緊急事態
ただ事ではない足音に、アンジェリカとネリーさんは警戒心を露わにする。
でも私は、警戒する必要はないと思った。
執務室の前には、警護のための精鋭の近衛兵が数人いるし。
それ以前に、足音のひとつが誰だか判別できてしまったのだ。
ローレル様である。
足音だけで、ローレル様を判別出来るようになってしまったことに自分でも驚いている。
私にとって大切な人だから分かるようになったのかもしれない。
そう考えると、少し気恥ずかしい。
自分でも照れてしまう。
ローレル様の足音をマレイン様もシトラールお兄様も分かっているようで、当然のように書類仕事へ戻っている。
切り替えが早い。
そんな私たちを見て、アンジェリカとネリーさんも警戒を解いた。
「メリッサ!」
ローレル様が私の名前を大声で叫びながら、執務室へ飛び込んできた。
思わず私は目を見開いてしまった。
それほどまでに驚いてしまったのだ。
何かあったのだろうか。
珍しく、ローレル様は息切れを起こしている。
ハーツ様も額に汗が滲んでいた。
珍しい。
それにしても、こんなローレル様を見るのは初めてかもしれない。
リンシード・アマ公爵令息と、ラヴィンド・グラウン伯爵令息も肩で息をしている。
二人とも、息を整えるので精一杯の状態だった。今にも倒れてしまいそうなほどである。
「ローレル様、何かござい――」
私の言葉は最後まで続かなかった。
ローレル様に力いっぱい抱きしめられてしまったから。
「無事で良かった……」
ローレル様は私を強く抱きしめたまま言った。
どうやら、何か事件が起きているようだ。
「私は無事ですよ。何かございましたか?」
ここまでローレル様が焦っていらっしゃるのだ。
ご一緒だったハーツ様もローレル様を止めている様子はなかった。
何も起きていない方がおかしいレベルである。
あまりにも強く抱きしめられているので、正直苦しい。
もう少し腕の力を緩めてほしい。
ハーツ様はローレル様と私のことなど気にせず、自分のデスクにお戻りになっていた。
相変わらず、マイペースですね。
マレイン様は私たちを見てニヤニヤしているし。
シトラールお兄様は重要な話の最中だと言わんばかりの表情を浮かべている。
妹がいちゃついているところなど、見たくはないよね、普通。
アンジェリカとネリーさんは平静を保ってはいるけれど、少し呆れているみたいだし。
リンシード様とラヴィンド様は、あからさまに顔を背け、こちらを見ないようにしている。
それはそれで、いたたまれない気持ちになるんだけど。
それ以前に恥ずかしい。
「先ほど連絡が入ってきて、フローラ・フラワー嬢が貴族牢から逃げ出したらしい。その確認に行っていたんだ」
ローレル様は、執務室に不在だった理由を説明してくださった。
「え?」
思わず驚きの声を上げた。
普通の牢屋と違って、貴族牢は快適に過ごせるはずだけど、簡単に抜け出せるものではない。
そこまでベイリーフ王国は甘くないのだ。
それなのに、逃げ出した?
どうやって?
でも、フローラ・フラワー嬢と私に、何の関係があるのだろう?
確かにフローラ・フラワー嬢によく思われていないことは事実だけど。
危害を加えられそうなほど、嫌われているの?
だいたい、フローラ・フラワー嬢はそこまで私のことを憎んでいるの?
普段、そこまで敵意を向けられないように生きてきた。
バウム子爵家らしく。
なるべく存在を消してきた。
ただ、ひたすら目立たないように。
細心の注意を払いながら徹底してきたのだから。
その努力もしてきたのだ。
それなのに、私はフローラ・フラワー嬢に狙われているの?
