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Ep2. 第三王女の相談役

王宮というものを、俺は映像や本の中でしか知らなかった。


白亜の城壁。

天井の高い回廊。

磨き上げられた大理石の床。

壁に飾られた肖像画。

一定間隔で立つ甲冑姿の衛兵。


現実離れした光景だった。


いや、実際に現実ではないのかもしれない。


少なくとも、俺の知る現実では。


「九条様。こちらです」


先を歩くエレオノーラ王女が振り返った。


森で出会ったときの乗馬服とは違い、今の彼女は王女らしい白と青のドレスを身にまとっている。

長い銀金の髪は丁寧に編み込まれ、青い宝石の髪飾りが光を受けて揺れていた。


さすがに絵になる。


とはいえ、本人はあまり着飾ることに慣れていないらしい。

廊下を歩く間、彼女の右手は何度か袖口に触れていた。


緊張している。


俺の視線に気づいたのか、エレオノーラは小さく首をかしげた。


「何か?」


「いえ。王女らしいなと思っただけです」


「それは褒め言葉でしょうか」


「半分は」


「残り半分は?」


「少し無理をしているように見えます」


エレオノーラは目を瞬かせ、それから苦笑した。


「やはり、分かってしまうのですね」


「袖口を触る回数が多い。歩幅が森で会ったときより三センチほど狭い。呼吸も浅い。慣れた服装ではないのでしょう」


「そこまで見ているのですか?」


「癖です」


「……味方でいてくださるなら、心強いです」


その言葉に嘘はなかった。


だが、わずかに不安が混じっている。


俺が本当に味方なのか。

自分は俺を信じてよいのか。

そう迷っている。


当然だ。


森で会ったばかりの異国人。

それも、騎士の裏切りを一瞬で見抜いた得体の知れない男。


普通なら、信用する方が危ない。


「殿下」


俺は言った。


「俺を完全に信用する必要はありません」


エレオノーラの足が止まった。


「え?」


「俺は、あなたの理想に共感して手を貸すわけではない。俺が欲しいのは、この世界で生きるための安全と地位です。あなたが俺を利用するように、俺もあなたを利用する」


「……随分とはっきり言うのですね」


「嘘をついても、後で面倒になりますから」


エレオノーラは数秒だけ俺を見つめ、それから柔らかく笑った。


「では、私も正直に言います」


「どうぞ」


「あなたのような人は、少し怖いです」


正直な言葉だった。


「ですが、今の私には、あなたの力が必要です」


これも本心。


俺は頷いた。


「十分です」


信頼など、最初からある方が不自然だ。

契約から始まる関係の方が、むしろ分かりやすい。


少なくとも、宮廷では。


回廊を進むにつれて、周囲の視線が増えていった。


侍女。

衛兵。

文官。

貴族らしき男女。


彼らは俺とすれ違うたびに、ほんの一瞬だけ視線を寄越す。


その目には、好奇心と警戒があった。

そして、その大半には侮りも混じっている。


無理もない。


この世界の王宮で、黒いスーツ姿の男はかなり浮いている。

貴族でも騎士でも魔術師でもない。

従者にしては態度が大きい。

商人にしては荷物が少ない。


分類できないものは、人を不安にさせる。


「視線が痛いですね」


俺が呟くと、エレオノーラは申し訳なさそうに眉を下げた。


「すみません。私に力があれば、もう少し丁重に迎えられたのですが」


「殿下のせいではありません」


「ですが……」


「いえ、殿下の立場が弱いことは、彼らの反応でよく分かりました」


エレオノーラの表情が固まる。


しまった。

少し直接的すぎたか。


だが事実だ。


俺たちとすれ違う者たちは、エレオノーラに礼をする。

しかし、その礼は浅い。


第一王子や第一王女に向けるものとは、おそらく違うのだろう。


礼儀はある。

敬意は薄い。


「……やはり、そう見えますか」


「ええ」


「隠しても仕方ありませんね」


エレオノーラは前を向いた。


その横顔は穏やかだったが、指先だけが強く握られていた。


悔しさ。


自分でも理解している。

だからこそ、痛い。


「私は第三王女です。母の家格も高くありません。軍は兄上を支持し、古い大貴族の多くは姉上に近い。私には、これといった後ろ盾がないのです」


