Ep3. 沈黙する令嬢
王宮で最も信用できない言葉は、忠誠である。
「殿下に忠誠を誓います」
「王女殿下のためならば、この命を捧げましょう」
「私は以前より、殿下の理想に深く感銘を受けておりました」
午前中だけで、俺はその手の台詞を七回聞いた。
そして、そのうち六回は嘘だった。
いや、正確に言えば、完全な嘘ではない。
彼らはエレオノーラ王女を裏切ろうとしているわけではない。
少なくとも、今すぐには。
ただし、忠誠を誓っている相手は王女ではない。
自分の家。
自分の利益。
自分の保身。
自分の派閥。
彼らはそれらを守るために、王女の名を利用しようとしている。
現代でも異世界でも、権力の周りに集まる人間の生態は大して変わらないらしい。
「九条様」
隣に座るエレオノーラが、小声で尋ねてきた。
「今の方は、どうでしたか?」
「よくあるタイプです」
「よくあるタイプ?」
「味方になりたいのではなく、勝ち馬に乗れるかどうかを見に来た人です」
エレオノーラは少し肩を落とした。
「……そうですか」
今、部屋を出ていったのは、地方貴族の次男だった。
一見すると物腰は柔らかく、エレオノーラの慈善事業にも理解を示していた。
だが、彼は王女の政策について話すときより、自分の領地の税優遇について話すときの方が明らかに声が安定していた。
彼にとって重要なのは国の未来ではない。
自分の家が次の権力争いで損をしないことだ。
悪人ではない。
しかし、最初に数えるべき味方でもない。
「殿下」
俺は机の上の羊皮紙に、短く印をつけた。
「味方を探すとき、まず善人を探そうとしない方がいい」
「善人では駄目なのですか?」
「善人は貴重です。ただ、善人だから味方になるとは限りません。逆に、善人でなくても利害が一致すれば味方になります」
「九条様らしい考え方ですね」
「現実的と言ってください」
「少し冷たい気もします」
「冷たくて結構です。王位継承戦を温かい気持ちだけで勝ち抜くのは難しいでしょう」
エレオノーラは反論しなかった。
代わりに、自分の膝の上で手を握る。
悔しさ。
焦り。
それから、理解。
彼女は甘い。
だが、話を聞く耳はある。
そこは救いだった。
俺たちは今、王宮東棟の小会議室にいる。
昨日の襲撃事件の後、エレオノーラは正式に俺を私的相談役として迎えた。
王族の私的相談役という立場は、どうやらこの国では珍しくないらしい。
ただし、俺のような素性不明の異国人を置くのは、かなり異例だ。
そのため、俺の存在は一晩で王宮中に広まった。
嘘を見抜く異国人。
王女を惑わす怪しい男。
ガルド宰相に啖呵を切った無礼者。
第三王女が拾ってきた得体の知れない参謀。
噂にはいくつか種類があるらしい。
どれも完全には間違っていないあたり、訂正が難しい。
「次の方をお通しします」
扉の前に控えていた侍女が告げる。
エレオノーラが姿勢を正した。
俺も手元の記録を閉じる。
今日の目的は、エレオノーラの周囲にいる人物の洗い出しだ。
信頼できる者。
利用できる者。
警戒すべき者。
すでに敵側に通じている者。
その分類を行う。
要するに、面接である。
王女派の人材採用面接。
ただし、不採用にした相手が暗殺者を送ってくる可能性がある点だけが、現代の採用面接とは違っていた。
扉が開いた。
入ってきたのは、若い女性だった。
年齢は二十歳前後。
栗色の髪を後ろでまとめ、淡い緑のドレスを着ている。
装飾は控えめだが、仕立ては良い。
地方貴族か、宮廷に仕える下級貴族の令嬢といったところか。
彼女は部屋に入ると、丁寧に膝を折った。
「お目通りを賜り、光栄にございます。エレオノーラ殿下」
「顔を上げてください、ミリア嬢」
エレオノーラの声が少し柔らかくなった。
知り合いか。
「こちらが、昨日お話しした九条真白様です」
ミリアと呼ばれた令嬢が俺を見る。
「お初にお目にかかります。ミリア・フォン・アルセーヌと申します」
「九条真白です」
俺は軽く頭を下げた。
ミリアは俺の礼に一瞬だけ戸惑ったが、すぐ微笑んだ。
「異国の礼法は、やはり少し違うのですね」
「まだこちらの礼儀に慣れていません」
「お気になさらず。私も完璧ではありませんから」
謙遜。
