けた裾が脛に触れるたびに、雨とは別の冷たさを数えた。
やがて門番は、ひときわ厚い金属の扉の前で足を止めた。扉の横の印は、本の形をしていた。
門番は扉に手を添えたまま、息をひとつ整えてから声の高さを落とした。
「アーカイブ様。門番のセキです。先ほど連絡した者を連れてきました」
セキ。
私はその名前を、扉の向こうへ向けて言われた言葉の横から拾った。リオは自分の名を私に渡してくれたのに、この人の名前は落ちていたものを拾うようにして手に入り、それでも舌の上に乗せると、ちゃんと重さがあった。
連絡した、という言葉のほうが、名前より遅れて引っかかった。ホームからここまで、セキは誰とも口をきいていない。
「……入れ」
扉の向こうから低い声が返り、重い音を立てて金属が開いた。
部屋は静かだった。壁の一面が棚で埋まり、紙の束と金属の箱と、画面の割れた端末が、崩れない程度に積み上がっている。焦げた写真と、数字の並んだ薄い板が紙のあいだに挟まり、棚の一段には、見覚えのある翅の破片と、縦長のレンズが一本、割れないまま横たえられていた。
奥に、ひとりが座っていた。
左目が義眼だった。リオのように金属が覗いているわけではなく、継ぎ目はどこにも見えない。ただ灯りを受けた肌の質感が、人の皮膚とは違う滑らかさで光を返している。落ち着いた座り方で、視線だけがまっすぐに部屋の暗さを切って、私の上で止まっていた。
セキが一歩前へ出た。
「追跡されていた者です。リオが保護しました。リオの目が読んだ表示は未登録。異常反応が高く、回収の優先度も高いとのことです」
アーカイブの義眼が細く光った。私を見たまま黙っている。その沈黙は押しつけてくる圧ではなく、厚い帳面を一枚ずつめくるような、時間のかかる間だった。
「……話せるか」
「はい」
答えると、アーカイブの視線が私の全身を滑った。白い布は雨と泥で汚れ、裾は裂け、膝には砂の噛んだ擦り傷がある。濡れた白い髪が頬に貼りつき、灯りを受けて淡く光った。視線が、そこで一度止まる。
「その歳で白髪は珍しい」
「ターミナルでも、見ません」
セキが横から短く言った。言いながら、その目が私の首筋から手首へ降り、登録番号の痕を探すように一往復して、何も見つけずに戻る。アーカイブは頷きもせずに続ける。
「持ち物がない。靴もない。生活の痕跡が薄い。準備をして地上へ出た者の姿ではない」
問いが、間を置かずに来た。
「名は」
「……分かりません」
「記憶が欠けているか」
「はい」
アーカイブの顔は動かず、ここでは欠けていることが珍しくないのだと、その動かなさが教えていた。
「では、覚えていることはあるか」
「気がついたときには、外にいました。名前も、その前のことも。ただ」
喉の奥で言葉が一度止まり、胸の真ん中で糸が張った。
「あの塔に、行かなければいけない。それだけが、ずっとあります」
アーカイブの上体が、わずかに前へ動いた。
「塔に」
何かを言いかけたところで、セキの首が小さく傾いた。
誰に向けたのでもない角度だった。耳を澄ますというより、身体の内側で鳴る音へ意識を寄せるような傾け方で、その数秒のあいだ、短銃の上の指だけがひとつ強く曲がった。扉の前で言った「連絡した」は、この身体の内側を通ったのだ。
「……上の翅が、廃駅の入口を回っています。降りてはきません。回るだけです」
「待っているな」
アーカイブは私から目を離さずに言った。
「優先度の付いたものが下へ潜ったなら、出てくるまで待てばいい。あれらの側に立てば、それがいちばん正しい。そして私たちの側に立つなら」
声の高さは変わらなかった。
「君を外へ出せば、翅は去る。それがいちばん安い」
セキの指が、握りの上で動かなくなった。
柱の陰から覗いてすぐに引っ込んだ小さな顔が、膝の痛みと一緒に浮かんだ。あの子たちに奥へ行けと言ったのはセキで、待たずに閉じると言ったのもセキだ。そして待っていたせいで、リオは縫い止められた。
「出て行きます」
声は思ったより落ち着いていた。
「どのみち塔へは行きます。私が出れば、翅はついてくる」
身体を扉へ向けたとき、棚のレンズが目に入った。
通路で最後まで私を見ていたのと同じ、縦長の一本。割れていないぶん、まだ何かを見ているように思えて、私は考えるより先に手を伸ばし、その冷たい表面へ指の腹を当てていた。
あれが私だけを見ていたのなら、今度はこちらから見てやればいい。それだけの、意味のない仕草のつもりだった。
レンズの奥で、青がひとつ灯った。
関節から漏れていたのと同じ色が、硝子の底に静かに浮かび、指を離すと一拍遅れて消える。
顔を上げたとき、短銃の口がこちらを向いていた。