「民衆の支持は?」


「一部ではあります。孤児院や施療院への支援を続けてきましたから」


「貴族からは人気がなさそうですね」


「はい」


即答だった。


エレオノーラは少し寂しそうに笑う。


「貴族の方々からすれば、私は理想論ばかり口にする小娘なのでしょう」


「実際、理想論は口にしていましたね」


「そこは否定してくださらないのですね」


「嘘は嫌いなので」


エレオノーラが小さく笑った。


少しだけ緊張が緩んだらしい。


悪くない反応だ。


やがて俺たちは、大きな扉の前に着いた。


扉の左右には、槍を持った衛兵が立っている。

奥からは複数人の話し声が聞こえた。


エレオノーラが小さく息を吸う。


「この先に、王宮警備局の者たちと数名の重臣がいます。森での襲撃について事情聴取を行います」


「つまり、俺が尋問される場ですね」


「そのようなつもりでは……」


「構いません。むしろ、当然です」


いきなり現れた異国人。

直後に王女の護衛騎士が内通者として発覚し、口封じに殺された。


怪しい要素しかない。


俺が彼らの立場なら、まず間違いなく疑う。


「ただ、一つ確認しておきます」


「何でしょう」


「俺は、黙って疑われる趣味はありません」


エレオノーラが目を見開く。


「……お手柔らかにお願いします」


「努力します」


扉が開いた。


中は円卓の会議室だった。


壁には王国の地図。

棚には分厚い記録書。

窓際には深紅のカーテンが垂れ、室内には十数人の男女がいる。


そのうち数人は鎧姿。

数人は文官服。

そして上座に、一人の老人が座っていた。


灰色の髪。

整えられた白い髭。

深く刻まれた皺。

しかし、目だけは若者のように鋭い。


ガルド宰相。


名前を聞いた瞬間にカイルが射殺された男。


本人かどうかは分からない。

だが、状況から見てそう考えるのが自然だった。


老人はゆっくりとこちらを見た。


「エレオノーラ殿下。ご無事で何よりです」


声は低く、穏やか。


表情にも乱れはない。


熟練している。


この男は、自分の顔を制御する訓練を積んでいる。


エレオノーラが礼を返す。


「ご心配をおかけしました、ガルド宰相」


「して、そちらの男が?」


老人の視線が俺に向く。


「森で保護した異国の方です。名を九条真白。先ほどの件で、重要な証言を持っています」


「重要な証言、ですか」


ガルド宰相は微笑んだ。


「それは興味深い」


嘘ではない。


本当に興味を持っている。


ただし、それは好意的な興味ではない。

刃物の切れ味を確かめるような目だった。


俺は軽く頭を下げる。


「九条真白です。よろしくお願いします」


「異国の礼法は簡素ですな」


室内の誰かが鼻で笑った。


声の主は、赤い外套を羽織った中年貴族だった。


太った体。

丸い顔。

指には宝石の指輪がいくつもはまっている。


典型的な宮廷貴族。

自尊心が高く、他人を値踏みすることに慣れている。


「殿下。このような素性の知れぬ男を王宮に招き入れるとは、いささか軽率ではありませんかな」


「ドレイク卿」


エレオノーラの声が少し硬くなる。


「彼は私の命を救ってくれました」


「救った? それは本当ですかな。むしろ彼こそが襲撃者の一味では? あまりにも都合よく現れすぎている」


もっともな意見だ。


ただし、言い方に悪意がある。


俺を疑っているというより、エレオノーラを貶める材料に使っている。


俺はドレイク卿を見た。


彼は俺と目が合うと、口角を上げた。


勝ち誇った笑み。


だが、目が笑っていない。


敵意。

侮蔑。

そして少しの焦り。


「ドレイク卿」


俺は名前を呼んだ。


「何かな、異国人」


「あなたは今、俺が襲撃者の一味だと本気で考えているわけではありませんね」


室内が静まり返った。


ドレイク卿の笑みが固まる。


「……何を根拠に?」


「根拠はあります」


俺は淡々と続けた。


「あなたは俺を疑う発言をしながら、一度も王女殿下の傷の有無を確認していない。襲撃事件の真相に興味がある人間なら、まず被害者の状態を見る。あなたの関心は事件ではなく、殿下の判断を軽率に見せることにある」