意味が分からない。
初めて会ったのは、二ヶ月前の夜会。
それ以前は会ったことさえない。
……ない、はずだ。
「見張りに立っていた兵士が、フローラ・フラワー嬢の貴族牢を開けたのは間違いない。だが、その兵士はその場で自害しているのが見つかった」
「っ!」
私は息を呑んだ。
それはかなり物騒な話である。
しかも、フローラ・フラワー嬢を逃亡させるために、人が一人亡くなっている。
これはただ事ではない。
しかも、自害だなんて……。
少し違和感がある。
「今、フローラ・フラワー嬢とその兵士について徹底的に調べている。背後関係が分かるまで、メリッサは王太子宮殿から出ないでほしい」
懇願するように、ローレル様は私へと言った。
多分、ローレル様は正しい。
その通りにするべきだとも思う。
でも、もしかしたら。
私にも出来ることがあるかもしれない。
「結婚式まではあと二週間。メリッサに何かあったら絶対に嫌だ」
ローレル様は続けた。
確かに、結婚式まではあと二週間だ。
これまで、たくさんの人が結婚式のために手伝ってくれた。
「王太子宮殿の警護を今までの二倍……いや、三倍に。王宮魔法師団にも協力を要請して、とにかくメリッサの警護を厳重に!」
ローレル様が近衛兵へと通達を出す。
とても強い口調だった。
その想いを無駄には出来ない。
踏みにじるようなことをするなんて、もってのほかだ。
「ネリーも、パトーキ侯爵令嬢も、そのつもりでメリッサの警護を」
次はアンジェリカとネリーさんに顔を向け、ローレル様は言った。
「承知いたしました。警護ができ、信頼の置ける侍女で固めます」
ネリーさんが、ローレル様に毅然とした態度で答える。
アンジェリカも深く頷いていた。
ちょっと待って。
アンジェリカはともかく、ネリーさんも要人警護が出来るほどの腕前なの?
初めて知った。
私の周りは、普段から優秀な人ばかりだったのかと驚く。
そのようにローレル様が采配してくださっていたのだ。
思わず感動する。
そこまで私のことを考えてくださっていたとは思ってもいなかった。
でも。
確かめたいことがある。
私にしか、できないことが。
「あ、あの……ローレル様」
私は勇気を出して口を開いた。
この張り詰めた空気の中、声を上げるのが躊躇われたから。
だけど、言わないといけない。
どうしても確認したいことがあるのだ。
「何、メリッサ?」
先程までのピリついた雰囲気はなく、普段の優しい口調でローレル様は私の名前を呼ぶ。
その穏やかさに、ほっと胸を撫で下ろす。
それほどまでに、さっきまでのローレル様は威厳に満ちていた。
ローレル様は、このベイリーフ王国の王太子。
それは分かっているのだけど、まだ慣れない。
そして、私はもう王太子妃なのだ。
しっかりしないといけない。
ローレル様の隣に胸を張って立つために。
「ひとつ、お願いがございます」
「メリッサ、お前は今の現状を理解しているのか?」
私の言葉に、シトラールお兄様が堪りかねたように言った。
シトラールお兄様の言いたいことも分かっている。
今はローレル様に従うべきだ。
分かってはいるのだ。
「その上で、お願いがございます」
「うん。言ってみて」
ローレル様は私をしっかり見据え、促してくれた。
とても真剣な表情だった。
私の話を、ちゃんと聞こうとしてくださっているのだ。
「ラズベリー・ハーブさんと、二人きりでお話させていただけませんでしょうか?」
私の言葉は、その場の全員にとって予想外だったようだ。
みんな呆然としている。
でも、ラズベリーさんに聞いておきたいことがあるのだ。
「今回の、フローラ・フラワー嬢に関する件について、だね?」
ローレル様は私へ確認するように尋ねてくる。
私の突拍子もない発言に驚いてはいるけれど、無下にはしない。
これがローレル様の王太子しての器なのかもしれない、と感じた。
「はい」
私は答える。
もしかしたら、ラズベリーさんは知っているのかもしれない。
今回の“シナリオ”を。
前回のように、ラズベリーさんが知っていたシナリオとは違うかもしれないけれど。
何か糸口は掴めるかもしれない。
きっと、これは乙女ゲームの第二弾なのかもしれないのだから。
得られる情報は、少しでも得ておきたい。
そして先ほどのシトラールお兄様との会話から、彼女は転生者だということを誰にも言っていない。
その辺りの常識はあるのだろう。
もしかしたら、同じ転生者の私には何か教えてくれるかもしれない。
そう思った。
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