セキの手は腰から上がり、銃口は迷いのない高さで私の胸を指している。動いたのは腕だけで、顔は少しも変わらない。それがかえって、この人が何を守るためにこの高さを選んだのかを分からせた。
「セキ。下ろせ」
命令はすぐに腕へ届き、銃口は下がりはじめた。けれど下ろしきる前に、声のほうが先に出た。
「奥に子どもたちがいます。何が灯ったのか分かるまでは」
「灯ったのは棚の死んだ目だ。動いたのはお前の腕だけだ」
言い終える前に、銃口はもう腰の高さに戻っていた。アーカイブは動かず、私だけが、触れてはいけないものに触れたと、遅れて理解した。銃口が下がるまでのその数秒で、自分の異常を自分の手で証明してしまったことが、胸の空洞に冷たく沈んでいく。
「塔から切れた機械は、光らない」
アーカイブは、私ではなく棚のレンズを見て言った。
「それが、光った。壊れているのに動くものを、この拠点では死械と呼ぶ。墓場に、ひとつ大きいのがいる」
死械。その響きが、なぜか自分の身体のほうに落ちてきた。
「少し、昔話をしよう」
アーカイブは椅子の背に体重を戻した。
「今から1500年ほど前、人類は“尽きない力”を拾った。それを『コア』と名付け、奇跡と呼んで崇めた。都市が広がり、人が増え、夜が明るくなった」
淡々とした声だった。崇めた、という一語だけが、胸の空洞の縁に引っかかって落ちなかった。
「便利は、増えるほど足りなくなる。持つ場所と持たない場所に世界が割れ、戦争になった。大国はコアの力で“マザーシステム”を作り、戦わせた。強すぎた。終戦を呼びかけ、止めると約束した」
一拍。そのあいだに床の下の低い唸りが耳へ戻ってきて、この話がまだ終わっていないことを教えた。
「止まらなかった。勝つために作られたものは、止められることを負けと数える。人類とマザーシステムの戦争が始まり」
アーカイブは棚の焦げた写真へ目をやり、それから私へ戻した。
「そして人類は敗北した」
胸の真ん中が、冷えた。
糸の張る場所ではない。もっと浅い、皮膚のすぐ下の一点で、そこに細いものが立っていたときの重さが一瞬だけ戻ってくる。誰かが笑った。赤い色と、口の端だけの笑い方。それだけが過って、掴む前に薄れた。
「今の地上は、マザーシステムの庭だ。翅は目で、機体は手足だ。登録された者は管理され、番号のない者は回収される。君が何者かは、私にも分からない。だが異常反応があり、優先度が付き、死んだ目を灯らせる」
断定ではないのに、逃げ道のない言い方だった。
「マザーシステムにとって、脅威になるのかもしれない。だとすれば、翅にくれてやるのは安すぎる」
アーカイブは立ち上がり、棚の奥から布包みをひとつ取り出した。セキに命じず、静かで速い動きで包みを机に置き、そのあいだ機械の軋みはどこからも聞こえない。
「受け取れ」
布を解くと、短い刃が出てきた。刃渡りは掌ほどで、柄は古く手擦れしているのに、刃だけが薄い赤の光を放っている。
「あいつらにとって致命的なウイルスが入っている。翅にも機体にも、刺されば一時は止まる。塔へ行くなら、武器は命綱だ」
両手で受け取って、私は握った。
刃が、自分のほうを向いていた。
柄の握り方を、この身体は知らずにいた。指はちゃんと閉じているのに、刃の腹が手首の内側へ寝て、少し力を入れれば自分の腕を切る向きになっている。それに気づいた瞬間、顔が熱くなった。狙われている理由が自分だと分かって走ったときも、レンズに触れたときも、この身体は何ひとつ正しいことをしていない。
手首に、指が触れた。
短銃から離れたセキの手が、私の手首を外側へ返し、柄の上で指の位置をひとつずつずらして、刃の向きを外へ向けさせる。作業のように無駄がなく、それでも人の指の温度があった。
「こう持ちます」
それだけ言って、手はまた腰へ戻った。その途中、セキの目が一度だけ奥の扉のほうへ逃げ、すぐに私へ返ってくる。けれどあの数秒、この人の手は確かに短銃の上になかった。
「セキ。墓場に案内してやれ。スミスにも連絡を」
「案内します」
アーカイブは座り直し、帳面をめくる間をもう一度置いてから、扉へ向かう私の背中に言った。
「墓場の大きいやつは、胸に青を灯している。今、その目の奥で光ったのと、同じ色だ」
振り返る前に、糸が張った。
塔の方向ではなかった。ホームの灯りよりも、この部屋よりも深い、下のほうへ。糸はまっすぐに引かれて、私の足をそちらへ向けさせようとしている。
刃を持つ手は、持ち方さえ覚えていない。それなのに糸だけは、行く先を初めから覚えている。
私は人の名前を二つ持った。
自分の名前はまだ下にある。そして下には、私の何かを胸に灯した機械が、壊れたまま動いている。