だが、嘘ではない。
彼女は席に着くよう促され、エレオノーラの向かいに座った。
姿勢が良い。
背筋は伸びているが、力みすぎてはいない。
指先は膝の上で揃えられている。
視線はエレオノーラを中心に、必要なときだけ俺へ移る。
落ち着いている。
少なくとも、午前中に会った貴族たちよりは。
「ミリア嬢は、以前から孤児院への支援を手伝ってくださっています」
エレオノーラが説明する。
「アルセーヌ家は南部の小領主ですが、薬草の栽培に詳しく、施療院にも薬を届けてくださっているのです」
「立派ですね」
俺が言うと、ミリアは静かに首を振った。
「立派なのは殿下です。私はできることをしているだけです」
その言葉に、嘘の兆候はない。
ただし、謙遜だけでもない。
彼女は本当に、自分の働きを過大評価していない。
珍しい。
「ミリア嬢」
俺は尋ねた。
「あなたはなぜ、殿下に協力しているのですか?」
エレオノーラが少しだけこちらを見る。
そんな聞き方をするのか、という顔だ。
だが、ミリアは動揺しなかった。
彼女は少し視線を落とし、考えてから答えた。
「殿下が、見捨てなかったからです」
「何を?」
「私の村を、です」
ミリアの声は静かだった。
だが、そこには感情があった。
怒りではない。
悲しみでもない。
感謝。
「三年前、南部で熱病が流行しました。貴族の多くは感染を恐れて領都に閉じこもり、王都への報告も遅れました。私の家も小さな領地ですから、薬も人手も足りず……正直、もう駄目だと思っていました」
エレオノーラは黙って聞いている。
「そのとき、殿下が施療師と薬を送ってくださったのです。王位継承権も低く、ご自身の権限も限られていたはずなのに」
ミリアはエレオノーラに目を向けた。
「殿下は、何も得をしないのに助けてくださいました」
「得がないわけではありません」
エレオノーラが少し照れたように言う。
「民が助かれば、それが国の得です」
「そう言える王族は多くありません」
ミリアの返答は穏やかだった。
だが、その穏やかさの奥に強さがある。
俺は彼女の手を見た。
指先が荒れている。
令嬢にしては珍しい。
薬草を扱っているという話は本当だろう。
爪は短い。
装飾より実務を優先している。
呼吸も安定している。
この場で何かを取り繕っている様子はない。
「ミリア嬢」
「はい」
「殿下が王位を目指すとして、あなたは何を提供できますか?」
エレオノーラが今度こそ目を丸くした。
直接的すぎる、という顔だった。
ミリアは少しだけ驚いたようだが、すぐに真剣な表情になった。
「南部の薬草供給網と、施療院とのつながりを」
「兵は?」
「ありません。アルセーヌ家の私兵は多くありませんし、戦力には数えられないでしょう」
「金は?」
「大貴族ほどではありません。ただし、薬草の取引で一定の蓄えはあります」
「情報は?」
ミリアの目がわずかに動いた。
ここで初めて迷いが出た。
嘘ではない。
言うべきかどうかを判断している。
「南部貴族の一部に、第一王子殿下への不満があります」
エレオノーラがわずかに身を乗り出した。
「兄上に?」
「はい。軍備拡張のため、南部からの徴発が増えています。表立って反対する者はいませんが、不満は蓄積しています」
なるほど。
これは使える。
エレオノーラの強みは、民や施療院とのつながり。
ミリアはその橋渡しになれる。
しかも南部の不満分子に接触できる可能性がある。
ただし。
「その情報を俺たちに渡すことで、あなたの家は危険になります」
俺が言うと、ミリアは静かに頷いた。
「承知しています」
「殿下が負ければ?」
「アルセーヌ家は冷遇されるでしょう」
「最悪、潰されるかもしれません」
「はい」
「それでも協力すると?」
ミリアは一度だけ、エレオノーラを見た。
そして、まっすぐ俺を見る。
「私は、殿下が王になられる未来を見たいのです」
言葉は穏やか。
しかし、そこに嘘はなかった。
俺は羊皮紙に印をつけた。
最初の本命。
「殿下」
「はい」
「ミリア嬢は、現時点で最も信用できます」
エレオノーラの顔が明るくなる。
ミリアも少し驚いたように俺を見た。
「よろしいのですか? そのように簡単に」
