帰属意識(クラリス・イジー視点)
リモネンが幸せになれそうで、私は安堵する。
女の幸せは結婚だけではない。
でも、結婚することで人生が大きく変わってしまうのも事実である。
貴族女性にとって、結婚は避けては通れない道だ。
まぁ、バウム子爵家は例外だけど。
バウム子爵家に属している私も、好きにさせてもらっている。
望んだ職業にも就くことができた。
たとえ平民でも、ここまで自由にさせてもらえることはないと思う。
魔法学園に入学して初めて、普通だと思っていたことが普通ではなかったのだと思い知った。
「リモネンより、今はクラリスの話だ」
現実逃避していた私を、レーモンは容赦なく現実へ引き戻す。
私はちらりとノビリス様を見上げた。ノビリス様は真剣な眼差しで私を見つめている。
「ノビリス様の愛人になるのはありかな、とは思っていたけど……」
私の返答に、ノビリス様は驚いているようだった。
愛人志願をされるとは思わないよね、普通。
でも、ノビリス様は王弟でもある。愛人目的で近づいてきた女性も多かったはずだ。
現在の私のパトロンは、バウム子爵家である。
駆け出しの女優にとって、パトロンは不可欠だ。
だから、いつかはバウム子爵家ではない別のパトロンを得たいと思っていた。
いつまでもバウム子爵家に面倒を見てもらうわけにはいかない。
駆け出しの女優として、私はかなりの地位を確立した。
それもパトロンあっての成功だと分かっている。
マートル・キンバイに自分を売り込めたのも、バウム子爵家のおかげだ。
だからこそ、今回『青薔薇の賢妃』の主演の座も掴めた。
でも、バウム子爵家と縁を切れなければ、私が女優になった意味はない。
女優として成功したことにもならない。
魔法学園へ通わせてもらい、バウム領以外の世界を見せてもらった。
その上で、私はバウム領へ戻らないという選択をした。
現在、バウム領は人口が過度に増えすぎている。
バウム領で生まれ育った人たちは、皆バウム領に愛着を持って暮らしている。
誰もバウム領を離れようとはしない。
外の世界を見たからこそ、どれほどバウム領が住みやすい土地なのかを実感した。
その上で、私は女優となり王都に留まっている。
バウム領が過密状態になりつつあることにも気付いてしまったから。
子爵位では収まりきれない規模になっている。
近い将来、伯爵位へ陞爵する可能性も高い。
でも、バウム子爵家は伯爵位を望んではいない。
現状の子爵位のまま、穏やかに暮らしていきたいのだ。
それがバウム子爵家のためであり、バウム領全体のためでもある。
建国当初から存在するバウム子爵家。
二千年もの歴史がある。
現在バウム領で暮らしている人々は、多かれ少なかれバウム子爵家の血を引いている。
魔法系統が一貫して隠密系なのだから、間違いない。
私の高祖母は、バウム子爵家直系の娘だったと聞いている。
それなのに、私は毒耐性がずば抜けて低い。
レーモンは、そんな私の劣等感に気付いていた。
だからこそ、メリッサを見守る役目を私にくれた。
メリッサを見守る役目を告げられた時、「メリッサが魔法学園を卒業するまでで良い」と言われた。
歳を重ねるにつれ、その本当の意味が分かってきた。
メリッサが魔法学園を卒業したら、私はお役御免なのだと。
レーモンにしてみれば、その後は自由にしていい。
バウム領から私を解放する意味もあったのだと思う。
幼い頃から、そこまで考えて私に役目を与えてくれた。
バウム領民としての資質が少ないからではない。
役に立たないからでもない。
ただ純粋に、私の幸せを願ってくれていたのだと、今ならちゃんと分かる。
「もしかして、レーモン。私が女優になるよう唆したことを気にしてる?」
「……唆した?」
ノビリス様が聞き返した。
その言葉にぎょっとしているようだった。
でも、「唆した」という表現が一番しっくりくるのも事実だった。
魔法学園へ入学してすぐ、レーモンは入学祝いとして王立歌劇場の舞台のチケットをくれた。
