Ep4. 死者の沈黙を破る夜
王宮の夜は、思ったより静かだった。
いや、正確には静かすぎる。
昼間の王宮には、常に音がある。
貴族たちの話し声。
侍女の足音。
衛兵の鎧が擦れる音。
遠くの中庭から聞こえる馬のいななき。
だが夜になると、それらが一斉に消える。
残るのは、燭台の火が揺れる音と、石造りの廊下に響く自分の足音だけ。
静けさは、時に安全ではなく、危険の形をしている。
「九条様」
隣を歩くエレオノーラが、小さく俺の名を呼んだ。
「はい」
「リーヴは……話してくれるでしょうか」
「分かりません」
俺は正直に答えた。
「彼は母親を殺されたばかりです。まともに会話できる状態ではない可能性もある」
エレオノーラの表情が曇る。
白と青のドレスではなく、今夜の彼女は装飾の少ない濃紺の外套を羽織っていた。
髪飾りも最低限。
王女というより、夜に祈りへ向かう修道女のように見える。
だが、その指先は落ち着かない。
胸元で握られたり、袖口に触れたり、また離れたりする。
不安。
罪悪感。
そして、恐怖。
「殿下」
俺は足を止めた。
「はい」
「今から会うリーヴは、あなたを責めるかもしれません」
エレオノーラの喉が小さく動いた。
「……はい」
「理不尽な言葉を投げる可能性もある。母親を返せ、なぜ守れなかった、あなたのせいだ、と」
「はい」
「そのとき、謝りすぎないでください」
彼女は目を見開いた。
「謝ってはいけないのですか?」
「謝ること自体は必要です。ただ、謝罪で彼の怒りを受け止めようとしすぎると、彼はそこにすがります」
「すがる?」
「怒りは、悲しみより扱いやすい。誰かを責めていれば、自分が壊れずに済む。もし殿下がその怒りの受け皿になりすぎれば、リーヴは真実を話すより、あなたを責めることを選びます」
エレオノーラは黙った。
理解しようとしている顔だ。
「では、私はどうすれば」
「彼の怒りは否定しない。ですが、彼の目的を思い出させる」
「目的……」
「母親を殺した相手を見つけることです」
エレオノーラの目が揺れた。
「それは、復讐ではありませんか」
「はい」
俺は否定しなかった。
「最初は復讐でもいい。人は、綺麗な理由だけで立ち上がれるわけではありません」
「……九条様は、時々とても冷たいことを言います」
「よく言われます」
「ですが」
彼女は胸元で手を握った。
「今は、その冷たさが必要なのですね」
「少なくとも、優しさだけでは彼を救えません」
エレオノーラは小さく頷いた。
その頷きは、昼間より少しだけ強かった。
俺たちは再び歩き出した。
向かう先は王宮警備局の地下区画。
罪人を収容する牢ではなく、重要証人を保護するための部屋らしい。
もっとも、窓もなく、扉の前に武装兵が二人立っている時点で、保護と拘束の違いはかなり曖昧だった。
扉の前には、王宮警備局長の男が待っていた。
確か名は、ベルク。
昨日の会議室にいた鎧姿の男だ。
大柄で、短く刈った黒髪に、厳つい顔。
見るからに現場叩き上げの軍人という印象だ。
「エレオノーラ殿下」
ベルクは胸に手を当てて礼をした。
「夜分に申し訳ありません」
エレオノーラが言うと、ベルクは首を振った。
「いえ。リーヴの件は急を要します」
彼の声には疲労が滲んでいる。
だが、それ以上に苛立ちがある。
自分の管轄内で証人を狙撃され、その母親まで殺された。
警備局長としては屈辱だろう。
ベルクの視線が俺に向いた。
「九条殿。本当にあなたが話すのですか」
「はい」
「彼はかなり混乱しています。母親の死はまだ知らせていません」
「正しい判断です」
ベルクの眉がわずかに動いた。
意外そうだ。
「責められると思いましたか?」
「多少は」
「知らせるタイミングを間違えれば、彼は壊れます。情報を取るためにも、人としても、慎重に扱うべきです」
ベルクはしばらく俺を見た。
昨日より警戒は薄い。
ただし、信用ではない。
判断保留。
悪くない。
「中には私も同席します」
ベルクが言った。
「構いません。ただし、基本的に話すのは俺です」
「命令か?」
「提案です。リーヴは警備局を恐れている可能性がある。あなたが問い詰めれば黙るか、迎合する」
「迎合?」
「相手が望む答えを言ってしまうことです。恐怖からの供述は精度が落ちます」
ベルクは不快そうに眉を寄せた。
