第2話 翅のある影
雨が頬を打っていて、それで目が覚めた。
灰色の空に黒い雲が低く滲み、瞳に落ちた雨粒を、私は瞬きもできずに受け止めていた。冷たいというより重い。一粒ずつが皮膚に刺さって、そこから溶けていく。
指が動いた。動かそうと命じた覚えはないのに、指はもう瓦礫の縁を引っ掻いていて、爪の内側に粉と錆と金属の欠片が入り込んでいる。皮膚は自分のもののはずなのに、その下が空洞のような重さで震えていた。重さが薄い。薄いまま、雨に押しつけられている。
上体を半分だけ起こすと、身体を覆っているのは白い布一枚だった。縁はどこも切れておらず、血もついていない。それなのに胸のちょうど真ん中に、布を内側から押し上げる違和感があって、指で確かめようとして、布の下へ潜る手前で指が止まった。触れたら何かが崩れる。理由はないのに、そう分かった。
顔を上げると、折れた建物の骨組みが雨の中に立っていた。裂けた高架、露出した太い配線、半分だけ光って文字にならない色を吐く看板。雨がそれを引き伸ばして、街全体が壊れた画面のように滲んでいる。
ここがどこかより先に、自分が誰なのかが分からなかった。
思い出そうとすると、記憶が欠けているという言い方では足りない穴がそこにある。心臓より深い場所に底の見えない空洞があり、つい今しがたまでそこに何か大切なものがあった、という感触だけが残っていて、恐怖は雨の冷たさより遅れて胸を締めつけた。
その空洞が、かすかに震えた。
耳ではなく胸の奥で、鈴が鳴るような震え方だった。怖いのに懐かしい。
痛みではなく、細い糸が一本、空洞の底から伸びていくような感触で、糸の先を追って視線を上げると、崩れた建物の向こうにひときわ高い黒い塔が立っていた。頂には逆さにした冠のような輪があり、そこから空へ伸びる光が雨雲を突き抜けて、巨大な目の形を作っている。瞬きをしない目だ。
糸は、その塔へ向かって張りつめていた。
遠くで何かが鳴った。鈴の音に似ていたが、鈴はひとつ鳴って終わる。これは複数で、しかも同じ拍子で少しずつ近づいてくる。
空を見上げると、雨とは違う影が滑ってきた。まっすぐ落ちてくるのではなく、横に弧を描いて、こちらへ収束してくる影。翅のある形をしていて、翅の縁が雨を裂き、裂かれた雨が腹で白い線になっている。
数えなかった。数えたら、数だけが頭に残って足が止まる。
先頭の一体から赤い光点が伸びて、私の身体をなぞった。識別なのか照準なのか分からないまま、光点が一度青く瞬き、視界の隅に意味の分からない文字列が滲んだ。未登録個体。異常反応、高。回収対象、優先度A。
回収。
その二文字が、空洞の縁に引っかかった。私を、回収する。私が何かを取り戻すのではなく、私が誰かに取り戻される側なのだと、その言葉は言っていた。
「……逃げる」
唇が自分より先に動いた。
立ち上がると足が軽かった。軽すぎて、地面を蹴るたびに身体が滑るように前へ出る。壊れた高架の下を抜け、錆びた車の列を飛び越え、割れた広告板の影を縫って走るあいだ、背後の羽音は一つが二つになり、二つが三つになっている。
錆びた車の屋根に乗った途端、屋根が内側へ抜けた。足首まで沈み、引き抜いた足の裏に何かの縁が引っかかって、痛みはまた一拍遅れて追いついてくる。
その一拍のあいだに、翅の一体が低く来た。頭のすぐ上を掠め、裂かれた雨が髪を持ち上げて、翅の腹の白い線が目の前を横切っていく。伏せたのではなく、倒れたのだ。赤い光点が背中の上を滑って布の白を一度なぞり、影が通り過ぎてから、ようやく息が吸えた。
翅の一体が短い電子音を鳴らすと、路地の出口の空気がねじれた。見えない檻のような歪みが生まれ、雨粒が弾かれて、逃げ道が閉じていく。
私は腕を振った。
何かが使えるはずだと、身体のどこかが言ったのだ。胸の奥が痛んで、指先まで熱が走りかけて、それで終わった。何も起きない。何も思い出せない。歪みだけがゆっくりと収縮して、私を閉じ込めようとしている。
もう一度振った。今度は歪みそのものへ手を伸ばし、指先が見えない壁に触れた途端、そこから手首までが冷たい水に浸したように痺れて、腕が勝手に引き戻される。
指を開いても閉じても、そこにあるはずの言葉が出てこない。口の形だけが先に動き、音を持たないまま雨に溶けた。歪みの縁は足の甲まで迫っていて、雨粒がそこで弾かれ、裸の足だけが檻の内側に取り残されている。
閉じきる寸前の隙間を、身体が勝手に抜けた。抜ける瞬間に布の裾が歪みの縁に触れ、触れた分だけが灰のようにほどけて、雨の中に散った。