「無礼な!」


ドレイク卿が机を叩いた。


怒り。


ただし、本物の怒りは三割。

残りは動揺の隠蔽。


「さらに言えば、あなたは“都合よく現れすぎている”と言いました。しかし俺が現れた場所や詳しい状況は、まだこの場で説明されていない。あなたはなぜ、俺がどこにどう現れたか知っているのですか?」


ドレイク卿の喉が動いた。


唾を飲み込んだ。


室内の視線が彼に集まる。


「そ、それは……報告を聞いたからだ」


「誰から?」


「警備局からに決まっている!」


「おかしいですね」


俺は会議室の鎧姿の男を見る。


おそらく王宮警備局の責任者だ。


「森から戻ってすぐにこの会議が開かれた。報告はまだまとまっていない。違いますか?」


鎧姿の男は一瞬迷ったが、すぐに答えた。


「……その通りだ。正式な報告書はまだ出していない」


ドレイク卿の額に汗が浮いた。


「なら、ドレイク卿。あなたは誰から聞いた?」


「ぐ……」


エレオノーラが息を呑む。


ガルド宰相は黙っている。


表情は変わらない。


だが、右手の指が一度だけ椅子の肘掛けを叩いた。


苛立ちか。

それとも関心か。


「言いがかりだ!」


ドレイク卿は叫んだ。


「この男は危険ですぞ! 殿下を惑わすために――」


「ドレイク卿」


今度はガルド宰相が口を開いた。


低い声だった。


それだけで、ドレイク卿は黙った。


「少し落ち着きなさい。異国の客人にそこまで声を荒らげては、こちらの品位が疑われる」


「し、しかし宰相閣下……」


「九条殿」


ガルド宰相は俺に向き直った。


「あなたは、人の嘘を見抜けるのですかな?」


室内の空気が変わった。


疑念。

嘲笑。

好奇。


俺は肩をすくめた。


「見抜ける、と言い切るつもりはありません」


「ほう」


「人の心を読むことはできない。ですが、人は嘘をつくとき、何かしら身体に余計な動きを出す。視線、呼吸、声の高さ、沈黙の長さ、手指の緊張、足先の向き。そういったものを観察すれば、嘘や隠し事の兆候はかなり拾えます」