「簡単ではありません。あなたの表情、呼吸、視線、手の動き、発言の一貫性を見ました。少なくとも、今この場で嘘をついている可能性は低い」
「……噂は本当なのですね」
「どんな噂かによります」
「人の嘘を見抜く異国の賢者だと」
「賢者ではありません。ただの職業病です」
ミリアは小さく笑った。
その笑みも自然だった。
エレオノーラは安心したように息を吐く。
「ミリア嬢。改めて、私に力を貸していただけますか?」
「もちろんでございます」
ミリアは深く頭を下げた。
第一の味方。
少なくとも、今はそう数えていい。
だが、味方が一人見つかるということは、敵から見ても盤面が動くということだ。
この王宮では、味方を得ることすら危険になる。
それを証明するように、次の来訪者は予定にない人物だった。
「セレスティア第一王女殿下がお見えです」
侍女の声が、扉の外から響いた。
エレオノーラの表情が一瞬で硬くなる。
ミリアも即座に立ち上がった。
第一王女。
王位継承権第二位。
外交と宮廷工作に長け、多くの文官と中立貴族を抱える有力候補。
エレオノーラの姉にあたる人物だ。
俺は扉を見る。
空気が変わった。
扉が開く前から、周囲が緊張している。
これは権力者の気配ではない。
権力者が来ることを知った人間たちの反応だ。
扉が開いた。
入ってきたのは、美しい女性だった。
長い黒紫の髪。
雪のように白い肌。
深い紫の瞳。
濃紺のドレスには銀糸の刺繍が施され、首元には小さな宝石が光っている。
派手ではない。
だが、一目で分かる。
彼女は、自分をどう見せれば最も強く見えるかを知っている。
セレスティア・リュミエール。
第一王女は、ゆっくりと部屋を見渡した。
ミリア。
エレオノーラ。
そして俺。
「邪魔をしたかしら」
声は穏やかだった。
「姉上」
エレオノーラが立ち上がる。
「いえ。そのようなことは」
「そう。なら良かった」
セレスティアは微笑んだ。
完璧な微笑みだった。
口角の角度。
目元の緩み。
首の傾け方。
声の温度。
すべてが整っている。
整いすぎている。
読みにくい。
俺は内心で少し眉を動かした。
訓練されている。
貴族の礼法としての表情管理ではない。
もっと実用的なものだ。
感情を見せないための技術。
「あなたが、噂の異国人ね」
セレスティアの視線が俺に向く。
「九条真白です」
「セレスティア・リュミエールです。妹がお世話になっているようで」
「こちらこそ、殿下には保護していただいています」
「保護」
セレスティアはその言葉を口の中で転がすように繰り返した。
「面白い言い方ね。まるで、拾われた猫のよう」
「実際、森で拾われましたので」
エレオノーラが少し困った顔をした。
ミリアは表情を抑えている。
セレスティアは小さく笑った。
「素直なのね」
「嘘が苦手なもので」
「人の嘘を見抜く方なのに?」
「だからこそです」
「なるほど」
セレスティアの微笑みは崩れない。
俺は彼女を見る。
呼吸は安定。
視線も自然。
指先にも癖がない。
足先の向きも、こちらへ向けすぎず、外しすぎず。
隙がない。
厄介だ。
「エレオノーラ」
セレスティアは妹へ視線を移した。
「ずいぶん面白い方を相談役にしたのね」
「はい。九条様の力は、私に必要です」
「そう。あなたがそう判断したのなら、姉としては見守るべきなのでしょうね」
嘘ではない。
だが、本心でもない。
いや、正確には言葉の中に感情が乗っていない。
見守る。
姉として。
判断。
どれも意味はあるが、温度がない。
言葉が磨き上げられた石のようだ。
「ただ、心配でもあるわ」
セレスティアは続けた。
「この王宮では、珍しい力を持つ者は利用される。あなたも、その相談役も」
「ご忠告、感謝します」
エレオノーラは丁寧に頭を下げる。
その横顔に緊張がある。
姉を恐れているのではない。
尊敬と警戒が混じっている。
姉妹仲は悪くない。
ただし、同じ玉座を見ている。
それだけで十分に複雑だ。
「九条様」
セレスティアが俺の名を呼んだ。
「はい」
「あなたは本当に、人の嘘が分かるの?」
「ある程度は」
「では、私が今から言う言葉も?」
「判断材料があれば」
セレスティアはゆっくりと俺の前へ歩いてきた。