だが、反論はしなかった。
現場の人間らしい。
不満でも、合理的なら飲み込む。
「分かった」
彼は短く言った。
「ただし、妙な真似をすれば止める」
「お願いします」
ベルクが扉の前の兵に合図する。
重い鍵が開けられた。
扉が軋む。
中は狭い部屋だった。
石壁。
小さな机。
椅子が二つ。
隅には寝台。
燭台が一つ。
その寝台の端に、リーヴが座っていた。
昨日の会議室では、目立たない書記官という印象だった。
今は別人のようだ。
頬はこけ、目の下には濃い影。
両手は膝の上で固く握られている。
肩は内側に丸まり、背中が縮こまっている。
睡眠不足。
恐怖。
罪悪感。
そして、まだ母親の死を知らない不安。
彼は俺たちを見ると、びくりと肩を跳ねさせた。
「殿下……」
声が掠れている。
エレオノーラは一歩前へ出ようとした。
俺は軽く手で制した。
今、王女が近づけば、リーヴは反射的に謝る。
あるいは許しを乞う。
それでは駄目だ。
俺は椅子を動かし、リーヴの正面ではなく、斜め前に座った。
真正面は対立の位置。
斜めは会話の位置。
現代の取調室でも基本だ。
「リーヴさん」
俺は静かに声をかけた。
「九条真白です。昨日、会議室で話しましたね」
リーヴは小さく頷いた。
「……はい」
「今からいくつか話を聞きます。ただし、あなたを責めるためではありません」
リーヴの目が揺れた。
信じていない。
当然だ。
「あなたは、カイルと内通していましたか?」
いきなり核心に触れる。
ベルクの視線が鋭くなった。
エレオノーラも息を呑んだ。
リーヴの顔が蒼白になる。
「ち、違……」
「違うなら、違うで構いません。ただ、俺はあなたを責めるつもりで聞いているわけではない」
「でも、私は……」
「あなたは盗賊に王女殿下の移動予定を伝えた」
リーヴの身体が硬直した。
否定は出ない。
「手段は?」
「……紙を」
「どこへ?」
「王宮の西門近くにある古井戸へ……」
声が小さい。
しかし、話し始めた。
俺は頷く。
「受け取り相手の顔は?」
「知りません」
声の高さは安定している。
これは本当だ。
「命令した相手は?」
リーヴは唇を噛んだ。
沈黙。
目線が下へ落ちる。
右手の親指が爪を押し込む。
恐怖。
「その名を言うのが怖い?」
リーヴは頷かなかった。
だが、喉が動いた。
肯定。
「あなたの母親を人質に取った相手ですか?」
リーヴの目に涙が浮かんだ。
「母は……母は無事なんですか」
来た。
この質問は避けられない。
エレオノーラの顔が歪む。
ベルクがわずかに姿勢を硬くする。
俺はリーヴの目を見た。
ここで嘘をつけば、後で崩れる。
希望を与えてから奪うのは最悪だ。
「リーヴさん」
俺は声を落とした。
「落ち着いて聞いてください」
それだけで、リーヴは察した。
人間は、悪い知らせの前置きを聞くと、内容より先に絶望する。
彼の呼吸が止まった。
「お母様は、王都外れの廃礼拝堂で発見されました」
「……生きて」
彼は言葉を探した。
だが、俺は逃がさなかった。
「亡くなっていました」
沈黙。
数秒間、リーヴは動かなかった。
表情もない。
感情が追いついていない。
次の瞬間、彼の顔が崩れた。
「嘘だ」
声にならない声。
「嘘だ……だって、言う通りにすれば助けると……私は、言われた通りに……!」
彼は立ち上がろうとした。
ベルクが動きかける。
俺は片手で制した。
リーヴは立ち上がれなかった。
足に力が入らず、寝台へ崩れ落ちる。
「嘘だ! 嘘だ嘘だ嘘だ!」
悲鳴。
怒りではない。
これは崩壊だ。
エレオノーラが一歩踏み出す。
「リーヴ、私は――」
「来ないでください!」
リーヴが叫んだ。
エレオノーラの足が止まる。
「あなたのせいだ!」
その言葉が部屋を裂いた。
「あなたが……あなたが王女なんかだから! あなたが森なんかに行くから! あなたが……!」
リーヴは涙でぐしゃぐしゃになった顔で、エレオノーラを睨んだ。
「あなたを助けようとしなければ、母は死ななかった!」
エレオノーラの顔から血の気が引く。
だが、彼女は逃げなかった。
「……はい」
小さく、けれどはっきりと言った。
「あなたがそう思うのは、当然です」
謝りすぎるなと言った。
責めを全部背負うなとも言った。
彼女は、それを守ろうとしている。
「申し訳ありません」