「学問ですかな?」


「学問であり、技術です」


ガルド宰相の目が細くなる。


「面白い」


その一言は、本心だった。


ただし、危険な本心だ。


珍しい玩具を見つけた子供ではない。

未知の毒を前にした薬師の興味。


「では九条殿。あなたの技術が本物かどうか、試しても?」


エレオノーラが身を乗り出した。


「宰相、それは――」


「殿下」


俺は彼女を制した。


「構いません」


むしろ好都合だ。


この場で不審者のまま終われば、俺は王宮で何もできない。

エレオノーラの相談役になるなら、最低限の価値を示す必要がある。


ガルド宰相は満足げに頷いた。


「では、簡単な質問をしましょう」


「どうぞ」


「この中に、森の襲撃について事前に知っていた者がいると思いますか?」


重い質問だった。


室内に緊張が走る。


全員の表情がわずかに変わった。


怒る者。

驚く者。

何も反応しない者。


俺は全員を見渡した。


一人ずつ。


ドレイク卿は怯えている。

だが、これは自分の失言を追及される恐怖だ。

襲撃への直接関与とは違う。


警備局長は怒っている。

自分の管轄で王女が襲われたことへの怒りと屈辱。


文官の一人は、純粋に混乱している。


侍従長らしき女性は、エレオノーラを心配している。


そして。


部屋の隅に立つ若い書記官。


細身の男。

茶色の髪。

目立たない顔。

手には記録用の羽ペン。


彼だけが、俺と目が合う前に視線を落とした。


それ自体は珍しくない。


だが、落とした視線の先が問題だった。


紙ではない。

窓だ。


逃走経路の確認。


さらに、左手の親指が爪を押し込んでいる。

強い緊張。

それを隠すために、羽ペンを握る右手だけを不自然に固定している。


俺はゆっくりと歩いた。


書記官の前で止まる。


「あなた、名前は?」


「……リ、リーヴです」


声が裏返った。


「リーヴさん。あなたは森の襲撃について、事前に何かを知っていましたね」


「知りません!」


即答。


早すぎる。


人は事実無根の疑いをかけられたとき、まず理解に時間がかかる。


「何を?」

「どういう意味だ?」

「なぜ自分が?」


そうした反応が自然だ。


だが彼は、否定だけを準備していた。


「嘘ですね」


俺が言うと、リーヴの顔から血の気が引いた。


「ち、違います!」


「では質問を変えます。あなたはカイルという騎士を知っていますか?」


リーヴの瞳孔が広がった。


「知り、ません」


「また嘘です」


ざわめきが起こる。


「カイルは死ぬ直前に、ある人物の名を言いかけました」


俺はあえてガルド宰相を見なかった。


リーヴだけを見る。


「あなたは、その名前を知っている」


「知らない!」


「いいえ、知っている。今、あなたは無意識に右肩を引いた。防御姿勢です。さらに視線が宰相閣下ではなく、ドレイク卿に向いた」


ドレイク卿が目を剥いた。


「私だと!?」


「まだ断定はしていません」


俺は言った。


「ですが、少なくともリーヴさんは、ドレイク卿の反応を気にした」


ドレイク卿の顔が赤くなる。


一方で、リーヴは震え始めていた。


この二人の関係は何だ?


