第10話 跳び方
「済んだ。……出ろ。今日のうちにだ」
扉を肩ひとつぶん押して入った私に、アーカイブは椅子から立たずにそう言った。机の上には、昨日スミスが握り潰したレンズの黒い粉が、拭かれないまま薄く残っている。
スミスは壁際で棒を縮めたまま腕を組み、扉の外にはセキがいる。今朝の墓場のことは、私が階段を上がるより先にこの部屋へ届いていた。
「墓場の青は消えた。三つ目は消したのではなく、上へ持っていかれた。……だが、消えたことに変わりはない」
左の義眼が、私の胸ではなく、天井のほうへ一度向いた。
「輪が広がっている。径が元より広いというのは、翅が穴の場所を見失っているということだ。見失っているうちに出す」
「入口から、ですか」
「入口から出せば翅は君に付く。付いて行った翅は、この穴を忘れない」
言葉は平らで、値段を数えるときの声のままだった。けれどその声の向かう先には、柱の陰で足音を数えている子どもたちがいて、この人は自分が守っている記録の中に、あの子たちの寝床まで入れている。
「輪はここに置いておく。君がまだ下にいると思わせたまま、ここで引き受ける。……そのほうが、安い」
壁際で、金属の指が棒の柄を一度だけ叩いた。
「安かねえよ」
スミスは腕を組んだまま、それだけを言って、また黙った。
安い、という言葉を、この人は一昨日から四度使った。一度目は私を外へ出すことに、二度目はそれを安すぎると自分で退けたことに、三度目はその値が下がったことに。四度目のいまは、私の代わりに翅の輪を頭の上に載せ続けることに、同じ言葉を使っている。
言わなければならないことが、まだ一つ残っていた。
「エアラ、です」
三文字を、スミスの報告の中ではなく、この部屋で、私の口から置いた。
「受け取ってください」
アーカイブは、一度目を閉じた。左の義眼は閉じても薄く光を透かしていて、右の瞼だけが本当に暗くなる。開いたとき、視線は私の胸ではなく、顔の上にあった。
「受け取った。記録に残す。名の無いものは、記録に残らない」
それだけだった。呼びかけには使われず、けれど、この部屋の棚のどこかに三文字ぶんの場所が空いた気がした。
「出口は線路の先だ。リオに案内させる」
胸で、糸が張った。線路の先。昨日の朝からずっと横へ横へと引いていた方向へ、まっすぐに。
スミスが壁から背中を離し、私の肩に掛かった紐を金属の指で弾いた。
「上へ届く道具は、その一丁だけだ。……肩で受けろ。腕で受けるな」
今朝、天井の配線を散らしたときと、同じ言葉だった。
ホームの端に、リオが座っていた。金属の脚を線路のほうへ投げ出して、昨日と同じ姿勢で、昨日とは違うほうを向いている。線路の先の暗がりに、右目だけが留まっていた。
セキは柱の最後の一本のところに立って、そこから先へは足を出さずにいる。門番の立ち方だった。ここが門で、その先は外だと、身体で言っている。
私はセキの前で足を止めた。踵の音が、柱の陰で数えられている。
「エアラ、です」
短銃の上の指は、動かずにいた。
「……扉の外で聞いたのでも、上の声からでもなく、私から」
セキの唇が、形を作りかけた。今朝、墓場の斜面の下で見た、あの形だ。三文字の一つ目の口の開き方までは来て、音が乗らずに閉じる。閉じたあとで首がわずかに傾き、短銃の上の指が一つ曲がった。奥と繋がる傾きではない。上を聞いている傾きだった。
「輪は、真上で動いていません」
報告の声で、私の顔を見ずに言う。
「……あなたが出ても、動かないでしょう」
私がいると思わせたまま、この人たちの頭の上に輪が残る。動かない、という報告が、そのまま、引き受けた、という返事になっていた。