エレオノーラは深く頭を下げた。
「お母様を守れなかったこと、心からお詫びします」
リーヴは泣きながら首を振った。
「返せよ……母を返せよ……」
その声には、もう怒りの力すらない。
ただの悲しみだった。
俺はしばらく待った。
人が泣いているとき、すぐに質問してはいけない。
悲しみを処理する数十秒を奪うと、相手は心を閉ざす。
一分ほど経ってから、俺は口を開いた。
「リーヴさん」
彼は顔を上げない。
「お母様を殺したのは、殿下ではありません」
「でも……」
「あなたでもない」
リーヴの肩が震えた。
ここだ。
「あなたは、そう思いたいはずです。自分が従ったから母親は死んだ。自分が裏切ったから死んだ。自分のせいだ、と」
「私のせいだ……」
「いいえ」
俺は否定した。
強く。
「あなたが従っても、従わなくても、相手はお母様を殺すつもりだった可能性が高い」
リーヴがゆっくりと顔を上げる。
「なぜ……そんなことが」
「相手はあなたを生かす気がなかった。会議室であなたが話そうとした瞬間、毒矢が飛んできた。つまり、あなたは使い終わった道具として処分される予定だった」
リーヴの瞳が揺れる。
「母親を解放する気があったなら、あなたを殺そうとはしない。あなたが死ねば、母親は交渉材料ではなくなる」
「じゃあ……最初から」
「はい」
俺は静かに言った。
「最初から、約束を守る気などなかった」
リーヴの顔に、別の感情が浮かんだ。
悲しみの奥から、怒りが戻ってくる。
今度の怒りは、エレオノーラへ向いていない。
母を殺した相手へ向かっている。
「誰が、あなたに命じた?」
俺は尋ねた。
リーヴは唇を震わせた。
「……言えない」
「怖いから?」
「違う」
この「違う」は本当だった。
恐怖ではない。
何か別の理由。
「契約ですか?」
リーヴの目が大きく揺れた。
当たり。
「魔法の契約?」
ベルクが低く呟いた。
リーヴは両手で自分の喉を押さえた。
「名前を言おうとすると……息が……」
なるほど。
この世界には魔法がある。
なら、情報漏洩を防ぐ仕組みがあってもおかしくない。
厄介だ。
現代の尋問技術だけでは、魔法契約を破れない。
だが、抜け道はあるかもしれない。
「リーヴさん。相手の名前を直接言う必要はありません」
「え……」
「特徴で答えてください」
「でも」
「名前に反応する契約なら、周辺情報なら話せる可能性があります」
ベルクが眉をひそめる。
「そんな方法で抜けるのか?」
「試す価値はあります」
俺はリーヴに向き直った。
「相手は男性ですか?」
リーヴは口を開こうとした。
だが、すぐに喉を押さえる。
駄目か。
性別も制限対象。
「では質問を変えます。あなたはその人物と直接会いましたか?」
リーヴは恐る恐る頷いた。
これは言える。
「場所は王宮内?」
頷き。
「昨日?」
首を横に振る。
「一週間以内?」
頷き。
「人の多い場所?」
少し迷ってから、首を横に振る。
「密室?」
頷き。
「あなたが普段入れる場所?」
首を横に振る。
「つまり、誰かに呼び出された」
頷き。
「呼び出し状は?」
リーヴが右手を動かしかけた。
だが、途中で止まる。
「焼け、と言われました」
「実際に焼いた?」
「はい」
声に嘘はない。
「呼び出された場所は、王宮内のどの区画に近い?」
リーヴの口が震える。
「きゅ……」
喉が詰まる。
話せない。
地名も制限対象か。
俺は思考を切り替えた。
言葉で言えないなら、身体で答えさせる。
「ベルク局長」
「何だ」
「王宮の簡単な見取り図はありますか」
ベルクは部下に合図した。
すぐに羊皮紙の地図が机に広げられる。
王宮の大まかな構造が描かれていた。
中央宮殿。
東棟。
西棟。
王族居住区。
政務棟。
礼拝堂。
庭園。
塔。
俺は地図をリーヴの前に置いた。
「指を置く必要はありません。俺が指を動かします。反応だけ見ます」
リーヴは意味が分からないという顔をした。
それでいい。
意識的に隠そうとすると身体が固まる。
無意識の反応を見る。
俺は地図の上で指を動かした。
中央宮殿。
リーヴの反応は薄い。
東棟。
変化なし。
西棟。
呼吸が浅くなる。
王族居住区。
目線がわずかに逸れる。
政務棟。
肩が硬くなった。
礼拝堂。
眉が動く。
庭園。
変化なし。
塔。
喉が動いた。
複数反応。
どこだ?
