表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
霞の記憶  作者: 七瀬愁
PR
24/25

終わりは今日にしよう

「今日の夜はカレーにしよう。聖司の好きなキーマカレーにする」


今日は休みだという理人が、朝に焼きたてのフレンチトーストが入った皿を並べながら、ふと思いついたように言った。テーブルに着いて自分で淹れた珈琲を飲み、携帯を見ていただけの聖司は、自分の好きなメニューが理人の口から出たので、思わず目を輝かせた。


テーブルの上に置いた聖司の携帯が、メッセージが届いたことを知らせた。遥からだった。


[話があるの、今日時間作れる? 何時でも構わないから]


聖司は少し考えてから、夕方に行くと伝えた。

一限だけ講義に出席し、午後から最近始めたカラオケのバイトに行った。夕方近くになると、聖司は落ち着かなくなった。遥には会いたかった。同時に、会うのが怖かった。


待ち合わせは駅前だった。遥は先に来ていた。風が髪を揺らしていた。そんなに離れていなかったはずなのに、懐かしい横顔だと思った。


「久しぶりだね」

「うん、」


入る店は決めていなかった。二人並んで歩いた。

遥の髪は少し伸びて、背にかかっている。遥に対しての好意はまだあるのに表現の仕方が聖司にはわからなくなっていた。たった少しの間離れただけなのに、安易に触れてはいけない相手になっている。

すっかり冬の装いになった街の装飾を見て、二人とも自然に口数は少なくなった。華やかな色合いを見ても、心が躍ることはなかった。大通りは賑やかで、誰も彼もが楽しそうで、居心地が悪かった。


道すがらにあった店に「ここに入ろっか」と聖司が言い、遥が黙って着いてきた。

以前までは遥が決めていたのに、と聖司は思った。


「何か食べる?」

遥が聞いた。

「いや、いい」


聖司は頭を振って、注文を取りに来た店員にカフェオレを頼んだ。


「わたし、クリームコーヒーで」


髪を耳にかけ、遥は聖司を見て微笑んだ。


「なんかさ、聖司変わったね」

「おれ? そうかな、どこらへん?」

「うーん、よくわからないけど。でも元気そうだよね、良かった。ちゃんとごはん食べてる?」


聖司は頷く。

理人の家で、聖司は食事を作ったことがなかった。理人が何もさせたがらなかったからだ。頼ることを覚えてしまっていた。培養液漬けの細胞のように、何も考えずに満ち足りて浸っていた。甘やかされすぎた自分は、もっと駄目になったように聖司には思えた。


それで、と聖司は話し出す。


「遥、それで、あの」


遥は少し笑って、「単刀直入に言うね」と言った。

居住まいを正して、聖司は遥を見た。


「聖司、わたしのことどう思ってる? わたしと戻りたいって思ってくれてる?」


遥は別居を切り出した時と同じ、優しい顔をしていた。

しかし、口調にはどこか責めるような、距離を測るような響きがあった。聖司は、戻りたいと言おうとした。愛していると言おうととした。言い出そうとしたのに、言葉が出なかった。口に出してしまうと、大事なものが取り上げられてしまうような気がした。


聖司は目を伏せた。その自分を卑怯だと恥じた。


「おれ、」

「わかった」


そして聖司が何か言い出す前に遥は、ふっと息を吐いて、もう一度「わかった」と言った。


「あのね、聖司。わたし今の仕事辞めようと思ってるの」

「辞める? なんで」


遥は聖司の大学にある図書館で司書をしている。


「おれのせいで?」

「それは違う。…私ね、結婚は確かに早くしたかったよ。だけど、もしそういう機会がなかったら、海外に留学したいとも思ってたの」

「留学? …初めて聞いた」

「うん、初めて言ったね」


遥はにこりと笑った。初めて図書館で会った時を思い出すような笑顔だった。


「言ってはなかったんだけど、でもそう思ってたのは事実だよ。だからね、聖司」


テーブルに届いたクリームコーヒーを、遥は愛しそうに見た。この時間が、この空間が、そうであるというように。


聖司は黙ってその手元を見ていた。自分に発言するという権利はないように思えた。遥が息を吸った。


「離婚しよう」


遥は聖司を真っ直ぐに見て、そう言った。

その目には涙が溢れていた。


テーブルの上には、口の付けられなかったクリームコーヒーが残されていた。

聖司は温くなったカフェオレを一口飲む。ミルク特有の粘り気が喉に残る。飲み慣れない感覚に、聖司はカップをソーサーに戻した。


遥はとうに店を出ていた。聖司は立ち上がることが出来なかった。どこかで遥の決断を知っていた自分がいた。分かっていても、何もしなかった。

どれくらいの時間か分からなかったが、聖司は長いことそうしていた。


呆けたように動かない聖司を、店員は見ていないふりをした。

不意に携帯が着信を知らせ、緩慢な動きで聖司は画面を確認してから通話ボタンを押した。


「もしもし」

『聖司,今どこ?』


静かな理人の声が、耳に届く。聖司は上を向いて、目を閉じた。


「わからない」

『わからない? 帰って来れるのかそれ』


向こう側で笑う理人の声が聖司に染み込んだ。


「帰れるよ。大丈夫」


聖司は少しだけ息を吸った。

『じゃあ早く帰っておいで。家で食べるだろ? とっくにカレー出来てるよ』


聖司は立ち上がった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