「行くぞ」
リオが立った。金属の脚が線路の砂利を踏み、外套の裾が暗がりのほうへ流れる。私は銃の紐を掛け直し、腰の布に差した灰色の刃の柄を一度確かめて、ホームの縁から線路へ降りた。
灯りは、十歩も行かないうちに背中のものになった。
線路は枕木ごと闇に沈んでいて、足の裏で枕木を探しながら歩く。前を行くリオの金属の脚が砂利を踏む音と、その半歩後ろで私の踵が枕木を打つ音。二つの音があるから、暗がりの中で自分がどこにいるかが分かる。一昨日この人の後ろにいて気づかれなかった身体が、いまは自分で自分の位置を鳴らしていた。
リオの右目が、ときどき暗がりの奥に留まる。留まる時間は、昨日ホームで見たときより、歩くたびに長くなっていく。
「何もない、と言いましたよね。昨日」
金属の脚が、一拍だけ遅れた。
「何もない、と言ったのは、何も無くなった、だ。線路ごと」
言い終わる前に、足の下の枕木が途切れた。
リオが手を横へ出して私を止め、その手の先で砂利がざらりと落ちて、落ちた音がなかなか戻ってこない。
目が慣れてくると、線路は数歩先で床ごと斜めに折れ、レールが二本、宙で曲がって黒の中へ垂れているのが見えた。向こう側までは、ホームの幅ほどの黒。その黒の下がどこまで続いているのかを、砂利の音は教えてくれない。
「……ここから先へ、行ったことは」
「ある。戻った」
それきりだった。切れた機体の半分を片付けに戻る、と言ってリオが消えていた先は、塔の方向ではなく、こちらだったのかもしれない。訊く代わりに、布の上から糸を押さえた。糸は黒の向こうを、変わらず指している。
助走のぶんだけ、枕木を数えて下がった。
跳ぶことは、この身体にはまだできない。それでも今朝は、落ちた先で立てた。落ちる向きを選べるなら、前へ落ちるだけで届くのではないか。
踏み切った身体は、上へ行かずに前へ出た。
足の裏が縁を離れ、黒が下に開き、向こう岸の縁が胸の高さで近づいてくる。届かない。両手が砕けたコンクリートの角を掴み、胸から下が黒の中へ垂れて、背中の銃が肩甲骨を叩いた。角が掌の皮膚を噛み、砂利が指のあいだからこぼれて落ちていく。
落ちる音は、まだ戻ってこない。
左手の下で、角が欠けた。掴んでいた塊がまるごと外れて黒へ消え、指が一本ぶん滑る。今朝、山の上で私を下へ返そうとした重さが、いまは黒のほうへ引いていた。胸へ入れた四つぶんの重さを、崩れかけた縁は支えきれない。足先が壁を探り、蹴るものがどこにもない。
手首を、掴まれた。
上からではなく、後ろからだった。リオが切れ目の縁に膝をつき、腕を伸ばして私の左手首を握っている。一昨日、階段で握られたのと同じ手首で、同じ、鎖のような緊張が指から伝わってくる。引かれた。義眼の赤が、鼻先が触れるほど近い。
足の裏が、床に戻った。
「……俺の脚なら届く。お前は無理だ」
息が、私より先に荒れていた。膝を折ったまま、右目が私の顔ではなく、私の足を見ている。今朝、山の上から落ちた先で立った足を。
落ち方は知っている。それでも、上へ行く向きを、この身体はまだどこにも持っていない。
向こう岸で、青が灯った。
縦長の、一本のレンズだった。暗がりの床のすぐ上、私たちの膝ほどの高さで、ゆっくりと持ち上がる。一昨日、歪門の縫い目で私だけを追い続けたのと、同じ持ち上がり方だ。
もう一つ、その奥で灯る。さらに奥で、もう一つ。列になって、線路の先の、私たちが行くはずだった方向へ、奥へ奥へと灯っていく。
「……失くしもんを探しに来てるだけだ、向こうは」
リオが低く言った。今朝、山の下でスミスが言ったのと同じ意味の言葉を、この人は別の口で言っている。