俺はもう一度、西棟から政務棟、礼拝堂、塔へ指を動かす。
リーヴは必死に無表情を保とうとしている。
だが、身体は正直だ。
最も反応が強いのは、礼拝堂。
「王宮礼拝堂ですね」
リーヴの目が潤む。
肯定。
ベルクが低く唸った。
「礼拝堂だと……」
エレオノーラが顔を上げる。
「王宮礼拝堂は、王族と高位貴族、神官しか自由には入れません」
「つまり、相手はその範囲にいる」
俺は言った。
「あるいは、そこへ人を呼び出せる立場です」
ベルクの顔が険しくなる。
これは大きい。
敵の範囲が一気に狭まった。
「次です」
俺はリーヴに言った。
「相手の声を聞きましたか?」
頷き。
「顔は?」
リーヴは迷った。
そして首を横に振る。
「隠していた?」
頷き。
「仮面?」
首を横に振る。
「暗かった?」
頷き。
「声は加工されていた?」
リーヴは少し首を傾げた。
分からない。
「男性か女性か分からない?」
リーヴは一瞬迷い、頷いた。
なるほど。
声を変えていたか、布越しだったか。
「話し方に特徴は?」
リーヴが口を開く。
今度は喉が詰まらない。
「……丁寧でした」
「貴族のように?」
頷き。
「怒鳴った?」
首を横に振る。
「あなたを脅したときも?」
頷き。
丁寧に脅す。
教育を受けた相手。
第三話の伝言とも一致する。
“沈黙できぬ者は、沈黙させる”。
「その人物は、自分を何と呼びましたか?」
リーヴの顔が歪む。
言えない。
「名前ではなく、肩書きでもなく、呼び名です」
彼は喉を押さえた。
駄目か。
なら、別角度。
「あなたはその人物を見たとき、どう感じましたか」
リーヴは少し戸惑った。
「どう、とは」
「怖かった?」
頷き。
「怒っているように見えた?」
首を横に振る。
「楽しんでいた?」
リーヴは迷い、首を横に振る。
「事務的だった?」
頷き。
事務的に人質を取り、事務的に暗殺を指示する。
思想犯か。
組織の実務担当か。
「その人物は、エレオノーラ殿下を憎んでいるようでしたか?」
リーヴは考え込む。
そして、首を横に振った。
エレオノーラが息を呑む。
俺は少し目を細めた。
「では、エレオノーラ殿下を軽んじていた?」
頷き。
「殺すべき対象として?」
首を横に振る。
「邪魔な駒として?」
リーヴの目が揺れた。
頷き。
そうか。
今回の襲撃は、エレオノーラ個人への怨恨ではない。
彼女は盤面上の駒。
排除対象。
問題は、何の盤面か。
王位継承か。
別の陰謀か。
「カイルは、その人物の仲間でしたか?」
リーヴは首を横に振る。
「では、あなたと同じく脅されていた?」
頷き。
「カイルの弱みは?」
リーヴは目を伏せた。
「妹が……」
言えた。
「妹を人質に?」
頷き。
エレオノーラが小さく息を吐く。
「カイルにも家族が……」
彼女の声には悲しみがある。
裏切り者に対しても同情する。
そういう人だ。
「殿下」
俺は短く呼んだ。
「今は感情に沈まないでください」
