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霞の記憶  作者: 七瀬愁
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どうしようもない気持ち

「ほんとうに考えたこともなかったんだ」

「相手が子どもを望んでたことが? それとも、おまえが親になることがか?」


理人の部屋に入るのは、随分と久しぶりに思えた。

以前は頻繁にきていたことが、もう懐かしかった。


「…どっちも」

「それは重症だな」

「理人はわかってた?」

「…遥さんが、子どもを望むのが、おまえよりずっと早いことはわかってたよ」

「そうなんだ」

「おまえが言ってたろ。三十までに結婚したいって言ってたって。なら、妊娠を想定しての発言だってのも想像が容易いだろ」


耳が痛かった。言い返す言葉がなくて、聖司は黙り込んだ。


「今日は紅茶でも飲むか? 珍しい茶葉をもらったんだ」


棚から小さな缶を取り出して、理人が悪戯っぽく微笑んだ。

聖司はふと興味が湧いて「誰にもらったの?」と聞いた。


「知り合いだよ」


聖司は、前に聞いた言い回しだと思った。


「女の人?」

「そう」

「ふうん、彼女?」とまで聞いて、聖司は口を噤んだ。そうだ、と言われたら嫌だと思った。


そんな聖司を知ってか知らずか、「そこまでじゃない」と興味もない口ぶりで答えた。


「でも茶葉は美味しかった。だからおまえに飲ませたい」


その言い方に聖司は気をよくして、「…じゃあもらう」と言った。


「良かった。ケーキも焼いたんだ」


聖司は目を見開いた。


「理人が焼いたの?」

「うん。おまえが来るって言うから」


そうして、棚から皿とカトラリーを取り出して、理人が「ゆっくりお茶でも飲んで落ち着け」と続けて言った。


「理人、今日泊まってっていい?」

「駄目」


にべも無く理人が返した。

良い、と言われると思っていた聖司は、驚いて顔を上げた。理人はいつも聖司の頼みを断らないからだ。

少し考えてから「今日だけは帰りたくない」と聖司は言った。遥がいない部屋に、一人帰るのは嫌だった。


「遥さんが帰ってたらどうするんだよ。おまえがいなかったら、余計にこじれるだろ」


どこまでも正論で、聖司は身の置き場がなかった。

淹れてくれた紅茶は、理人の言うように美味しかった。

振る舞われたケーキも、平常であればもっと味わえたに違いない。


「理人、」


フォークを置いて、聖司はテーブルに目を落とした。

向かいに座っていた理人は、長い息を吐いた。

そうしておもむろに立ち上がり、「風呂沸かしてくる。着替えはいつものところにあるから、取ってきて」と言った。


シャワーを浴びて着替えた聖司が戻ってくると、食欲を刺激する良い匂いがした。キッチンに立つ理人の後ろ姿は、いつも通り凛としていて綺麗だった。


「良い匂いがする」

「ボンゴレ。あと、チキン焼いた。買い物行ってないからあり合わせだけど」


声は怒っても困っても無かった。


「迷惑かけてごめん…」

「迷惑だなんて思ってもないから、気にするな。けど、本当に帰らなくていいのか?」

「うん、」


聖司が言い淀んだのを見て、理人は「じゃあ食べようか」と皿を取り出した。


しばらくお互い無言で食べた。

食器の音だけが響いた。どれもこれも、匂いを裏切らず美味かった。


「理人ってパスタのバリエーション多いよな? 好きなの?」


聖司がふと、といった感じで聞いた。


「おまえがパスタが好きだからだ」

「え?」

「おまえが好きだから、レシピ覚えただけだよ。一人分だったら大して凝ったことはしてない」

「そー…なんだ」


何に対してかわからない優越感が湧き起こり、「え、なにそれ。めっちゃ嬉しいじゃん」と破顔する。


「理人って優しいよな」

「あたりまえだろ。俺は、おまえの親代わりなんだから」


と言って、見惚れるような綺麗な笑みを浮かべた。




理人が寝室に入ってきた時には、聖司はもう眠ってしまっていた。気が抜けたのか、幼い寝顔を見せている。

几帳面に半分のスペースを空けて眠っているのが、聖司らしい、と理人は思った。

隣に腰を下ろして、亜麻色の髪を撫でる。

柔らかい髪だった。

夜の帷の中で、理人は長いことそうしていた。

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