第3話 門の縫い目
擦過音は、一段ずつ上ってきていた。
金属が濡れたコンクリートを噛み、離し、また噛む。その拍子が妙に遅いのは、急ぐ必要がないと分かっている者の歩き方だからだと、私は理由もなく思った。
「ここにいろ。四段目から動くな」
男は私の手首を放すと、外套の裾を払って階段を降りていった。金属の脚が段を打つ音だけが先に底へ落ちていき、私は壁のタイルに背中をつけて、目地に溜まった水が布越しに染みてくるのを感じながら、暗がりを覗き込んだ。
底には通路が伸びていた。壁に残った路線図は色が抜けて線だけになり、壊れた案内板が天井から斜めにぶら下がっている。その先で、空気が揺れていた。
揺れているという言い方しか思いつかない。通路のある一線から向こうが、水の入った硝子越しに見る景色のように歪んで、奥の灯りを細長く引き伸ばしている。さっき路地で私を閉じ込めようとした歪みと、よく似た揺れ方だった。
その境目に、何かが腹這いになっていた。
平たい。人の背丈ほどの長さの甲殻が床に張りつき、左右から折れ曲がった脚が何本も伸びて、通路の幅をほとんど塞いでいる。関節の継ぎ目からは翅の影と同じ青い光が、同じ拍子で漏れていた。胴の後ろ半分は揺らぎの中へ沈み込み、前の半分だけがこちら側に残っている。
縦長のレンズが一本、ゆっくりと持ち上がった。
それは降りてきた男ではなく、階段の上の私を見ていた。
「……挟まってやがる」
男は通路の手前で足を止め、腕の装置を展開したまま低く吐いた。それから揺らぎの向こうへ、声を張る。
「まだ閉じるな。すぐ行く」
向こうから返事があったのかは分からない。男は私を振り返らないまま、階段に届く程度の声で続けた。
「門番は俺の帰りを待って、あれを開けてたんだ。その隙に腹を突っ込まれた。今閉じれば、あいつは真っ二つになる。代わりに俺たちが外に残る」
外に残る、の意味を、頭上から降りてきた音が教えた。
翅の音だった。雨音の遠ざかった階段口のほうで、あの揃った拍子が少しずつ大きくなっている。上には翅、下には地を這うもの。私が立っている四段目は、そのちょうど真ん中にあった。
男の腕から、青い筋の走る筒が滑り出た。音はほとんどしない。光が二度、同じ一点へ吸い込まれ、甲殻の上で火花が散って、けれど機体は止まる気配も見せない。弾が表面を滑って壁のタイルを割り、破片が私の足元まで跳ねてくる。
「硬いな」
舌打ちより先に、機体が動いた。
甲殻の前端が二つに割れ、その奥から、ひと呼吸ぶんの小さな歪みが吐き出される。歪みは床を這って男の足元へ届き、金属の脚をくるぶしのあたりで床に縫いつけた。男が脚を引く。外骨格の継ぎ目が軋むだけで、脚は一寸も持ち上がらない。
「白いやつ」
男は縫い止められたまま、初めて階段の上を振り返った。義眼の赤が細く絞られている。
「壁沿いに抜けろ。あいつの脚の外側だ。門の向こうまで、止まらずに走れ」
この人は、自分を置いていけと言っている。
それが分かったときには、もう段を蹴っていた。言われた通り右の壁に肩を擦りつけるようにして降り、タイルの目地を指で拾いながら、機体の脚の外側の狭い隙間を目指す。脚の動けない者に代わって門をくぐれば、少なくとも私はこの人の足を引っ張らずに済む。そう考えたのは、半分だけ正しかった。
縦長のレンズが、私の動きに合わせて回った。
男のほうは見ていない。脚を縫い止めた獲物には一瞥もくれず、甲殻ごと首をねじって、壁沿いを走る白い布だけを追っている。路地で視界に滲んだ文字列が、耳の奥でもう一度鳴った気がした。回収優先度A。この機体が待っていたのは門をくぐる者ではなく、最初から私ひとりだった。
読み違えた足が、濡れた最後の段で滑った。
膝から通路へ落ち、擦りむいた皮膚が床の砂を噛む。痛みは一拍遅れず、落ちたその瞬間に膝の皿まで届いた。起き上がろうとした私の上を、折れ曲がった脚の一本が薙ぎ、爪の先が布の裾を裂いていく。裂けた白が床に散って、雨ではない冷たさが脛を撫でた。
壁沿いの隙間は、機体が首を回したぶんだけ狭まっていた。ここを抜けようとすれば、脚に挟まれる。
振り返ると、男は縫い止められた脚を捨てるように上体だけをねじり、筒の先を甲殻へ向け直していた。弾が滑ると分かっている場所へ、それでも撃とうとしている。
狙われているのが私なら、私が動けば、あれも動く。
そう分かっているのに、膝は床に貼りついたまま持ち上がらなかった。レンズの正面へ出るのは、あの割れた前端の真ん前へ身体を置くことで、路地で腕を振っても何も起きなかったこの身体には、歪みを避ける手立てがひとつもない。
二発目の光が甲殻の上で弾け、男の外骨格がまた軋んだ。
その音で、膝が床から剥がれた。
私は機体の正面へ飛び出し、レンズの真ん前を横切って、左の壁へ向かって這うように走った。
甲殻が軋み、レンズが私を追って大きく首を回した。回したぶんだけ前端の割れ目の向きが変わり、男の足元の歪みが、ほつれるように薄くなる。
金属の脚が床から引き抜かれる音がした。