「……はい」
彼女は唇を噛み、頷く。
俺はリーヴへ視線を戻した。
「カイルの妹はまだ生きている可能性があります」
リーヴが顔を上げた。
「本当ですか?」
「分かりません。ただ、敵が同じ手口を使っているなら、彼女も口封じの対象かもしれない」
ベルクが即座に動いた。
「名前は?」
リーヴが答える。
「リナ……リナ・オルベール。城下の仕立て屋で働いています」
ベルクは部下に向かって命じた。
「すぐに確認しろ。生きていれば保護。抵抗する者がいれば拘束しろ」
兵が走っていく。
リーヴは震える声で言った。
「助けて……ください」
それはエレオノーラへ向けられていた。
母親を失い、王女を責めたばかりの少年が、それでも王女に助けを求めている。
エレオノーラは前へ出た。
今度は俺も止めなかった。
彼女はリーヴの前に膝をついた。
王女が、書記官の前に。
ベルクがわずかに目を見開いた。
エレオノーラは言った。
「必ず、助ける努力をします」
「……必ず、ではないのですか」
リーヴの声には絶望が混じる。
エレオノーラの表情が痛みに歪んだ。
だが、彼女は嘘をつかなかった。
「必ず助けると、今の私には言えません」
リーヴが唇を震わせる。
「でも、見捨てません。あなたのお母様を守れなかった私が、今度こそなどと軽々しく言う資格はないかもしれません。それでも、私はリナさんを見捨てません」
部屋が静まり返った。
リーヴの目から、また涙が落ちる。
だが、それは先ほどの崩壊とは違った。
完全な絶望の涙ではない。
わずかに、繋がった涙だ。
俺はエレオノーラを見ていた。
正しい。
今の言葉は、綺麗な慰めよりずっと良い。
約束しすぎず、逃げもしない。
王としてはまだ未熟だが、人としての芯がある。
だからこそ、周囲は彼女を利用しようとする。
そして、だからこそ彼女には人が集まる可能性がある。
「リーヴさん」
俺は再び声をかけた。
「最後に一つだけ、確認します」
彼は涙を拭いながら頷いた。
「あなたに命令した人物は、次に何を狙うと言っていましたか」
リーヴの表情が凍った。
知っている。
だが、言えるか?
彼は口を開いた。
「……し」
喉が詰まる。
「言葉でなくていい」
俺は机の上に置かれた紙とペンを示した。
「書けますか」
リーヴは震える手でペンを取った。
だが、文字を書こうとした瞬間、手が痙攣する。
ペンが落ちた。
魔法契約は筆記も封じるらしい。
なら、選択式だ。
「俺が候補を言います。違うなら首を横に。近ければ頷いてください」
リーヴは荒い呼吸のまま頷いた。
「狙いは、エレオノーラ殿下の暗殺」
首を横に振る。
「第一王子」
首を横に振る。
「第一王女」
わずかな反応。
だが、首は横。
「ガルド宰相」
首を横に振る。
「国王陛下」
リーヴの顔が強張った。
エレオノーラが息を呑む。
ベルクの手が剣の柄に伸びる。
「国王陛下が狙われている?」
リーヴは苦しそうに首を横に振った。
違う?
