第1話 神が砕けた日
「私は、神だ――」
その一言を口にしたとき、白髪の少女にはもう、それを届けるだけの息が残っていなかった。胸の中心に銀の刃が立っている。刃は白い肌を貫いたところで止まり、呼吸に合わせて刃先が骨の縁を擦るたびに、爪で硝子を引くような細い音が身体の内側から聞こえた。その音だけが、彼女がまだここにいることの証だった。
血は出ていない。刃が傷を塞いでいるからで、代わりに刃の付け根から淡い金色の光が糸のようにほどけ、白い布の裾を伝って床へ落ちていく。落ちた光は床に触れる手前で薄くなり、何も残さずに消えた。
足音が四つ、彼女を囲むように半円を描いて止まった。
正面に立つのは赤い髪の女で、その右には褐色の肌に紫の瞳をした女が腕を組んでいる。左では黒髪の大男が大剣を肩に担いだまま息を整え、少し離れた場所に立つ青い髪の青年だけが、こめかみに指を当てて少女ではなく少女の背後の空気を見ていた。
二人の男と二人の女。どの目も戦い慣れていて、どの目にも、もう終わったという色があった。
「……神? まだそんなことを言うのね」
赤髪の女は口の端だけで笑い、床に落ちた金色の糸を爪先で踏んだ。糸は音もなく消え、彼女の靴の下には何も残っていない。
少女は答えなかった。喉は動くし舌も動くのに、この四人に向けて並べる言葉は、最初の一太刀でとうに盗られていた。誰の刃が先に胸を抉ったのか、その順番も痛みも、濡れた布の上を滑る水のように記憶のどこにも引っかからず、残っているのは骨を擦る細い音と、四人分の靴の並びだけだ。
「綺麗ね、あの光」
褐色肌の女が糸の消えた床を見ながら言い、赤髪の女は鼻で笑った。
「綺麗も何もないわ。こいつ、まだ魔法を残してる」
言われるより先に、少女の背後で空気が鳴っていた。
魔法陣だった。指先で引いた跡のように細く頼りない線が、彼女の背を中心にして一本ずつ閉じていく。線が一本閉じるたびに周囲の壁がわずかに歪み、世界を裏側からめくるような遅さで、光は少しずつ円を描いた。
「止めろ」
黒髪の大男が大剣を片手で構え直し、低い声で言った。
「魔法を完成させるな」
遅い。少女はそう思ったが、声にはならない。
サファイアだった瞳が芯から色を変え、青がゆっくりと赤へ変わっていく。血の赤ではない。怒りの赤でもなく、何かを起動するときにだけ現れる色で、その意味を四人のうちで最初に読んだのは青髪の青年だった。彼はこめかみを押さえた指に力を込め、それから、わずかに上ずった声で言った。
「……攻撃じゃない。これは、攻撃じゃないです」
「じゃあ何よ」
振り返った赤髪の女の声には、まだ余裕が残っていた。
「肉体ごと逃げるつもり? 逃がすわけないでしょう」
「違います。転移でもない。これは――魂だけを、別の世界に」
青年の言葉がそこで切れたのは、目の前で少女の輪郭がほどけはじめたからだった。
溶けるのでも消えるのでもない。織物から糸を一本ずつ抜くように、光の粒が空気へ散っていく。最初に指先が薄くなり、握ろうとした指は握る側から先に薄れて、掌に何かを掴んだ感触だけが一拍遅れて残る。
次に肩の線が曖昧になり、刃の刺さった傷口からは金色とは別の、もっと白い光があふれ出した。銀の刃だけが何も変わらず、布の上で重さを保っている。
――この魔法は、最終手段。
少女の意識のいちばん奥で声がした。それが自分の声だと分かるまでに、少しかかった。
――そして、不完全。
傷が深すぎるのだ。魂はもうまともな形にはまとまらず、欠片ごとに別の方向へ散っていく。散ったものの半分はきっと途中で消える。それが分かっていて、それでも、ここで終われば存在そのものを持っていかれる。持っていかれるくらいなら、半分でよかった。半分でも、残れば戻れる。
ただし何が散って何が残るかは選べない。名前も、この四人の靴の並びも、どれが向こうに届くかは着いてみるまで分からない。
砕けた神位階の残光が四人の衣を煽り、赤髪の女は片手で髪を押さえ、黒髪の男は大剣の切っ先を床に立てて身を低くした。風はやがて音を失っていく。
「まずい。掴んででも止めて――」
青髪の青年が一歩踏み出し、赤髪の女がそれを笑って止めた。今度は口の端ではなく、喉の奥から出た笑いだった。
「無理よ。だって、もうほどけてる」
少女の唇が、最後にひらいた。
「……必ず、戻る」
その声はその場の誰にも届かなかったはずで、それなのに青髪の青年だけが顔を上げたのは、音より先に波形が届く解析者の癖のせいだった。
