転がり落ちてくる未来
「聖司、今日帰ったら話があるの」
朝、家を出る間際に遥が宣告するように言った。
「話? なら、今でも」
「今はわたしが忙しいから無理なの。帰ってご飯食べたら少し話そう」
遥は家の中なのに、外に向ける顔をしていた。
一方的にそう言って、遥は「行ってくるね」と聖司の隣を通り過ぎた。
「行ってらっしゃい」
締まった扉に、聖司は声を掛けた。
何を言われるかは、想像がついた。子どものことがあってから、遥の態度は硬いままだったからだ。
正直、気が重かった。聖司の気持ちは変わっていなかったからだ。
遥を愛してる。でも、子どもは今は欲しくなかった。
夕食時から気まずい雰囲気は漂っていた。遥も聖司も、積極的に話をしなかった。
義務的に食べ物を咀嚼する。昔、母親と二人きりだった頃の食卓を思い出した。
「子どものことなんだけど」
テーブルの上が綺麗になって、聖司が淹れた珈琲が並ぶ。
「うん、」
「聖司は考えられないんだよね」
責める口ぶりではなかったが、聖司は自然と目を伏せた。
「ごめん」
「いいよ。謝らなくて。無理強いは違うってわたしも分かってるから」
テーブルの上に手を組んで、遥は静かに言った。
そうして、意を決したように、
「しばらく考えたんだけど、わたしたち別居しない?」
遥の声音は優しかった。
「別居?」
「うんそう。時間とさ、あと距離?を置いたほうがいいと思うんだ私たち」
嫌だ、と言いかけて聖司は止めた。遥の目に揺らぎがなかったからだ。
「いつまで?」
「今はわからない。でも三か月とか、半年とか? それで答えを出したいの」
「答えって。戻ってくるよな」
「ごめん、今はなにも言えない。自分でもわからないの。わからないから、距離を置きたいんだ」
マグカップを手にして、遥は珈琲を口に含む。そして、美味しい、と呟いた。
「はるか、」
「わたし、聖司のこと大好きだよ」
遥は真っ直ぐに聖司を見る。そして、言葉を続けた。
「大好きだから、嫌いになりたくないの」
「…おれも遥が好きだよ」
遥の望みと聖司の拒絶は、どちらかが理解しない限り、以前のようには戻れないものだ。聖司は唇を噛んだ。自分の幼さが恨めしかった。遥を失うかもしれない状況であっても、理解を示せない自分が苦しかった。
聖司にとって親に良い思い出はなかった。感謝はしている。ただそこに幸福は見当たらなかった。だから自分が親になるということがどういうことか、想像がつかなかったし、想像した先は不安以外何もなかった。
時々、遥がどうにかしてくれるかもしれない、とも考えた。しかしそれは、思考の放棄だ。結局聖司自身が親になるという覚悟を持てないままである、ということに変わりはなかった。何を言っていいのかわからなくて、視線を彷徨わせる。
そんな聖司を遥は慈しんだ目で見ていた。
部屋は聖司が出ることにした。情けない話だったが,一人残されても聖司の収入で暮らしていける気がしなかったからだ。そこについては、遥が自分が選択したことなのだから出て行くし家賃も負担すると言ったが、全て断った。
「少しの間でいいんだけど、置いてくれないかな」
眉を下げて頼み込む聖司に、理人が嘆息して「わかったから顔上げろ」と言った。
「迷惑かけてごめん」
テーブルの上には聖司の好物が並んだ。
しおらしく俯く聖司に、理人は「いいから、早く食べな」と急かす。
「金はちゃんと払うし、家事もおれがやるからさ」
「だからそれはいいって言っただろ。金はいらないし、家事も俺がやる」
「でもさあ」
「聖司」
魚の骨を取り除きながら、理人が聖司を見据えた。つられるように、聖司の目線も理人へ向かう。普段あまり見せない、険しい顔だった。
「おまえがここに来たのはおまえの意思だけど、住んで良いと言ったのは俺の意思だよ。あえて言うなら…金なら俺の方が稼いでるし、なんなら家事も俺の方が得意だ」
それから、少し唇を緩めて「それで十分じゃないか」と言った。
理人のベッドの寝心地の良さは、いつも通りだった。でも、聖司は眠ることが出来なかった。胸のざわめきが、どう言った種類のものか、判別が付かなかった。胸が苦しかった。足掻きたいのに、やり方がわからなかった。
「眠れない?」
何度か寝返りを打ったから、聖司が寝れないと思ったらしかった。
「ごめん、邪魔しちゃったよな」
理人の方を向いて、ぼそぼそと謝った。
「まだ寝てなかったから気にしなくていいよ。どうしたの、寝れないの?」
「…うん」
「そうか」と言って、理人は聖司の頭を撫でた。
そうして、手を滑らせ、頬を撫でる。
「泣いてるのか?」聖司の頬が濡れていることに気付いて、理人が顔を近づけた。
「わからない」と聖司が言った。実際、自分が泣いていることに、言われるまで気が付かなかった。
理人の綺麗な顔が、すぐ近くまで近づいた。
額が触れそうな距離に、聖司は動くことなく、じっとしていた。
理人の腕が聖司の背中に回る。抱きすくめられている、と理解したのは、理人の肩に顔を埋める形になってからだった。
「理人、」
「こうしてれば寂しくない?」
体温を分け合うようにして、身体を密着させる。理人の心音が聞こえるくらいの距離に、暖かい、と安堵を覚えた。
同性とこんなに身体を寄せ合ったことなんて、聖司には経験がない。普通なら嫌悪感が募るだろう。
しかし理人にこうされるのは、嫌だとは思わなかった。心地良いと思った。もっと触れ合いたいとさえ思ってしまった。
肩から顔を離して、見上げる。理人の整った白い顔が暗がりの中、ぼんやりと浮かび上がる。
「聖司、」理人が呼んだ。
その声はやけに艶っぽくて、湿り気を帯びていた。
聖司は吸い寄せられるように顔を近づける。
理人が少しだけ笑ったように思った。
衝動的に聖司は、目を閉じた。理人は身じろぎせずに、そのままに動かなかった。心が安心した。理人が聖司の手を握り込んだ。
「もう少しだけこうしてて」
聖司が囁くように言った。