主従ではない。

直接の上司でもなさそうだ。


リーヴはドレイク卿を恐れているが、絶対的ではない。

むしろ、その背後を恐れている。


「リーヴさん」


俺は声を落とした。


「あなたが怖がっているのは、ドレイク卿ではありませんね」


リーヴの唇が震える。


「あなたは伝令役だ。森で王女殿下の動きを盗賊側へ流した。しかし計画が失敗し、カイルが口を割りかけた。だから、口封じの矢が放たれた」


「違う……違う、私は……」


「あなたは直接殺していない」


その言葉に、リーヴの目が揺れた。


罪悪感。


ここだ。


俺は一歩踏み込む。


「だから自分は悪くないと思いたい。命令されただけだと。断れば家族が危なかったと」


リーヴの膝が崩れた。


「……母が」


室内が静まり返る。


「母が、捕まっていると……逆らえば殺すと……」


ドレイク卿が立ち上がった。


「馬鹿な! そのような戯言を――」


「黙りなさい」


エレオノーラの声だった。


普段の柔らかな声ではない。


王族の声。


ドレイク卿は言葉を止めた。


エレオノーラはリーヴの前に進み出る。


「誰に命じられたのですか?」


リーヴは震えながら首を振った。


「言えません……言えば母が……」


「私が保護します」


「無理です! 相手は――」


そこで、リーヴの声が止まった。


彼の目が、窓の外を見た。


恐怖。


同時に俺も動いた。


「伏せろ!」


叫ぶと同時に、俺はエレオノーラの腕を引いた。


次の瞬間、窓ガラスが砕けた。


一本の短い矢が、リーヴの立っていた場所を貫く。


矢は床に突き刺さり、黒い液体を散らした。


毒。


リーヴは腰を抜かしていたため、辛うじて矢を避けていた。


騎士たちが窓際へ走る。


「狙撃だ!」


「外を確認しろ!」


怒号が飛ぶ。


会議室は混乱に包まれた。


俺はエレオノーラを床に押し倒す形になっていた。


近い。


王女の青い瞳が、驚きで見開かれている。


「……失礼しました」


俺が身を起こそうとすると、エレオノーラは小さく首を振った。


「助かりました」


声が震えている。


だが、目は逸らしていない。


度胸がある。


リーヴは床で震えていた。


命拾いしたことを、まだ理解していない顔だ。


俺は立ち上がり、割れた窓を見た。


射線。

角度。

距離。


王宮の中庭に面した高塔からか。


つまり、襲撃者は王宮の内部構造を知っている。


そして、この会議室でリーヴが話す可能性を予測していた。


単なる盗賊ではない。


組織的だ。


「宰相閣下」


俺はガルドを見た。


「王宮の中に、まだ内通者がいます」


ガルド宰相は表情を変えなかった。


だが、その目だけがわずかに鋭くなった。


「そのようですな」


「それと、もう一つ」


「何でしょう」


「今の狙撃で、はっきりしました」


俺は室内を見渡した。


「リーヴさんは犯人の一味ではなく、切り捨てられる側です。つまり、彼から情報を聞き出せば、今回の襲撃の糸口に届く」


「なるほど」


ガルド宰相は頷いた。


「では、彼の尋問をあなたに任せろと?」


「尋問ではありません」


俺はリーヴを見た。


彼は今にも泣き出しそうな顔で震えている。


尋問対象としては脆い。

脅せば壊れる。

壊れれば情報の正確性が落ちる。


こういう相手には、恐怖ではなく逃げ道を与える必要がある。


「保護と事情聴取です」


エレオノーラが俺を見た。


少し意外そうな顔だった。


「九条様は、尋問人なのでしょう?」


「尋問とは、相手を痛めつけることではありません。真実を引き出す技術です」


俺はそう答えた。


「相手が恐怖で黙るなら、安心させる。罪悪感で嘘をつくなら、話しても生きられる道を示す。怒りで拒絶するなら、怒りの矛先を変える」


「……それが、あなたの技術」


「ええ」


エレオノーラはしばらく俺を見ていた。


その表情に浮かんでいたのは、警戒ではない。


理解しようとする目だった。


ガルド宰相が口を開く。


「面白い。九条真白殿」


「はい」


「私は、あなたをまだ信用しておりません」


「賢明です」


周囲がざわついた。


宰相に対してその返答はどうなのか、という空気だった。


だがガルドは笑った。


「しかし、役に立つ人間であることは認めましょう」


「ありがとうございます」


「エレオノーラ殿下」


ガルドは王女に向き直った。


「この異国人を正式に相談役として置きたい、ということでよろしいですかな」


エレオノーラは一瞬だけ息を止めた。


ここが勝負所だと理解したのだろう。


彼女は背筋を伸ばした。


「はい。九条真白を、私の相談役として迎えます」


「王族の私的相談役であれば、陛下の裁可までは不要。ただし、王宮内での行動には制限がつきます」


「承知しています」


「また、彼が問題を起こした場合、責任は殿下に及びます」


脅しだ。


いや、確認か。


どちらにせよ、重い。


エレオノーラの指先がわずかに震えた。


だが、彼女は引かなかった。


「それでも、私は彼の力が必要です」


ガルド宰相はしばらく彼女を見つめた。


そして、俺を見た。


「九条殿」


「はい」


「第三王女殿下は、あなたを信じるそうです」


「そのようですね」


「あなたは、殿下を裏切りますか?」


部屋の空気が冷える。


質問そのものは単純だ。


だが、ここで答え方を間違えれば、俺の立場は終わる。


裏切らない、と即答すれば嘘くさい。

忠誠を誓えば軽すぎる。

王女のために命を懸けると言えば、もっと信用できない。


だから、正直に答える。


「今のところ、その予定はありません」


誰かが息を呑んだ。


エレオノーラも目を丸くしている。


ガルド宰相だけが、愉快そうに目を細めた。


「今のところ、ですか」


