計画的婚約破棄(リモネン・バウム視点)
私は王太子宮殿を後にして、ようやく詰めていた息を吐き出した。
やっとメリッサに、自分の婚約破棄のことを伝えられた。
良かった。
とても言い出しにくいことだったから。
私は全く気にしていないけれど、メリッサは優しい性格だから、きっと心配すると思っていた。
安堵感が胸いっぱいに広がる。
肩の荷が下りるとは、まさにこういうことを言うのだろう。
メリッサがローレル殿下といきなり結婚し、再会できた時には、私の婚約破棄の手続きはすでに終わっていた。
王太子と結婚したメリッサは、とても混乱しているように見えた。
だから、なかなか言えなかった。
今日は、やっと言えた。
メリッサの晴れ舞台の前に、悪いことをしてしまったとは思う。
でも、この婚約破棄は最初から決めていたことだった。
家族の誰にも言わなかったけれど、きっとみんな気づいていたのだろう。
四年も婚約していて、結婚の話が進まない。
おかしいと、誰だって思うはずだ。
普通の貴族令嬢なら、年齢的にも焦るのが当然だろう。
それでも、私は焦らなかった。
アストリッド・ジギタリス伯爵令息と結婚する気など、さらさらなかったのだから。
初めてお会いした時から、嫌悪感しかなかった。
それに、彼も彼の実家であるジギタリス伯爵家も評判が悪く、それが事実であることもすぐに確認できた。
それでも婚約を維持し、放置していたのは、シトラールとメリッサのためだけだった。
弟と妹がどんな道を進むとしても、名門伯爵家の嫡男と婚約している姉がいれば、少しは有利に働くと思ったから。
たとえ、どれほど評判の悪い伯爵家であっても。
だからシトラールとメリッサが魔法学園を卒業したら、アストリッド様には婚約破棄を突きつける予定だった。
アストリッド様有責の証拠も、それなりに揃っていたし。
メリッサが平民になり、小説家として生きていくと言ったから、私も平民になることを決めていた。
姉妹で一緒に、バウム領で暮らすつもりだったのだ。
二人で暮らす土地も決めていた。
家の設計図も完成していた。
それなのに。
いきなりのメリッサの結婚。
しかも相手は、この国の王太子である。
知らされた時には、すでに入籍を済ませていた。
手回しが良すぎる。
どれほどローレル殿下が計画的にメリッサとの結婚準備を進めていたのかが分かる。
よくバウム家に気づかれずに計画したものだと、感心してしまった。
メリッサは気づいていないようだけれど、シトラールだけはローレル殿下の味方をしたようだ。
誰よりもメリッサのそばにいたシトラールが下した判断が、間違っているとは思わない。
シトラールがどれほどメリッサを大切に思っているのか、私は知っている。
他の家族も同じだろう。
私の婚約破棄が、メリッサの結婚と重なるなんて。
本当に想定外だった。
でも。
でも!
私の人生設計まで崩れてしまった。
これは本当に悲しい。
メリッサと暮らすことを楽しみにしていたから。
悔しさは拭えない。
ローレル殿下は、そんな私にアストリッド様有責の証拠をこれでもかと渡してくださった。
おかげで、ジギタリス伯爵家に反論の余地を与えることなく、淡々と婚約破棄を進めることができた。
もちろん、アストリッド様有責で。
慰謝料の額も跳ね上がった。
もしかして、ローレル殿下から私への見舞金も含まれているのではないかと邪推してしまうほどに。
きっとローレル殿下は、私の計画をお見通しだったのだと思う。
メリッサと仲良く暮らすはずだったのに!