距離が近くなる。
香水の匂いがした。
甘さは控えめ。
冷たい花の香り。
彼女は俺を正面から見た。
「私は、エレオノーラを大切に思っています」
エレオノーラの肩が小さく揺れた。
俺はセレスティアを見る。
微笑み。
瞳。
喉。
呼吸。
肩。
指。
分からない。
いや、違う。
嘘の兆候がない。
だが、それは本心だからではなく、兆候を消しているからだ。
この人は、表情と身体を制御している。
俺の観察眼が通じない相手。
少なくとも、一目では。
「どうかしら?」
セレスティアが尋ねる。
室内の視線が俺に集まる。
エレオノーラも、ミリアも、侍女も。
これは試験だ。
ただの質問ではない。
もし俺が「本当です」と言えば、セレスティアの言葉を保証することになる。
もし「嘘です」と言えば、王女姉妹の関係に亀裂を入れる。
もし「分かりません」と言えば、俺の能力の評判に傷がつく。
上手い。
この第一王女は、一言で盤面を作った。
俺は少しだけ笑った。
「分かりません」
室内が静まる。
エレオノーラが息を呑んだ。
セレスティアの微笑みは変わらない。
「分からない?」
「はい。殿下はご自身の反応をかなり制御されています。今の言葉が真実か嘘かを断定するには、情報が足りません」
「それを認めるのね」
「分からないことを分かると言うのは、最も危険な嘘です」
セレスティアの目が、ほんのわずかに細くなった。
初めての反応。
興味。
「では、質問を変えましょう」
「どうぞ」
「私がエレオノーラを大切に思っているかどうかではなく、あなたが私をどう見たかを聞きたいわ」
「よろしいのですか?」
「ええ」
「殿下は、妹君に情がないわけではない。ですが、妹君が王位を目指すなら、敵として扱う覚悟もある」
エレオノーラの表情が揺れる。
セレスティアは黙っている。
俺は続けた。
「先ほどの“見守る”という言葉に、安心させる意図はありました。ですが、守るとは言っていない。つまり殿下は、エレオノーラ殿下の選択を止めるつもりはないが、助けるつもりもない」
「……」
「ただし、潰すつもりも今はない。少なくとも、俺が見た限りでは」
沈黙。
やがて、セレスティアは静かに笑った。
今度の笑みは、ほんの少しだけ自然だった。
「面白い人ね」
「よく言われます」
「その後に、だいたい危険だとも言われるのでは?」
「そちらの方が多いですね」
セレスティアはエレオノーラに向き直った。
「よい相談役を見つけたわね」
「……姉上」
「ただし、気をつけなさい」
セレスティアの声が少しだけ低くなる。
「嘘を暴く者は、真実を見つける前に殺されることが多いわ」
ガルド宰相と似た忠告。
この王宮では、どうやらそれが共通認識らしい。
「ご忠告、ありがとうございます」
エレオノーラが答える。
セレスティアは頷き、扉へ向かった。
去り際、彼女は俺だけに聞こえるほどの声で言った。
「九条真白」
「はい」
「あなたは、どちらかしら」
「何がでしょう」
「妹を王にする毒か、それとも薬か」
「用量次第です」
セレスティアは一瞬だけ目を見開き、それから微笑んだ。
「覚えておくわ」
第一王女は部屋を出ていった。
扉が閉まる。
室内に残された空気が、ようやく動き出した。
エレオノーラは椅子に腰を下ろす。
「……緊張しました」
「分かります」
「あの、九条様」
「はい」
「姉上の言葉は、どうでしたか?」
俺は少し迷った。
ここで慰めるのは簡単だ。
「あなたを大切に思っているようでした」と言えば、エレオノーラは安心するだろう。
だが、それは俺の役目ではない。
「セレスティア殿下は、あなたを嫌ってはいません」
エレオノーラの表情が少し緩む。
「ただし、あなたが王位を目指すなら、敵になります」
その表情が再び硬くなる。
「……そう、ですよね」
「姉妹であることと、王位を争うことは両立します」
「苦しいですね」
「王族ですから」
我ながら冷たい言い方だった。
だが、エレオノーラは怒らなかった。
彼女は静かに頷いた。
「分かっています。分かっているつもりです」
つもり。
その言葉に、彼女自身の迷いが出ていた。
王を目指すと言った。
だが、兄や姉と争う覚悟はまだ足りない。
それも当然だ。