水たまりに映った看板の光を踏み割った瞬間、自分の境目が一瞬だけ薄くなった気がした。雨が身体の内側を通り抜けるような感触で、怖いのに止まれず、曲がり角を抜けると前方に赤い線が走って通路を横切った。
先回りされている。赤い線は雨を貫いて動かず、線の向こうで翅が一体、こちらへ腹を向けて浮いている。糸は遠い塔を指して鳴り続けていたが、塔は遠すぎて、今のままでは辿り着く前に捕まる。
そのとき、路地の奥の壁が動いた。
壁ではない。雨を弾く外套と、金属の脚と、左目だけ赤く光る義眼を持つ背の高い人影が、滑るように現れて私の前に立った。
「動くな」
低い声と同時に片腕が上がり、腕の内側が開いて黒い板状の装置が展開した。翅からの射撃がその板に当たって火花になり、男は舌打ちをして空を睨んだ。
「……追い方が雑になってきたな。回収局の犬ども」
それから私を一瞥して、手首を差し出した。関節の隙間から金属が覗いていて、それでも動きは機械のぎこちなさではなく、生き物の滑らかさを持っていた。私が一瞬ためらうと、男は短く言い直した。
「迷ってる時間はない。掴まれ」
その手を取った。掴んだ手首は雨で冷えていて、金属の冷たさの奥で何かが規則正しく脈打っている。次の瞬間、男の腕からワイヤーが弾け、二人の身体が一気に上へ引き上げられた。
視界が跳ね、崩れた壁を越え、高架の影を抜けて、廃ビルの屋上に足が着く。屋上の床には雨が膜を張っていて、裸の足がそれを踏むたびに、さっき切った足の裏が自分の位置を教えてくる。男は息一つ乱していない。
「今は逃げるのが先だ」
言い終わる前に走り出していた。
私は一度だけ塔を見た。糸はまだそこを指している。けれど、生きていなければ辿り着けない。
前を走る男は一度も振り返らずに崩れた街を駆け抜け、外套が雨を弾き、金属の脚が水たまりを蹴散らした。息は苦しいのに足だけが妙に軽く、現実感の薄いこの身体は、逃げることにだけは向いている。
「名前は」
走りながら、男が前を向いたまま訊いた。
「……分からない」
「分からない、か」
並んで走る距離まで詰まると、外套から油と濡れた鉄の匂いがした。雨の匂いの下に、焦げた電線の匂いが一筋混じっている。男はそれ以上訊かず、訊かれたくないことを訊かない者の黙り方で前を向いていた。
「じゃあ、今日のところは、白いやつ、でいいか」
白いやつ、と呼ばれた布の裾が、走るたびに膝の裏を撫でて落ちた。名前の代わりに布の色で呼ばれることが、腹立たしくも悲しくもなかった。名前がないというのは、そういうことなのだと、そのとき初めて知った。
男は外套の片側だけを、わずかに私へ寄せた。雨の向きを変えるだけの動きで、それ以上ではない。
膝から下の片方だけ、水たまりを蹴る音が違う。布ではなく、雨が外骨格に当たる音だ。関節の継ぎ目を雨が伝って、外套の裾から落ちていく。
「その脚は」
訊いてから、訊いてよかったのかと思う。男は答えるまでに一拍置き、その一拍のあいだも金属の脚だけは変わらない拍子で水を蹴っていた。
「なくした。それだけだ」
なくした、と言った声は、さっき犬どもと言った声より、少しだけ他人の声に近かった。
それ以上を訊く言葉は出てこなかった。代わりに男の脚の拍子へ自分の足を合わせると、走るのが少しだけ楽になった。
男が急に進路を変え、私の手首を掴んで飛び込んだ先は、地下へ降りる古びた駅の入口だった。階段を駆け下りると雨音が遠ざかり、代わりに金属の軋みと古い電気の唸りが耳に満ちる。男は私の手首を握ったまま、その握りに鎖のような緊張を伝えてきて、私はその緊張で彼の速度を読んだ。
階段の四段目あたりで、男が不意に肩越しに振り返った。義眼の赤が、瞬き一つ分だけ細く絞られる。
「……まずいな。下の歪門、開いたままだ」
歪門、という耳慣れない語を聞き返す前に、階段の底の暗がりから違う音が上がってきた。翅の音ではない。もっと低い、地面をこする金属の擦過音だ。
「一頭、先に着いてる」
手首を握る男の指に、わずかに力が入る。
「聞いてるか、白いやつ。お前を追ってる犬は、空だけじゃない。地を這うのも、いる」
胸の真ん中の違和感が、そこでもう一度鳴った。
鈴ではなく、糸が張る音だった。張った糸の先は、背後の翅の方角ではなく、階段の下の暗がり、そこで地をこすっている何かと同じ方向へ、まっすぐ引かれている。逃げる先と、呼ばれる先が重なっている。
重なっていることに、私は下唇を噛んだ。噛んだ強さで下唇の内側に初めて血の味がして、痛みが遅れてではなく、ちゃんとその瞬間に追いついた。
戻れ、ではない。来い、と呼んでいる。
呼んでいるものの名前を、私はまだ持っていない。それなのに、その名前に会うためには、先に地を這うほうを越えなければならないらしい。