いや、近い。
「国王陛下本人ではない。陛下に関わる何か」
頷き。
「病状?」
反応なし。
「王命?」
少し反応。
「王位継承に関わる文書?」
リーヴの肩が震えた。
強い反応。
「遺言状か」
リーヴの目が大きく見開かれた。
当たり。
エレオノーラが立ち上がる。
「父上の遺言状……?」
ベルクが低く言った。
「陛下はまだご存命だ。だが、王位継承に備えた封書が存在するという噂はある」
「保管場所は?」
俺が尋ねると、ベルクは一瞬ためらった。
「王宮礼拝堂の地下宝物庫だ」
礼拝堂。
繋がった。
リーヴが呼び出された場所。
敵が使った接触地点。
そして王位継承に関わる文書の保管場所。
今回の襲撃は、エレオノーラの排除だけが目的ではない。
国王の遺言状に関わる陰謀。
つまり、王位継承そのものを動かす計画。
「ベルク局長」
俺は言った。
「今すぐ礼拝堂地下の警備を確認してください」
ベルクは頷いた。
「言われるまでもない」
彼は部下に命令を飛ばす。
しかし、その直後だった。
廊下の向こうから鐘の音が鳴った。
一度。
二度。
三度。
低く、重い警鐘。
ベルクの顔色が変わる。
「何の鐘ですか」
俺が尋ねると、エレオノーラが答えた。
「王宮内で、重要区画への侵入があったときに鳴る鐘です」
タイミングが良すぎる。
いや、違う。
俺たちが辿り着くのを待っていたのか。
それとも、リーヴが話す前提で同時に動いたのか。
ベルクが扉へ向かう。
その前に、兵が駆け込んできた。
「局長!」
「何があった!」
兵は息を切らして叫んだ。
「王宮礼拝堂に侵入者! 地下宝物庫の封印が破られました!」
エレオノーラの顔が凍る。
ミリアのいないこの場で、彼女は一人の王女として立っていた。
震えている。
だが、逃げてはいない。
リーヴが呟く。
「間に合わなかった……」
俺は首を振った。
「まだです」
全員が俺を見る。
「敵は遺言状を奪うために動いた。なら、逃走経路が必要です。礼拝堂から外へ出るには?」
ベルクが即答する。
「正面回廊、東側庭園、地下水路。だが地下水路は古く、今は封鎖されている」
「本当に?」
ベルクの表情が止まる。
「……確認はしていない」
「狙うなら地下水路です。王宮内部の協力者がいるなら、封鎖を一時的に開けられる」
ベルクが兵へ叫んだ。
「地下水路へ兵を回せ!」
「はい!」
部屋が一気に慌ただしくなる。
俺はエレオノーラを見た。
「殿下はここに」
「行きます」
即答だった。
「危険です」
「だからこそです」
「狙われるかもしれません」
「逃げてばかりでは、私は何も守れません」
その声は震えていた。
だが、言葉は曲がらない。
俺は数秒だけ彼女を見た。
止めても無駄だ。
そして、ここで止めるのが正しいとも限らない。
王位継承の遺言状が奪われるなら、エレオノーラ本人が現場にいる意味はある。
「では、俺の後ろに」
「はい」
「ベルク局長」
「何だ」
「殿下の護衛を最優先に。俺は礼拝堂へ向かいます」
「異国人が指揮するな」
「では、提案します」
ベルクは舌打ちした。
「分かった。提案を採用する」
俺たちは部屋を飛び出した。
廊下には警鐘が鳴り響いている。
石壁に反響し、足音と怒号が混ざる。
王宮の夜は、もう静かではなかった。
走りながら、俺は考える。
敵は何者か。
王宮礼拝堂へ人を呼び出せる。
魔法契約を使える。
遺言状の存在と保管場所を知っている。
書記官や騎士の家族を人質に取れる。
狙撃手を王宮内に配置できる。
これは個人ではない。
組織だ。
しかも、王宮の中枢に食い込んでいる。
ガルド宰相か。
第一王女か。
第一王子か。
あるいは、彼らの誰かを装った第三勢力か。
現時点では断定できない。
だが、一つ分かったことがある。
敵はエレオノーラを恐れていない。
軽んじている。
ならば、そこにつけ込める。
人は、自分が見下した相手に足をすくわれる。
「九条様!」
エレオノーラが息を切らしながら叫ぶ。
「何か分かったのですか?」
「はい」
「何が?」
「敵は、あなたを王位継承戦の駒としてしか見ていない」
「……それは、悪いことでは?」
「悪いことです。ですが、好都合でもある」
俺は礼拝堂へ続く回廊の先を見た。
遠くに、青白い光が漏れている。
魔法の光か。
「見下されている者は、見落とされます」
俺は言った。
「殿下。今夜、あなたは敵の想定外になります」
エレオノーラは息を呑んだ。
そして、強く頷いた。
王宮礼拝堂の扉が見えた。
その向こうで、誰かが王国の未来を書き換えようとしている。
嘘を暴くには、まだ情報が足りない。
だが、沈黙は破れた。
死者が残した沈黙の奥から、ようやく真実の輪郭が見え始めていた。
俺は扉の前で足を止めた。
そして、静かに息を吸う。
尋問は終わった。
ここからは、現場検証の時間だ。




