手放すなんて以ての外
遥が寝室をノックしかけた時、中から話し声が聞こえた。聖司が誰かと電話をしているらしい。聞くつもりはなかったが、足が止まった。
「風邪、引いたみたい」
少し鼻声の聖司が、軽く笑うように言った。
遥がまだ聞いたことのない種類の、甘えたような声だった。
「ああうん、熱はそんな高くない。38℃くらいだし、大丈夫だって。うん、そう今日は大学休む」
昨日から聖司は熱を出していた。本人は慣れているのか、「遥ごめん、先休むね」と言って経口補水液を片手にベッドに潜り込んでいた。遥に移さないようにか、最初はリビングのソファで寝ようとしていたので、遥が強固に止めて寝室を譲った。
仕事を午前中で切り上げてきた遥は、聖司が心配で必要なものを買い足して、すぐに家に帰ってきた。
「え? 大丈夫だよ、来なくていいって。おまえ、心配しすぎ」
あまりにも親しげなので、誰と話しているのだろうかと訝しんだ時、理人、と聖司が呼んだ。
理人。東條理人。遥は胸の中で、名前を繰り返す。
式の時に会った、少年と青年の狭間にいるような、端正な顔をした聖司の友人。聖司は遥の前でよく、理人が、と言った。
理人が言ったから。
理人がそうしたから。
仲が良い友人だと思っていた遥だったが、途中からこれは心酔なのではないかと思うほど、聖司は理人を信頼していた。
『どんな人? 理人くんって』
『んー…自慢の友達?』
『答えになってないよ』
式の時に会って、遥はああなるほどと思った。
烏の濡れ羽色のような髪、夜のような色をした瞳、どこを取っても人の目を惹く造形をしている彼は、外見だけでなく声にも人を従わせる説得力があった。
『これからはわたしが聖司をちゃんと支えるから』
そう言った遥を、理人は微笑を浮かべて見返した。吸い込まれそうな漆黒の瞳は、見ているだけで動悸を覚えた。
「声枯れてる? でもべつに痛くないよ」
扉越しに聞こえる聖司の声は甘ったれで、子どものようだった。
「え? そうなの? いいなあ、おれも食べたかった。今度作ってよ」
掠れた声は、楽しそうに話す。
わたしには、あんな話し方はしない。
遥より六つ年下になる聖司からのプロポーズは、聖司が学生ということもあって、周りからは揶揄されることもあったけれど、それでも遥は聖司を愛していたし、後悔は何一つない。
「はは、なにそれ。ああ、うん、もう講義始まるよな。わかった、また後で」
こほ、と聖司が咳をしたのをきっかけに、通話は終了したらしい。ごそごそと布団にもぐる音がしてから、遥は寝室の扉をノックした。
果物くらいなら食べれるだろうか、と思って桃を切って持って来ていた。それを渡したら、聖司は自分にもあんなふうに甘えてくれるだろうか。
遥は、あの人が羨ましい、と思った。
「東條くんいいかな」
通話を終えた後、人に呼ばれて振り返った。
「何ですか」
「今日さ、ミーティングした後に懇親会あるんだけど、来れるかな?」
一つ上の女性だったが、同じコミュニティに属していることを理由に、幾度となく理人を誘ってきた先輩だった。
「ああ、この講義が終わったら教授に聞きたいことがあって時間もらってるんです。その後は友達が風邪ひいたみたいで心配なんで、ミーティング終わったら俺は帰ります」
「友達? 恋人?」
人の領域に踏み込んでくるような物言いに理人は不快感を覚えたが、顔には出さなかった。
「大事な友人ですよ」
「そう、でもたまには顔出して欲しいな。前みたいにさ、二人で飲むのもいいし」
「ええ、また今度」
理人は少しだけ口角を上げて、笑みの形を作った。
立ち去る背中を見送った。同じ講義は取っていない筈だった。わざわざ自分を探しに来たのかと思うと、誘いに乗ったあの夜は失敗だったと思った。
携帯が震えて、メッセージが来たことを知らせた。
画面には、[ぶどうジュースが飲みたい]と表示されていて、自然と顔が緩んでいた。
聖司は体調を悪くすると、甘いジュースを飲みたがった。
熱も出ていると聞いた。冷えた果物のジュースを飲ませたら、きっと喜ぶだろう。
遥が看病しているだろうが、それとは別の話だった。
聖司は甘いものが好きだ。香辛料の入った辛いものは苦手で、エスニックも好きじゃない。麺類に興味は無さそうだが、パスタは例外的に好む。洋食を食べたがることが多いが、あれはおそらくファミレスの影響で、それは外食が多かったせいだ。そして和食はもっての外だった、少し前までは。
『煮物ってあんま味しないじゃん』
『慣れの問題だよ、聖司』
しっとりとした煮物を最初は珍しげに見ていた聖司の、最近好きなおかずは、がんもどきの含め煮になった。
料理はコツさえ掴めば、大した労力は不要な労働だ。
元々一人暮らしになった時点で、自炊するほうを選んだぐらいだ。
聖司が来るようになってからは、自分が作った食事が聖司を作り上げる原料になっているのかと思うと、余計にキッチンに立つ回数が増えたし、合わせて冷蔵庫の中身も充実していった。
聖司の結婚は、誤算だった。
もっとそばにいるはずだった。
あんなに甘やかしたのに、と独りごちる。
『おまえは、ずっと一緒だろ。この先も、ずっと』
いつかの聖司の声が、切羽詰まったような声音が甦る。
聖司の隣は、自分の場所だ。その逆も同じだ。
結婚は誤算だったが、いつでも聖司は理人に連絡を寄越す。遥に聞く前に、理人に聞く。順番は、何も変わっていない。
理人は帰り道、どこでぶどうジュースを買って行こうかと考えていた。