胸の下が、冷えた。
青を見た、というだけで来た。糸ではない。胸の欠片が引かれたのでもない。ただ、あの縦長の青い光を、私はこれよりずっと前に見たことがある。
視界が、落ちた。
四人が、下にいた。
私は見下ろしている。赤い髪の女が正面にいて、その右で褐色の肌の女が腕を組み、左で黒髪の大男が大剣を肩に担いだまま息を整えていて、少し離れた青い髪の青年だけが、こめかみに指を当てて、私ではなく私の背後を見ている。
赤髪の女が、口の端だけで笑った。
銀の剣が、床に落ちない。落ちるはずの重さが宙で向きを変え、彼女の掌の上へ、自分から寄っていく。
「あれだけ弱った魂です。ふつうなら保ちません」
青髪の青年の声は、私の胸の穴を通って聞こえた。褐色の女が爪を噛み、大男の鞘の口が鳴る。赤髪の女が銀の柄に頬を寄せて、今度は歯を見せて笑った。
「でも、どちらでもよくない? だって――“地球”が手に入ったんだもの」
そして、私の声がした。
「……必ず、戻る」
一昨日、アーカイブの部屋で敗北という言葉を聞いたとき、赤い笑いは掴む前に消えた。墓場で名を拾ったときも、指のあいだをすり抜けた。いまは、消えない。歯を見せた笑いが、私の目の中に、掴んだまま残っている。
四人を、見下ろしていた。
床の上からではなく、あの高さから、私はあの顔を見たのだ。剣を胸に受けたまま、空にいた身体が、四人の頭の上から見ていた。
身体が、上へ行く向きを思い出した。
「もう一度」
リオが何か言いかけ、言わずに、私の手首を放した。
枕木を数えて下がり、走った。踏み切った足の裏が縁を離れる、その瞬間に、今朝の落下が裏返る。落ちるとき胸の下にあった軸を、今度は上へ向けて放す。膝が伸び、腰が持ち上がり、足の下で切れ目の黒が過ぎていく。
向こう岸の床に、足の裏から降りた。
膝は折れず、砕けたコンクリートが足の下で低く鳴って、崩れない。振り返ると、切れ目の縁でリオが立ち上がっていて、右目と赤い義眼が、同じ高さで私を見ていた。
次の瞬間、金属の脚が縁を蹴った。
外套が黒の上を渡り、私の横に、砂利を散らして着地する。無理だ、と言った側も、もう渡っていた。リオは何も言わず、右目を一度だけ背後の黒へ戻し、それきり二度とそちらを向かずに、暗がりの奥の列を数えた。
いちばん近いレンズが、私の膝の高さで、ゆっくりとこちらへ回る。
背中の銃を回し、銃床を肩に当てた。腕で受けるな。今朝の言葉を、肩の骨で覚えていた。
引いた。
肩が受けた。銃口は上へ逃げず、乾いた音が一つ、暗がりを渡っていく。いちばん近い青が砕けて、硝子の粉が床に散り、その場所だけが暗くなった。
残りの列は、消えずに奥へ続いている。砕けた音を合図にしたように、奥のレンズが一斉にこちらへ回った。二つ目が、一つ目のぶんだけ前へ寄って見えた。
糸は、その列の奥を、まっすぐに指している。
後ろの暗がりから、声が線路を渡ってきた。
「……エアラ」
報告の声だった。平らで、大きくも小さくもなく、ホームの端からこの切れ目まで、線路の上を真っ直ぐに届く声。塔の言葉の復唱ではない。私に向けて、初めて置かれた三文字だった。
「輪は、動いていません」
渡した名が、渡したものとして、線路の上を戻ってきた。戻ってきた三文字は、渡したときより少しだけ重かった。
口の中で、言葉を転がした。
地球。
意味は知らない。あれが何であるのかも、ここのことなのかも、分からない。ただ、それが手に入ったと歯を見せて笑った顔を、いまは掴んで離さない。
レンズの列が、奥で瞬いた。
この足で、先へ行く。