正直、悔しい。
だけど、それだけメリッサを大事にしてくれているのも伝わってきた。
うん。
シトラールの判断は間違いではなかったのだと、再認識させられてしまった。
「リモネン嬢!」
「え?」
後方から声を掛けられて、私は驚きながら振り返った。
私は家族やバウム領民以外から、名前を呼ばれることはほとんどない。
バウム領外で、私はずっと認識阻害の魔法を使っていたからだ。
しかも美声。
少しだけ、名前を呼ばれたことに感動してしまった。
……いや、そんなことより。
私は考えを切り替える。
だって、私は自身に認識阻害の魔法をかけている。
私だと分かるはずがないのだ。
私の素顔を知っている人は少ないはずである。
そこにいたのは、淡い紫色の髪と瞳をした令息だった。
顔には見覚えがある。
話したことは、もちろんないけれど。
筆頭公爵家であるトスカナ公爵家の嫡男、アレックス様だった。
魔法学園で、アレックス様はレーモンと私の一つ下の学年に在籍していた。
筆頭公爵家の嫡男であり、非常に優秀でもあるアレックス様は有名だった。
背も高く、お顔も良い。
令嬢たちからの人気も高かった。
「あの、リモネン嬢をイーズ侯爵家までお送りするよう承りました」
「イーズ侯爵家に?」
私はますます首を傾げた。
これから王都にあるバウム子爵家のタウンハウスへ帰ろうと思っていたのだけれど。
なぜイーズ侯爵家?
そして、アレックス様が私のことを知っているのも不可解だった。
思わず眉をひそめそうになる。
小公爵であるアレックス様の前で、そんなことはできないけれど。
ただ、思い当たることはある。
ローレル殿下だ。
あの方が何か仕込んでいる可能性は大いにある。
警戒心が芽生えた。
「あ、僕はアレックス・トスカナと申します」
慌てたように、アレックス様は私へ名乗った。
私が警戒したからだろうか。
でも、なぜ私がアレックス様を知らないと思ったのだろう。
私たちの世代の貴族で、彼を知らない人などいるはずがないのに。
「……存じ上げております。初めまして、トスカナ小公爵様。私はリモネン・バウムと申します」
アレックス様は私のことをご存じのようだったが、一応カーテシーをしながら名乗る。
「……」
アレックス様は何も言わない。
え?
何?
私、何か変なことをしたかしら?
不安になる。
「っ! 申し訳ありません。お近くで拝見すると、リモネン嬢は本当にお美しくて……言葉を失ってしまいました」
その言葉で、私は初めて認識阻害の魔法が解かれていることを理解した。
これもローレル殿下の仕業だろうかと、つい勘ぐってしまう。
それ以前に、アレックス様ご自身も、とても華やかな容姿をなさっている。
私ごときで言葉を失うなんてあり得ない。
妹君であるローズマリー様など、本当にお美しいのに。
「え? ……リモネン嬢は、僕のことを知っていてくださったのですか?」
アレックス様は今さらながら、私の先ほどの言葉に驚いているようだった。
なぜ知らないと思ったのか、逆に聞きたい。
失礼になるから聞けないけれど。
「トスカナ小公爵様は、魔法学園でとても人気者でいらっしゃいましたからね」
私は淑女の笑みを浮かべて答えた。
彼の妻になるために令嬢たちが繰り広げていた熾烈な戦いを、在学中に間近で見てきたのだ。
令嬢の強さを再認識させられた。
忘れるわけがない。
同時に、アレックス様には近づかないと心に決めていた。
我が身は大事。
自ら危険に身を投じる者は、バウム子爵家にはいない。
それなのに、こうして王宮で会話を交わすことになるなんて。
誰かに見られたらどうしよう。
ご令嬢たちの戦いに巻き込まれたくはない。
認識阻害の魔法をかけているから、私の身元が割れることはないだろうけれど。
アレックス様のように、魔法を解かれる可能性もある。
「?」
アレックス様が右手で顔を押さえて俯いている。
どうかなさったのだろうか。
首を傾げそうになるのを、必死に堪える。
もしかして、言ってはいけないことを言ってしまったのかもしれない。
普段はレーモンを盾にしていたため、他の貴族と話すことなどほとんどなかった。
しかもアレックス様は超高位貴族である。
ため息を吐きたいのを堪える。
どうして今、私はアレックス様と対峙しているのかも分からない。
早く帰りたい。
私はやはり、高位貴族の方とは話が合わないのだと実感していた。
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