きみの心を見せて欲しい
「何食べたい?」
スーパーで買い物かごを片手に立つ理人は、生活の中にいるはずなのに生活の匂いがしなかった。
「アクアパッツァ」
聖司は頭に浮かんだ料理名を言った。理人は何でも器用に作る。食べたことはなかったが、リクエストしたら作れるのだろうか、と純粋な興味だった。
「なにそれ」
珍しく理人が、驚いた顔をした。それから、携帯で検索する。
「美味いのかな」
ぽつり、と理人が言った。
「え、どんなやつ?」
携帯画面を横から覗き込む聖司に、「おまえ、知らずに言ったの?」と理人が呆れたように言った。
「うん、理人作れんのかなって思って」
「まあ、作れなくはないと思うけど。食べてみる?」
「うん、あ、パスタも食べたい。前作ってくれたやつ」
理人は黙ってほうれん草を、かごに追加する。そしてそばにあった果物を選んでいる時、聖司が「理人って兄弟いる?」と聞いた。
買い物袋は二袋に分けて、一つずつ持って帰った。日の落ちがすっかり遅くなり、夕方も空は明るい。
理人のマンションで、他の世帯住人に聖司は出会ったことがない。ファミリータイプだから、住んでいる人間は多そうだと思ったが、理人に聞くと彼も他の住人には、ほとんど会ったことがないらしかった。
部屋に入るなり、理人はテーブルの上に買ってきたものを全て一度出し、すぐ使うものはそのままキッチンへと運び、他のものは冷蔵庫に直したり、棚へ入れたりしていた。
理人は何でも手際が良かった。
「兄弟はいないよ」
「え?」聖司が、ぽかんとする。
「さっき聞いてきただろ」
「あ、今? 無視されたと思ってた。理人、一人っ子なんだな」
しっくりくる回答だと思った。理人に兄弟がいる姿が、どうしても想像出来なかったからだ。
「理人の親ってどこにいんの?」
「日本にはいるよ、でも他県だな。二人とも仕事に忙しいし、二人とも別の場所にいる」
「いかにも恵まれてそうな家庭だもんな、まあそうか」
部屋の中を見回して、聖司は頷く。これだけのマンションを高校生の息子一人に使わせるような家庭だ、裕福でない訳がない。
包丁で魚の下処理をし、まな板を洗っていた理人は「聖司は?」と聞いた。
「おれ? おれは兄弟いるよ。下に弟が二人、まだ小学生」
「歳が離れてるんだな」
「ああ、母親が再婚して出来た弟だから」
聖司はドリップした珈琲を二つ入れて、テーブルに置いた。
「それで居心地が悪い?」
「まあね」
聖司はダイニングの椅子を反対に座り、背もたれの上に肘を乗せて、苦笑いした。
「母親と二人の時は、おれが頑張らなきゃって思ってた」
理人は魚を焼き、野菜を刻み、鍋でパスタを茹で、手早くソースを作る。聖司はじっとそれを見ている。
「母親に心配とか迷惑かけることだけはしちゃだめだ、って思ってた」
理人は棚からオリーブオイルを出して、鍋に少しだけ入れる。
「その母親の再婚は反対だったのか?」
「や、まったく。むしろ賛成したと思う、母親は癇癪持ちですぐ泣き喚くし、おれじゃ駄目だったんだ」
理人はまだ湯気のたつマグカップを口にして、キッチンの脇に置いた。
「でもさ、弟が生まれるってなったあたりから、ひとの家庭に居候させてもらってるみたいな感覚になった。もしかしたら、元からそうだったのかもしれないけど」
「実質他人じゃないだろ」
理人が薄く微笑んだ。
「そうだけどさ。まあ、お義父さんも良い人だし、弟も素直だよ、良い家庭だと思う。でもその中におれがいるのは、何か違うんだよ」
「おまえが言うんだから、そうなんだろな」
理人は振り向かなかった、顔は見えないが、声音は優しかった。
聖司は理人の背中を見た。
「なんか手伝う?」
「いや、いいよ。もう出来るし、おまえは座って珈琲でも飲んでな」
肩越しに振り返り、理人は少し笑った。聖司の好きな笑い方だった。時々、ああいう笑い方をする。心を許した相手にするような、優しい顔だ。その顔で、理人は言った。
「おまえはいつもあちこちに気を遣ってるんだから、俺の家にいる時くらいは肩の力抜いて甘えとけばいいよ」
理人はこういう優しさを、他の人間には向けない。おれにだけだ、と聖司は思った。
そう思うからこそ、聖司はこの場所を、誰にも取られたくなかった。かつて義父や弟に譲ったように、他の人間に譲ると考えただけで苦しくなった。
「理人ってやっぱりお母さんみたいだよ」
一般的に称される「母親像」として、聖司は口にする。
シンクで調理器具の洗い物を始めていた理人が、振り返ることなく「なってやろうか」と笑った。
「うん、なってよ。おれのーー保護者? で、おれのこと守って」
結婚しようなんて思っている男が、とんだ甘ったれた発言だ。背もたれに頬を乗せて、聖司は自嘲した。だが、今なら許される気がした。
ここには、理人しかいないのだから。
「いいよ」
理人は笑わなかった。
「いいよ、なってやるよ聖司、おまえのお母さんでも保護者でも。おまえのことは俺が守るよ。どこへ行っても、どんな場所でも」
洗っていた水を止め、フライパンの火を止める。無駄のないその動きを、聖司はぼんやり見ていた。
「だから、なにも心配しなくていいんだよ、おまえは」
聖司はこの部屋に来るたびに感じる、安らぎを覚える理由を探す。
自分は守られている、誰の目も不安にならない。きちんと笑えてるかなんて、誰も気にしない。それは安堵だ。
理人は度々、「守るから安心していい」と言う。聖司はその意味がよくわからなくて、でも言ってもらうと嬉しくて、理人に強請ってしまう。
しかし、同時に苦しいとも思っていた。友人なのに、天秤が傾いているのに、安らぎと、安堵を同時に感じる理由。
安心していいということは、深く息をしていい、ということだった。
聖司はずっと守る側だった。
守る側が、守られる理由は何だろうか。聖司には、いつも理由が必要だった。
『なってやるよ,親でも保護者でも』
ああそうか。そういうことか。
理由なんてーーー必要ない。だって、おれはそうだった。
何か言おうと、返そうと言葉を探す。だが、体の力が抜けたように思考もうまくまとまらず、結局聖司は沈黙を返すしかなかった。
部屋の中は、珈琲の香りに混じって、空腹を刺激するような良い匂いがした。
聖司は、深く息を吸い込んで、そして吐いた。
理人は「出来たから食べようか」と言った。