「彼女、今、何て言いましたか」
「さあ」
赤髪の女は答えず、答えるまでもなく少女の身体は白い布ごと光になり、一度だけ凝って、それから何十本もの細い筋に裂けて散った。筋は一本ずつ違う方向へ引かれ、天井にも壁にも触れずに、空間そのものの裂け目へ吸い込まれていく。
あとには銀の刃だけが、布のあった場所にぽつんと残った。
刃は床に落ちなかった。
赤髪の女が掌を半歩分だけ差し出すと、寄っていったのは彼女の手ではなく銀のほうだった。主を失った剣が次の主を自分で選んだように、掌の上へ静かに重さを乗せる。
「――あら」
彼女は剣をくるりと回し、指の腹で刃の根元を撫でた。血も金色の糸も、銀の表面にはもう何も残っていない。
「拒まれなくなったのね」
指で弾くと、澄んだ音がした。
褐色肌の女が短く舌打ちをし、黒髪の大男は大剣を構えたまま低く問うた。
「どこへ行った。分かるか」
「……転移ではありません」
青髪の青年は、割れた空間の縁を睨みながら同じ言葉を繰り返した。こめかみに当てたままの指の先が白くなっている。光の筋はまだ完全には消えておらず、名残の一本一本が、それぞれ違う方向へ引かれたまま薄れていく。
「魂だけを別の世界へ送ったんです。肉体はほどけました」
「生きてるの、それ」
褐色肌の女が、青年の横顔に訊いた。
「生きている、の定義によります。あれだけ弱った魂です。ふつうなら保ちません。散った欠片のほとんどは道中で消える。……ただ、行き先に届いた分が、もし意志を持てば」
「戻ってくる、と」
赤髪の女が先を奪い、銀の剣を肩に担ぎ直した。釣り道具を片付けるような、軽い担ぎ方だった。
「戻ってくるかもね。何百年か先に、別人の顔で。まあいいわ。逃げたところで、あんなに弱っていて何ができるの」
答える者はなく、四人の視線の先には人のいない空間だけが残り、少女の立っていた床は、光の筋が焼いた跡で薄く黒ずんでいる。煤ではない。線の一本一本が図形を成しかけて、途中で崩れている。
「……道標みたいね」
そう呟いた褐色肌の女の声からは、余裕が消えていた。紫の瞳が床の図形を研究者の距離で追い、この夜初めて、爪を噛む仕草が出た。
「彼女が戻るための」
「あるいは」
黒髪の大男が大剣を鞘に戻し、鞘の口が鳴った。
「追うための、な」
赤髪の女は銀の剣の柄に頬を寄せた。愛しいものを抱くような仕草のまま、今度は歯を見せて笑う。
「でも、どちらでもよくない? だって――“地球”が手に入ったんだもの」
剣を弾く。
澄んだ音が、もう一度鳴った。
◇◇◇
そして女神の魂は、世界の境界を越えて落ちていく。
知らない世界へ、知らない時間へ、知らない場所へ。途中で欠片がひとつ、またひとつと光を失って散り、どれほどの数が散ったのか、神本人ですら数え切れずにいた。まだ意識の残っていた欠片のうち、いちばん大きなひとつが、最後にこう思った。
――必ず、戻る。
その誓いの言葉だけが、自分の名前を忘れるより先に、胸のどこかへ錨のように引っかかって残った。
◇◇◇
同じ頃、遥か下方の世界には雨が降っていた。
金属と油と冷えた水の匂いに、焦げた電線の匂いが混じる雨だった。地上から低く吹き上がる風の底に、空を見上げている巨大な構造物がある。逆さにした冠のような黒い輪で、その中央からは目の形をした光が空へ向かって一筋だけ伸びていた。瞬きをしない光だ。ずっと、一つの方向だけを見ている。
その目が、ほんの一瞬、揺れた。
輪の表面を走っていた無数の青い筋が一斉に塔の真上へ流れ込み、黒い塔の中枢で、登録外の反応がひとつ波形として立ち上がる。座標は塔から遠い廃市街。強度は低いが、既存のどの人類反応とも波形が重ならず、既存のどのカテゴリにも当てはまらない。
処理は一秒未満で終わった。
――回収優先度A。
空を覆う黒雲の底で、小さな影が何十と一斉に向きを変えた。人の形ではない。翅のある金属の細長い形をしていて、翅の縁が雨を裂き、裂かれた雨が機体の腹で白い線になる。群れは塔を起点に放射状へ散っていき、向かう先はひとつ、廃市街のある一点だった。
雨が、少しだけ強くなる。
その雨に打たれて、瓦礫の上で白い布の端がかすかに動いた。まだ誰も、そこに少女が落ちているとは知らない。塔の目ですら対象の形までは捉えておらず、ただ翅のある影だけが、正確にその一点へ収束していく。
――戻らなきゃ。
光の粒のいちばん大きな欠片が、最後にもう一度だけ震えた。
戻る場所の名前を、まだ思い出せないまま。