昨日まで彼女は、王位継承戦の主役ではなかった。
善良な第三王女でいられた。
だが、今日からは違う。
彼女が味方を集めるほど、誰かの敵になる。
「殿下」
俺は言った。
「王になるということは、誰かに嫌われる立場になることです」
「……はい」
「それでも目指しますか?」
エレオノーラは顔を上げた。
青い瞳が俺を見る。
そこに恐怖はある。
迷いもある。
だが、逃げはなかった。
「目指します」
短い答え。
嘘はない。
俺は頷いた。
「なら、次に進みましょう」
「次?」
「ミリア嬢を正式に側近候補として扱います。そして南部の不満貴族との接点を作る」
ミリアが静かに頭を下げる。
「承知しました」
「ただし、急ぎすぎない。今、殿下の周囲は見られています。派手に動けば、第二のリーヴが出る」
「では、どうしますか?」
エレオノーラが尋ねる。
俺は机の上に置かれた候補者名簿を見る。
名前はまだ多い。
だが、信用できる者は少ない。
「表向きは慈善事業の拡大として動きます」
「慈善事業?」
「はい。殿下がこれまで行ってきた施療院と孤児院への支援。その名目で、南部や下級貴族、商人、施療師と接点を持つ」
ミリアが目を細めた。
理解が早い。
「政治活動ではなく、救済活動として人を集めるのですね」
「そうです。殿下の強みは、軍でも金でもない。民への信頼と、弱い立場の者とのつながりです」
エレオノーラは少し驚いたように俺を見る。
「それが、私の強み……」
「はい」
「私は、それを弱さだと思っていました」
「使い方次第です」
俺は続ける。
「第一王子は軍を持つ。第一王女は宮廷と文官を持つ。なら、第三王女は民と現場を持てばいい」
エレオノーラの表情が変わった。
自分の中で何かがつながった顔。
これは大事だ。
人は、自分の弱点を武器だと認識した瞬間に変わる。
「そのために、まずミリア嬢の南部薬草網を使う。施療院支援の名目で、南部の実情を調べる。徴発に不満を持つ貴族、疲弊した村、薬不足、軍備拡張の影響。それらを集める」
「それを使って、兄上を攻撃するのですか?」
エレオノーラの声にためらいがある。
俺は首を振った。
「いいえ。攻撃ではなく、政策にする」
「政策」
「第一王子を責めるのではなく、民を救うための案を出す。軍を敵に回さず、徴発の見直しと施療体制の改善を提案する。理想論ではなく、数字と証言を揃えて」
エレオノーラは真剣に聞いている。
「そのためには、正確な情報が必要です」
「はい。嘘のない情報が」
「そうです」
彼女は小さく息を吸った。
そして、ミリアを見る。
「ミリア嬢。南部の状況を、私に教えてください。綺麗な報告ではなく、本当のことを」
ミリアは深く頭を下げた。
「喜んで」
これで一歩。
第三王女の派閥は、まだ小さい。
王族一人。
異国人一人。
南部の令嬢一人。
戦力としては笑えるほど弱い。
だが、方向性は見えた。
「九条様」
エレオノーラが俺を見る。
「私、少しだけ分かった気がします」
「何をです?」
「王になるということは、玉座に座ることではなく、誰の声を拾うかを選ぶことなのですね」
俺は思わず彼女を見た。
驚いた。
それは、予想よりもずっと王らしい言葉だった。
「……いい言葉です」
「本当ですか?」
「ええ。ただ、今の言葉は人前で言わない方がいい」
「なぜです?」
「敵に利用されます」
「難しいですね」
「だから言ったでしょう。本当のことをすべて言う必要はないと」
エレオノーラは困ったように笑った。
ミリアも控えめに笑う。
その空気は、昨日までの殺伐とした王宮にはなかったものだ。
しかし、長くは続かなかった。
扉の外が騒がしくなる。
侍女が慌てて入ってきた。
「殿下」
「どうしました?」
侍女の顔色が悪い。
恐怖。
「王宮警備局より報告です。昨夜保護された書記官リーヴの母親が……」
俺は嫌な予感を覚えた。
「見つかったのですか?」
侍女は頷いた。
「はい。ですが……」
言い淀む。
エレオノーラが立ち上がる。
「無事なのですか?」
侍女は唇を震わせた。
「亡くなっていました」
部屋の空気が凍った。
ミリアが口元を押さえる。
エレオノーラの顔から血の気が引いた。
俺は侍女を見る。