男は一歩で機体の横へ回り込み、首をねじったせいで開いた甲殻の継ぎ目へ、筒の先を押し当てた。光が二度、今度は奥へ吸い込まれる。関節の青がばらばらに瞬き、機体の拍子が一拍遅れた。
その一拍のあいだに、手首を掴まれた。
「来い」
引かれるまま揺らぎの境目へ飛び込むと、全身の皮膚が薄い水の膜をくぐるように痺れ、耳の奥の音がひとつ残らず裏返った。背後で甲殻が床を掻き、機体が首から先を私たちのほうへ突き出してくる。
「閉じろ!」
男の声と同時に、世界の継ぎ目が戻った。
硝子越しだった景色が、まっすぐになる。振り返ると、境目のあった場所で機体が胴の真ん中から断たれ、後ろ半分は向こう側に消えていた。遅れて階段を降りてきた翅の群れが、見えない壁にぶつかったように次々と砕け、割れた翅の縁だけがこちらの床に降ってくる。
こちら側に残った前半分は、脚を二本だけ動かして、それから止まった。関節の青が一つずつ消えていくあいだも、縦長のレンズは最後まで私のほうへ向いていた。
膝に手をついて息を吐くと、肺の底に溜まっていた冷たさがようやく抜けていった。
「……まだ、こっちを見てる」
そのままの姿勢で言うと、男は黙って機体の頭へ歩み寄り、金属の脚でレンズを踏み割った。乾いた音が、通路の天井で一度だけ返ってくる。
「見ただけだ。切れた半分からは、塔まで何も届かない」
それから男は、外套の襟を指で下げた。
濡れた顔は若い男のものだった。右目は生身で、雨に打たれた睫毛が重たく下がっている。左の義眼の周りだけは肌が途切れて、滑らかな金属がこめかみまで覗き、首筋から鎖骨にかけて細い継ぎ目が一本走っていた。
「今の、なんで前に出た」
「狙われていたのは、私だったから」
男は右目だけで私を見て、何か言いかけてやめた。代わりに、裂けた布の裾と擦りむいた膝へ一度だけ視線を落とし、その視線をすぐに通路の奥へ戻す。
「……二度とやるな、とは言わない。助かった」
短く息を吐いて、男は続けた。
「俺のことは、リオと呼べ」
「リオ」
口にすると、名前は舌の上で思っていたより確かな形をしていた。自分の名前は穴の底に落としたままなのに、他人の名前なら持てるのだと、そのとき知った。
リオはもう一度私の手首を取って、通路の奥へ歩き出した。握る力は階段のときより弱く、その代わりに私の足の遅さへ歩幅を合わせている。
「どうして、私を拾ったの」
歩きながら訊くと、リオは前を向いたまま少しだけ間を置いた。
「未登録を拾うのが、俺の仕事だ」
「仕事」
「塔に番号を振られてない人間は、見つかれば回収される。あいつらにしてみれば、番号のないものは街に空いた穴で、穴は塞ぐものなんだろう。ただ、回収されたやつが戻ってきたのを、俺は一度も見たことがない」
それだけ言って、リオは口を閉じた。私の手首を握る親指が、階段で強く掴んだ跡をなぞるように一度だけ内側へずれて、それから何もなかったように元の位置へ戻っていく。
奥へ進むほど、湿った空気に別の匂いが混じり始めた。煮炊きの湯気と、焦げた配線と、大勢の人間の体温が籠もった匂いだ。壊れた改札の先でホームが開け、柱と柱のあいだに布が張られ、その向こうで小さな灯りがいくつも揺れている。柱の陰から小さな顔がひとつ覗き、私の裂けた裾を見て、すぐに引っ込んだ。
ホームの端に、人がひとり立っていた。
背筋を伸ばしてこちらへ小さく頭を下げたが、腰に置いた片手だけは、そこに提げた短銃の握りから離れていない。リオと同じように身体のどこかが機械なのだろうが、どこなのかは外から見て取れなかった。
「おかえりなさい、リオ。門は閉じました。外の翅は、全部あちら側で落ちています」
「ああ。待たせた」
「子どもたちには、奥にいるよう言ってあります」
門番は柱の陰へ一度だけ目をやり、声の調子を変えずに続けた。
「次に同じことがあれば、私はあなたを待たずに閉じます」
「それでいい」
リオは足を止めずに答えた。責めるのでも許すのでもない、とうに決まっていたことを確かめ合うだけの平らな声だった。私は門の手前で自分が転んでいた時間の長さを、膝の痛みでもう一度数え直した。
「それと」
門番は私のほうへ視線を移し、声を一段落とした。
「アーカイブ様が、その方をすぐにお連れするようにと」
リオの義眼が、細く絞られた。
「……あの人が、自分から呼ぶのか」
門番は答えずに、ただもう一度頭を下げた。
その沈黙のあいだに、胸の真ん中で糸が張った。
ホームの灯りでも、布の向こうの人の気配でもない。糸はこの地下のさらに奥、灯りの届かない下のほうへ、まっすぐに引かれている。階段の上で私を呼んでいたのと、同じ強さで。
リオが、私の手首を放した。
握られていた場所だけが、雨に濡れたときより早く冷えていく。リオは門番に顎で私を示すと、外套の裾を払って、元来た通路のほうへ歩き出した。
「リオ」
呼んだ声は、思ったより小さかった。
リオは振り返らなかった。けれど、ずっと変わらない拍子で床を打っていた金属の脚の音が、そのときだけ一拍、ずれた。
私は人の名前をひとつ持った。
自分の名前は、まだ糸の先の、暗がりの底にある。




