どんな小さなことでも
夏の盛りの夕方、日が落ちるにはまだ早い時間だった。
「理人、就活は?」
「一応やってるよ。内定だけはもらっておきたい」
「そのまま自分で会社やるかもしれないってこと?」
「うん、収益が安定するかどうかによるけど」
「へえ、社長じゃん」
「名前だけはね」
「おまえ、やっぱりすごいな」
聖司は屈託なく笑い、理人の背を叩いた。
隣を歩く友人は、自分よりずっと大人に見えた。
この綺麗な顔をした友人は、気温が高いのにも関わらず、汗一つかいてないかのように平然とした顔で歩いている。
「だいぶ生活は落ち着いた?」
理人が前を見ながら訊ねた。
二人は,大学内で会うのは久しぶりだった。
聖司が生活のためにバイトを詰め込んでいることも、勉強に身を入れてることも、慣れない家事に奮闘してることも、理人はわかっている。
それで時々、聖司が体調を崩すことも知っている。
聖司が結婚して半年が経った。その間、理人は聖司自身の体調を気遣うことはあっても、生活そのものを聞いたりすることはなかった。
「あーうん、だいぶ慣れた、かな?」
「楽しい?」
理人は聖司を見なかった。久しぶりに会うのに、目が合わないのは寂しいと聖司は思った。
「うん、楽しい。遥には迷惑かけちゃってるけど。おれ、ちゃんとしたとこ就職しなきゃだよ」
「聖司なら大丈夫だろ」
「ならいいけどな」と自嘲したように笑った。
夜のバイト帰りに、聖司は理人に電話した。
何回かコール音が鳴った後、留守番電話に切り替わった。
用事があったわけではなかった。
理由をつけるとしたら、毎日何かに追われているような焦燥感を、和らげてほしいと思った。そのための言葉は、理人が知っているはずだった。
静かになった携帯をしばらく眺めた後、聖司は家に帰った。
日が変わる頃になって、理人からメッセージが入った。
[来客があって電話に出られなかった。何か用事だった?]
とあって、聖司は[なんでもない、急にごめん]とだけ返した。
しばらくして、携帯が鳴った。理人だった。
「もしもし?」
遥を起こさないように、リビングに移動する。
『聖司、今いい?』
柔らかくて優しい、聖司の好きな声だった。
「うん、大丈夫。今日ごめんな、人来てたんだろ」
『ああ、知り合いが来てて』
理人はほとんど一人暮らしだ。誰が急に来ていてもおかしくはない。だが、聖司にはショックだった。
理人は、自分以外の人間を家に上げないと思っていたからだ。
別に、誰が来ていたのか、と聞いてもいいはずなのに、聖司はそれを口に出来なかった。自分勝手なエゴを知られたくなかった。
『なにかあった?』
理人の声を聞いていると、眠たくなる。あの部屋が、恋しかった。理人の部屋は、水の底のように青みがかっていて、水槽のようだったことを思い出す。
「いや、なにもないよ。どうしてるかなって、思っただけなんだ」
『おまえから連絡来るのは珍しいから、心配した』
「最近だけだろ。前は用事なくてもしょっちょう電話したじゃん」
『前と最近じゃあ、おまえの環境が違うだろ』
そう言われて聖司は口籠る。
エアコンの切れたリビングは蒸し暑かった。風にあたろうと、ベランダに出た。
『聖司、声が疲れてる』
「そう? 平気だよ」
自分でも口先だけの台詞だと聖司は思った。
風は生ぬるく髪を揺らす。
理人の前だとどうしてこんなに、甘えたことを言ってしまうのだろう。
通話の向こうで何か音がした。
「理人?」
呼びかけた声に、理人が息を吐く。そして、『聖司、』と言った。
『疲れた時は疲れたって言ったって、誰もおまえを責めないよ』
聖司は瞬きした。
「そうかな」
夜の空はまだ黒くなりきらず、薄い青を残していた。
『聖司。下、見て』
とだけ、理人が言った。「下?」と言って聖司はベランダから、下を覗き込んだ。
マンション前の道路の真ん中。
最初、暗がりの遠目で誰かわからなかった。
理人が、そこに立っていた。
聖司は、ひゅ、と息を吸い込んだ。
「おまえ、何やってんだよ」
『何って。おまえが元気ないからだよ』
理人が反論する。
それから堪え切れずお互いに笑った。




