これって、拒否権ありますか?
目の前の書類に、私は目を見張った。
何度読み返しても内容は同じだ。
婚姻証明書、である。
「あの、これは……?」
不敬になると分かっていながらも、思わず国王陛下に問いかけてしまった。
「そなたの婚姻証明書だ」
国王陛下が当然のように私に告げる。
ですよねー。
そうじゃなきゃ、わざわざ私にサインさせようとしないよねー。
さらに驚くべきことに、ローレル殿下のサインがすでに記入されている。
私がローレル殿下の結婚相手ということ?
そんな馬鹿な。
私は何度もその名前を見返す。
綺麗な字だ。とても綺麗だ。
いや、そういう問題じゃない。
なぜここに、ローレル殿下の名前があるのだろう。
いくら考えても答えが出ない。
私はちらりとローレル殿下へ視線を向けた。
思っていたより顔が近い。
どうやら殿下も、私と一緒に書類を覗き込んでいたらしい。
そりゃ気になるよね。
ローレル殿下ご本人の婚姻に関するものだし。
「うん?」
私の視線に気づいたローレル殿下が、「どうかした?」と言いたげにこちらを見る。
ここで聞かないと後悔する。
私は意を決して、できるだけ小声で尋ねた。
「ここに殿下のサインが、あるのですが」
聞きたいことは山ほどある。
でも、今はこれが最優先事項だ。
「え? 何か問題ある?」
書類を覗き込みながら、殿下は首を傾げる。
近い。
お顔が近すぎる。
それでなくても思考回路がまともに働いていないのに、これでは完全に停止してしまう。
私は少しだけ距離を取った。
「問題ですよね? これって、殿下と私の婚姻になってしまいますよ!」
必死に小声で指摘する。
「何も問題ないよ」
ローレル殿下は、本当に不思議そうに言った。
……普段の頭脳明晰なローレル殿下はどこへ行ったのだろう。
どこからどう見ても、大問題でしょ、これは。
国家の一大事レベルの案件だよ。
それとも、混乱しすぎているのは私の方なのか。
……いや違う。
混乱しているのは間違いなくローレル殿下である。
正気に戻ってほしい。
「陛下、これは突然すぎます」
右隣に座る父が、静かに口を開いた。
気配は薄いままだけどね!
でも父、ありがとう!
さすが私の父!
「それに私は下位貴族の、しかも何の取り柄もない娘です。とてもローレル殿下とは……」
父に便乗して重要なことを伝えようとした、その時だった。
ローレル殿下が、私の右手を取った。
「え?」
いきなりのローレル殿下の行動に私は驚き声を漏らす。
「メリッサ嬢以上の令嬢は、この国にはいない」
至近距離で、まっすぐに言われる。
言葉を失った。
いや、そんなことはない。
私以上に優秀なご令嬢なんて、いくらでもいる。
殿下、周りを見て!
「下位貴族……? ペダニウス、ソレイユ夫人のことを話していないのか?」
国王陛下が、不思議そうに言った。
ソレイユとは私の母の名前だ。
「隠しているわけではありませんが……そう言えば我が家で話題になることはありませんね」
父はそう言って、ちらりと私を見る。
え?
何?
お母様がどうしたの?
「メリッサ嬢、ソレイユ夫人は、東のサフラン王国の元王女だぞ?」
「は?」
間抜けな声が出た。
初耳である。
頭の中に、母の姿が浮かぶ。
『あらあら、うふふ。』
いや、確かに美人ではある。
ちょっと浮世離れしているけど。
でも普通に母だよね?
その母が、なぜ他国の王女?
「昔、ペダニウスを外交で連れて行った際に、ソレイユ王女がペダニウスに一目惚れされてな。追いかけてきたのだ」
国王陛下が苦笑しながら言う。
ますます意味が分からない。
この地味でくたびれたおっさんに?
いや、当時は父も若かったのだろうけど。
一目惚れされる要素は昔もなかったのではないかと簡単に推測出来た。
元王女が?
一目惚れ?
本当に?
……いや、やめよう。
両親は昔からラブラブだ。
フツメンの父と超美人の母、おかしい組み合わせだと違和感はあった。
政略結婚かなーと漠然と思っていた。
でも本人たちは幸せそうだから、何も追求することさえなかったのだ。
……今考えるべきはそこじゃない。
王妃様が指示を出し、青い薔薇の花束が運ばれてきた。
「先月の私の誕生日に、ソレイユ夫人が送ってくれるの。綺麗でしょう?」
私は思わず視線を逸らす。
母、王妃様と仲良かったの……?
「このジャムと食べられる薔薇も、メリッサ嬢が魔法改良して作ったのでしょう? ソレイユ夫人が嬉しそうに手紙を書いてくれるのよ」
コロコロと鈴のように笑う王妃様。
……情報、筒抜けである。
でも、それってそんなに特別なことなの?
「自分で決めなさい」
父が静かに言った。
「……お姉様が先では?」
3つ年上の姉はまだ結婚していない。
婚約はしているけど。
順番って大事じゃない?
「こればかりは、タイミングというものがある」
父はため息交じりに答えた。
ごもっともである。
私はもう一度、婚姻証明書を見つめた。
現実感がまったくない。
その時、両手を包み込まれる。
「メリッサ嬢」
ローレル殿下が、静かに言う。
「私は、私の意思でサインした」
真剣な眼差しだった。
「絶対に幸せにする。私は絶対に君を裏切らない」
思わず息を呑む。
ローレル殿下の覚悟が、伝わってくる。
周囲の視線が重い。
逃げ場はない。
私は大きく息を吸った。
「……分かりました」
それしか言えなかった。
殿下の手を離れ、ペンを取る。
震える手で、名前を書く。
……終わった。
「良かった」
ローレル殿下が、安堵したように呟く。
顔を上げると、穏やかな笑み。
「これで無理に既成事実を作らなくて済んだ。メリッサ嬢には嫌われたくないからね」
……空気が、凍った。
意味を理解するのに、一瞬かかる。
「え……あの?」
私は思わず口を開いた。
「殿下、その意味……分かっておっしゃってますか?」
本気で心配になってくる。
やはりローレル殿下は混乱していて正気ではないのでは?
「……ローレル殿下、娘に無理強いはおやめください」
父が静かに言う。
「もちろん、メリッサ嬢の気持ちを最大限優先するよ」
ローレル殿下は、私を見たまま優しく微笑んだ。
いつも通りの、穏やかな表情で。
(……やっぱり、冗談……?)
さっき感じた違和感が、少しだけ遠のいていった。
読んでいただきありがとうございます! 面白いと思っていただけたら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。
明日から毎日23時投稿予定です。




