これがはじまり(リモネン・バウム視点)
これは一体、どういう状況なのか。
私はまるで理解できていなかった。
アレックス様と二人で王家の馬車に乗り込んでいる。
馬車の中は二人きり。
少し緊張する。
家族以外と馬車に乗ることなんて、あまりあることではない。
普段はレーモンと馬車に乗ることが多いし。
もしかして、初めての経験かもしれない!
そんな現実逃避をしてしまいそうになる。
これ、現実なんだよね?
夢じゃないんだよね?
出来れば夢であってほしい。
そんなことを思ってしまう。
私が混乱している一方で、アレックス様はどこか上機嫌そうに見えた。
……そう見えるだけかもしれないけれど。
貴族は表情や態度から本心が分からない。
そういう貴族が本当に私は嫌いだ。
メリッサのように、感情が分かりやすい貴族には、とても私は好感が持てる。
もっとも、私自身も信用できない貴族の前では極力感情を表に出さないようにしているのだけれど。
さすが王家の馬車。
乗り心地は最高だった。
バウム子爵家の馬車は、どこかの高位貴族のお下がりをさらに譲り受けたような代物だ。
乗り心地は最悪である。
ひとつ、気が付いたこともある。
アレックス様は私へ危害を加えようともしてこない。
その片鱗が少しも見えない。
……私の杞憂だったのかもしれない。
「あの、それで何故イーズ侯爵家へ向かわなければならないのでしょう?」
私は再び同じ疑問を口にした。
ここには私とアレックス様しかいない。
人目もなく、他人に聞かれる心配はない。
「あ、そうでしたね。まだ説明しておりませんでした」
アレックス様は笑顔のまま言った。
「本日からバウム子爵家が所有しているタウンハウスの大規模改装工事が始まるそうです。その間、リモネン嬢にはイーズ侯爵家へ滞在していただきたいと、ローレル殿下から言付かっております」
「え? 改装工事ですか? 初耳なのですが……?」
思わず聞き返してしまった。
しかも、大規模改装?
今朝タウンハウスを出る時、そんな話は一切出ていなかった。
だが、王都のバウム子爵家のタウンハウスは、かなり古い。
立地も王都の端で、治安もそこまで良くない場所である。
貴族の屋敷としては威厳に欠けると言われても否定はできなかった。
……まぁ、言い方を変えれば、趣があると言えなくもないけれど。
ただ、かなりの防犯用魔法と罠が仕掛けられているので、無法者が簡単に侵入できる屋敷ではない。
今まで危険な目に遭ったこともなかった。
……でも。
もしメリッサが何らかの理由で王宮を飛び出したら。
真っ先に戻るのは、あの屋敷だ。
だからローレル殿下は、何不自由なく暮らせるよう整えるつもりなのだろう。
どこまでメリッサのことを考えているのだろうか。
脱帽である。
そんなことを考えていた時だった。
「新緑が綺麗な季節になってきましたね」
アレックス様が穏やかに言った。
「ええ、本当に」
私は無難に返す。
「リモネン嬢。今度、トスカナ邸へいらっしゃいませんか?」
「え?」
思わず声が漏れた。
このまま意味もない世間話を続けるのだと思っていたからだ。
「今の季節、トスカナ邸の庭はとても綺麗なんです。恥ずかしながら、僕は全ての花の名前までは分からないのですが……」
少し照れながらアレックス様は続ける。
「バウム領の青薔薇には及びませんが、きっと楽しんでいただけると思います。クチナシやハナミズキが本当に見事なんですよ」
私は思わず目を見開いた。
これでは社交辞令ではなく、本当に誘われているように聞こえる。
そもそも、アレックス様が私を屋敷へ招く理由が分からない。
何のために?
考えても答えは出ない。
私は話題を変えることにした。
これ以上の混乱は避けたい。
「……イーズ侯爵家へ向かうのは、ローレル殿下の指示なのでしょうか?」
私は、一番可能性の高いことを尋ねた。
私たちの声は御者には聞こえていないはずだ。
アレックス様は目を見開く。
本当に驚いているようだった。
……あれ?
「いえ。ローレル殿下からは何も」
アレックス様はゆっくり首を横に振る。
「ただ……今回、リモネン嬢をイーズ侯爵家へお送りするよう言付かってはおりますが……あなたをお誘いしたのは、私自身の意思です」
真っ直ぐな視線だった。
あまりにも真剣で、私は視線を逸らせなくなる。
心臓が少しだけ速くなるのを感じた。
こんなふうに真っ直ぐ見つめられたことなど、今までなかったからかもしれない。
「ちなみに、イーズ侯爵家はリモネン嬢がいらっしゃることを楽しみにしているそうですよ」
その言葉に、私は顔が引きつりそうになる。
イーズ侯爵家も了承済みなのか。
どこまでも外堀が埋められている。
「そう、なのですね……」
私はなんとか笑顔で返した。
「はい。それに改装費も、メリッサ妃のためにローレル殿下がポケットマネーから出されるそうです」
当然のようにアレックス様は言う。
完全に決定事項らしい。
今さら私が反論したところで、どうにもならないだろう。
「それで……トスカナ邸へいらしてくださる件、ぜひご検討いただけませんか?」
追撃だった。
忘れてくださることを期待していたのに。
どうやら本気で私を招待したいらしい。
ここまで言われて断れるわけがない。
相手は筆頭公爵家の嫡男。
私はただの子爵令嬢なのだから。
「機会がございましたら、ぜひ伺わせていただきます」
私は淑女の笑みを貼り付けて答えた。
それ以外、言いようがない。
「っ! 本当ですか! では、近いうちに招待状を送らせていただきます!」
アレックス様は身を乗り出す勢いで言った。
……本当に招待状を送られてきそう。
私は内心、頭を抱える。
アレックス様のお人柄も、趣味も、好きな話題も、私は何も知らない。
知らないことが多すぎる。
慎重になるのは当然だった。
「少しずつ、お互いのことを知っていきましょう」
アレックス様は、まるで私の心を読んだように言った。
確かに、それしかないのだろう。
「はい」
私は小さく答えた。
けれど、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
気がつけば、私は自然と笑みがこぼれていた。
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