王太子妃(ローズマリー・トスカナ視点)
「すまない、ローズマリー」
お兄様に声をかけられて、私は顔を上げた。
そこには、後悔と苦悶を滲ませた表情のお兄様がいた。
こんな表情のお兄様を見るのは、初めてかもしれない。
「……何に対しての謝罪でしょうか?」
私は聞き返した。
お兄様が私に謝るようなことをされた記憶はない。
けれど、これから何を言おうとしているのか分からなくて、少しだけ恐怖を覚えた。
うまく声が出ない。
嫌な予感がした。
「ローレル殿下のことだ」
「え?」
思わず声が漏れた。
ローレル殿下のことで、お兄様に謝られるようなことなどないはずだ。
ますます訳が分からず、私は首を傾げる。
けれど、良くない話なのだろうということだけは、なんとなく分かってしまった。
「ローレル殿下、ですか?」
「……そうだ。すまない、ローズマリー。僕は六年も前に、ローレル殿下から言われていたんだ」
「……何を、ですか?」
嫌な予感が大きくなっていく。
それでも、私はお兄様に続きを促した。
本当は、これ以上聞きたくなかった。
けれど、聞かなければ一生後悔する気もした。
「ローレル殿下は六年も前に、メリッサ妃を選んでいた」
「……え、は?」
間抜けな声が漏れた。
最初、お兄様が何を言っているのか理解できなかった。
けれど、時間をかけて、その意味が少しずつ頭に浸透していく。
六年も前から。
ローレル殿下のお相手は、すでに決まっていた。
六年。
つまり、ローレル殿下が十二歳の頃から。
「ローレル殿下ご自身が、メリッサ妃を……お選びに、なった……?」
言葉を区切りながら、私は一番疑問に思ったことを口にした。
確かに結婚のお披露目の夜会で、国王陛下は「ローレル殿下の意思を最優先した」と仰っていた。
けれど私は、それでも政略的な意味があるのだと思っていた。
違う。
そう思いたかったのだ。
政略的な意味があって、メリッサ妃との婚姻を結んだのだと。
思い込みたかった。
「……ローレル殿下は十二歳の時に、メリッサ妃を見初められていたそうだ」
少しためらいながらも、お兄様は説明してくれた。
ローレル殿下が、見初めた。
メリッサ妃を。
六年も前から。
頭が混乱して、うまく思考が追いつかない。
「ローレル殿下から、はっきりそう聞いたわけではない」
頭を押さえる私に、お兄様は続ける。
お兄様は、慌てている。
私が動揺しているから。
これ以上、お兄様に迷惑をかけてはいけない。
分かってはいるけど、頭がまとまらない。
「ただ、六年前にローレル殿下から言われたんだ。ローズマリーは選ばない、と」
お兄様は懺悔するように、声を絞り出した。
私は六年も前に、王太子妃候補から外れていたの?
何がいけなかったの?
止まっていたはずの涙が、また溢れた。
確かに、その頃からローレル殿下は私と距離を取り始めていた。
当時は公務が忙しくなったのだろうと思い、深く考えなかった。
そして、ローレル殿下が私の呼び方を変えたのも、その頃だった。
それまでは「ローズマリー嬢」と呼ばれていたのに、ある時から「トスカナ公爵令嬢」と呼ばれるようになった。
「本当にすまない、ローズマリー。当時の僕は、ローレル殿下の言葉を聞き流してしまった。完全に僕の落ち度だ」
お兄様は私を強く抱きしめながら言った。
私は首を横に振る。
でも、顔を上げることはできない。
涙が止まらなかった。
声を上げて泣きたかった。
けれど、ここではできない。
ここは王太子宮殿の一室なのだから。
これ以上取り乱すことは、筆頭公爵家の娘としての矜持が許さない。
手の甲で必死に涙を拭う。
一度決壊した涙は、なかなか止まらなかった。
それでも、お兄様の腕の中にいることで、少しずつ落ち着きを取り戻していく。
お兄様の存在が、とてもありがたかった。
「……ローレル殿下は、いつメリッサ妃とお会いになったのでしょうか。私は魔法学園に入学するまで、メリッサ妃にお会いしたことがございません」
私は疑問を口にした。
メリッサ妃のご実家は子爵家だ。
本来なら、ローレル殿下とお会いする機会などないはず。
魔法学園に入学するまで、メリッサ妃は社交もしていなかったはずだ。
そして卒業まで、社交の場に顔を出すこともなかった。
ふと、アンジェリカ様の顔が脳裏に浮かぶ。
パトーキ侯爵家が仲介したのだろうか。
けれど、すぐにそれは違うと分かった。
アンジェリカ様も王太子妃候補だった。
パトーキ侯爵家は、アンジェリカ様を王太子妃に推していたはずだ。
「……直接聞いたわけではないが、多分イーズ侯爵家で会ったんだと思う。バウム子爵家はイーズ侯爵家と遠縁だ。ハーツとシトラールは、とても親しいように見えた」
お兄様が補足するように説明してくれる。
そう言えば、と私は魔法学園在学中のことを思い出す。
メリッサ妃が主に言葉を交わしていたのは、シトラール様とアンジェリカ様、そしてハーツ様だけだった。
メリッサ妃は、他に交流を広げることを望んでいないように見えた。
だから私は、在学中にメリッサ妃をお茶に誘わなかったのだ。
本当は誘いたかった。
同じクラスに令嬢は少なかったから。
友人になりたかった。
メリッサ妃がアンジェリカ様と仲良くお話をして、笑い合っているのが羨ましかったから。
侯爵令嬢のアンジェリカ様には招待状を送っていたが、すべて断られていた。
その時は、アンジェリカ様も王太子妃候補として私と顔を合わせたくないのだと思っていた。
けれど、今日のお茶会で分かった。
アンジェリカ様は、最初から王太子妃候補になるつもりなどなかったのだろう。
イーズ侯爵家のヴィオレ様もそうだ。
ヴィオレ様がメリッサ妃を心から慕っているのは、今日だけでもよく分かった。
ブランシュ様も、王太子妃の座に強い意欲があったようには見えない。
メリッサ妃は誰からも慕われていたのだ。
きっと誰よりも王太子妃に相応しかった。
そのことに、私だけが気づいていなかったのだ。
間違いなく、私の視野がとても狭かったのが原因だ。
ローレル殿下しか見ていなかった。
もっと周りを見るべきだったのだ。
「私が……一人で、空回っていたのですね」
思わず呟いた。
きっとローレル殿下は、私のことを煩わしく思っていたに違いない。
メリッサ妃に心を寄せていたのなら、なおさらだ。
ローレル殿下に疎まれていたとしても、仕方がない。
――そう思ってしまった。
その時、部屋の扉をノックする音が、やけに大きく響いた。
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