「俺はこの世界で生きるための地位と安全が欲しい。殿下は王位を目指すための力が欲しい。利害が一致している限り、俺は殿下を裏切りません」


「利害が変われば?」


「そのときは交渉します」


室内が完全に静まり返った。


正直すぎる発言は、ときに嘘より人を困らせる。


エレオノーラは数秒沈黙した後、ふっと笑った。


「九条様らしいですね」


「まだ会って半日ですが」


「それでも、少し分かってきました」


そう言う彼女の顔に、先ほどまでの緊張は少なかった。


不思議な人だ。


普通なら、ここで忠誠を誓う臣下を求める。

だが彼女は、俺の打算を聞いて安心している。


おそらく、嘘の忠誠に疲れているのだろう。


ガルド宰相は静かに立ち上がった。


「よろしい。リーヴの身柄は王宮警備局が確保します。九条殿には、殿下立ち会いのもと事情聴取を行っていただきましょう」


「ありがとうございます」


「ただし」


ガルドの視線が鋭くなる。


「この王宮では、嘘を暴く者ほど早く死にますぞ」


それは忠告だった。


同時に、試しでもある。


俺は少しだけ笑った。


「前の職場でも、似たようなことを言われました」


「その結果は?」


「死にかけました」


ガルド宰相が初めて声を出して笑った。


「なるほど。では、今度はお気をつけなさい」


「努力します」


会議はそこで一度中断となった。


リーヴは騎士たちに連れていかれ、ドレイク卿は顔色を悪くしたまま退室した。

ガルド宰相もまた、数人の文官を伴って部屋を出ていく。


残されたのは、俺とエレオノーラだけだった。


割れた窓から風が入ってくる。


床には毒矢の跡。

砕けたガラス。

乱れた椅子。


王宮とは、思ったより物騒な場所らしい。


「九条様」


エレオノーラが静かに言った。


「私は、あなたに謝らなければなりません」


「何をです?」


「あなたを巻き込みました。あなたはこの世界に来たばかりなのに、私の事情に関わったせいで、命を狙われる立場になってしまった」


「それは違います」


俺は首を振った。


「おそらく、俺は最初から安全ではありませんでした。この世界の知識も身分もない。金もない。後ろ盾もない。一人で放り出されていたら、盗賊か貴族か魔物に殺されていたでしょう」


「魔物?」


「いるんですか?」


「……います」


いるのか。


やはりファンタジー世界は油断ならない。


「なら、なおさらです」


俺は続けた。


「殿下と手を組んだのは、今のところ最善の選択です」


「今のところ、ですね」


「はい」


エレオノーラは苦笑した。


「では、その“今のところ”を長く続けられるよう努力します」


その言葉に、俺は少しだけ目を細めた。


王女の言葉には嘘が少ない。


少なすぎる。


だから危うい。


この王宮のような場所では、正直さは美徳ではない。

弱点だ。


だが同時に、人を動かす力でもある。


少なくとも俺は、その正直さに少しだけ動かされている。


「殿下」


「はい」


「王を目指すなら、まず一つ覚えてください」


「何でしょう」


「嘘をつく必要はありません。ただし、本当のことをすべて言う必要もありません」


エレオノーラは真剣な顔で頷いた。


「難しいですね」


「難しいです。だから、俺が手伝います」


「ありがとうございます」


彼女は微笑んだ。


その笑みは、森で見たものと同じだった。


作り物ではない。

礼儀でもない。

純粋な感謝。


まったく。


嘘を見抜く人間に、そんな顔を向けるのは反則だ。


「それで、九条様」


「はい」


「まずは何をすればよいでしょうか」


王女が尋ねる。


俺は割れた窓の外を見た。


誰が襲撃を仕組んだのか。

カイルを操ったのは誰か。

リーヴの母を人質に取ったのは誰か。

ドレイク卿はどこまで関わっているのか。

ガルド宰相は本当に敵なのか。


分からないことは多い。


だが、最初にやるべきことは決まっている。


「味方を数えます」


「味方、ですか?」


「はい。敵を探す前に、味方が何人いるかを知るべきです」


エレオノーラは少し困った顔をした。


「……あまり多くはありません」


「でしょうね」


「そこは否定してくださらないのですね」


「嘘は嫌いなので」


エレオノーラはまた苦笑した。


俺は会議室の扉へ歩き出す。


「それと、もう一つ」


「何でしょう」


「俺の服をどうにかしてください」


エレオノーラが瞬きをした。


「服、ですか?」


「この格好では目立ちすぎます。王宮内で動くには不利です」


「たしかに……」


彼女は俺のスーツを上から下まで眺める。


「ですが、その服装も九条様らしくてよいと思います」


「目立ちます」


「では、目立たない範囲で、少しだけ残しましょう」


「なぜです?」


「その方が、あなたが異国の相談役だと一目で分かりますから」


なるほど。


ただ隠すのではなく、異質さを利用する。


エレオノーラは俺が思っていたより、政治感覚があるのかもしれない。


「悪くない案です」


「本当ですか?」


「ええ。今のは王女らしい判断でした」


エレオノーラの表情が明るくなる。


嬉しそうだ。


分かりやすすぎる。


この人を王にするのは、相当苦労しそうだ。


だが、不思議と嫌ではなかった。


こうして俺は、正式に第三王女エレオノーラの相談役となった。


剣も魔法もない。

爵位も血筋もない。

あるのは、人の嘘を見抜く目だけ。


この王宮では、それが武器になる。


そして同時に、最も人を敵に回す力でもある。


窓の外、王宮の塔の上で何かが光った気がした。


見られている。


俺は視線を上げる。


そこにはもう、誰もいなかった。


だが、間違いない。


このゲームは、もう始まっている。


第三王女を玉座へ押し上げるための、嘘と沈黙の戦いが。

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