「場所は?」
「王都の外れにある廃礼拝堂です」
「死因は?」
「詳しくはまだ。ただ、遺体のそばに短剣が置かれていたと」
短剣。
嫌な演出だ。
「伝言は?」
侍女は息を呑んだ。
「ありました」
「内容は?」
侍女は震える声で告げた。
「“沈黙できぬ者は、沈黙させる”と」
沈黙。
それが今回の敵のやり方か。
口を開こうとしたカイルは射殺された。
話そうとしたリーヴは狙撃された。
そして、その母親は殺された。
情報を持つ者を沈黙させる。
単純だが、効果的だ。
エレオノーラの拳が震えている。
悲しみ。
怒り。
罪悪感。
「私のせいです」
彼女が呟いた。
「私がリーヴを保護すると言ったから……」
「違います」
俺は即座に否定した。
「ですが、私が関わらなければ」
「関わらなくても殺されていた可能性が高い。リーヴが捕まった時点で、彼の母親は口封じの対象です」
「でも……」
「殿下」
俺は彼女の前に立った。
「罪悪感に沈むのは後です。今やるべきことがあります」
エレオノーラが俺を見る。
瞳が揺れている。
「何をすれば……」
「リーヴを守る」
「リーヴを?」
「母親が殺されたと知れば、彼は壊れる。自白どころではなくなる。最悪、自責の念で自害する」
ミリアが息を呑んだ。
「そしてもう一つ」
俺は続けた。
「敵は伝言を残した。つまり、俺たちに恐怖を与えたい。なら逆に、その伝言を分析できる」
「分析……」
「“沈黙できぬ者は、沈黙させる”。これは脅し文句です。ただ、妙に整っている。盗賊や下級兵士の言葉ではない。教育を受けた人間の文体です」
俺は机の上に指を置く。
「しかも“殺す”ではなく“沈黙させる”。この表現を選ぶ人間は、自分の行為を処刑や秩序維持のように捉えている可能性がある」
「つまり、犯人は……」
エレオノーラが言葉を飲み込む。
俺は頷いた。
「貴族、文官、聖職者。少なくとも、ただの暗殺者ではない」
セレスティアの言葉が頭をよぎる。
嘘を暴く者は、真実を見つける前に殺される。
この王宮には、嘘だけではなく、沈黙も満ちている。
そして沈黙を守るために、人を殺す者がいる。
「殿下」
俺は言った。
「今夜、リーヴと話します」
「危険です」
「でしょうね」
「また狙われるかもしれません」
「その可能性は高い」
「なら――」
「だからこそ、話します」
エレオノーラは言葉を失った。
俺は彼女を見る。
「敵はリーヴを恐れている。なら、彼は重要な情報を持っている」
「ですが、彼は母親を……」
「だから、尋問では駄目です」
俺は静かに言った。
「今夜やるのは、尋問ではありません。彼を死なせないための会話です」
エレオノーラはしばらく俺を見つめた。
やがて、ゆっくりと頷く。
「私も同席します」
「おすすめはしません」
「同席します」
今度は引かない顔だった。
「リーヴの母を守れなかった責任は、私にもあります。なら、彼の言葉から逃げることはできません」
嘘はない。
未熟だ。
危うい。
だが、王になるなら必要な痛みでもある。
俺は小さく息を吐いた。
「分かりました。ただし、俺の指示には従ってください」
「はい」
「彼を責めない。謝りすぎない。感情で約束しない」
「……難しそうです」
「難しいです」
「ですが、やります」
その目に、先ほどまでとは違う光があった。
第一王女との会話。
ミリアという味方。
リーヴの母の死。
この一日で、エレオノーラは少し変わった。
王女から、王候補へ。
まだ一歩目にも満たない。
だが、歩き出した。
俺は窓の外を見た。
王宮の塔が夕陽に染まっている。
そのどこかから、昨日の狙撃者がこちらを見ているかもしれない。
あるいは、第一王女セレスティアが。
第一王子レオンハルトが。
ガルド宰相が。
まだ名前も知らない黒幕が。
この世界の嘘は、思ったより深い。
だが、深い嘘ほど、暴いたときの価値は大きい。
「さて」
俺は机の上の候補者名簿を閉じた。
「夜までに準備をしましょう」
「何の準備ですか?」
エレオノーラが尋ねる。
俺は答えた。
「沈黙させられる前に、沈黙を破らせる準備です」
第三王女の最初の味方を得たその日。
俺たちは、最初の死者の声を聞くことになった。