確かに、女優への憧れはあった。
でも、夢を追いかけようとは思っていなかった。
リモネンかメリッサのどちらかが嫁ぐ時に侍女として付き従う。
あるいは、レーモンかシトラールの妻になる。
その程度の未来しか考えていなかった。
王立歌劇場の舞台を観るまでは。
私は一目で虜になった。
あの輝く舞台に立ちたい。
そう思ってしまったのだ。
「クラリスは女優に向いているとは思っていた。だが、唆してはいない」
レーモンは平然と答える。
いや、あのタイミングで王立歌劇場へ行かせた時点で、レーモンは私をバウム領から送り出すつもりだったのだ。
無駄なことはしない。
他者より数歩先を見通していることくらい、幼馴染の私には分かっている。
「選択肢の一つとして提示したにすぎない」
じっと見つめる私に、レーモンは肩を竦めた。
女優になると決めた時、私はバウム領への帰属意識を捨てなければならないと思った。
それを望まれているのだと。
それでも、私の故郷がバウム領であることは変わらない。
帰属意識だけは、どうしても捨てられなかった。
だから私は今、王宮にいる。
メリッサが狙われていると知って、動かずにはいられなかった。
「私を王宮から追い出そうとしても無駄だよ。私は自分の意思でここにいるんだから」
私はレーモンにはっきりと言った。
たとえできることが少なくても、メリッサのためになることなら何でもする。
後方支援くらいしか役に立てないことも、自分で分かっている。
今回、レーモンがわざわざ私に会いに来たのは、この件から手を引かせるためだ。
私を守るための、らしくない行動。
普段のレーモンは、こんなことはしない。
目立つことを嫌う彼が、私に会いに来た理由。
「……頑固だな」
「手のかかる姉貴分でごめんね?」
「……妹分の間違いだろう?」
「私の方が誕生日は早い!」
レーモンは私のことを『身内』と思ってくれている。
それが分かっただけでも嬉しかった。
バウム領への帰属意識を捨てなくてもいいのだと思えた。
「それで? クラリスは王弟殿下の愛人になるのか、それとも妃になるのか。それによってバウム子爵家も対応を変えなくてはいけないからな」
「どうしたら良いと思う?」
私はレーモンに尋ねた。
ノビリス様から妃になってほしいと望まれるとは思っていなかった。
思考が追いつかない。
ここはレーモンの意見に耳を傾けた方がいいと判断した。
彼なら正しい答えを出してくれる。
正直、考えることは得意ではない。
「なぜレーモン卿に聞くんだ? これは私とクラリスの問題だろう?」
ノビリス様が私に言う。
その通りではあるけれど。
「クラリスはバウムの人間ですので、バウム子爵家の嫡男である私にも関係のある話です」
レーモンの返答に、ノビリス様は怒りを抑えているようだった。
「答えは分かっているが、一応聞いておく。クラリスは私と結婚するつもりはあるか?」
「絶対にない!」
レーモンの問いに、私は大声で即答した。
ノビリス様が安堵しているのが分かった。
これ、以前にも言わなかったっけ?
癖の強いレーモンの妻になるなんて絶対に嫌だ。
毎日、精神的に疲れそう。
こんなのの妻になりたいと思うのは、ヴィオレ様くらいだ。
レーモンの本性を知っていてなお妻になりたいとは、本当に奇特なご令嬢である。
今回お世話になったこともあるし、ヴィオレ様には協力を惜しまないと心に誓った。
「だったら、王弟殿下の妃になるのも悪くはないと思う。メリッサのためにも。だが、最終的には自分で決めろ」
「私もそう思う」
ノビリス様の妻になるのは悪くない。
ただ、私は準男爵の娘だ。
どうしても身分が足りないのも事実である。
「ローレルに子どもが生まれたら、私は侯爵位を賜ると思う。それにメリッサ妃は子爵令嬢だった。爵位の高い令嬢との婚姻は複雑になるから正直避けたい。だから爵位は気にしなくていいよ」
私の考えを読み取ったのか、ノビリス様は優しく言った。
「兄上夫婦も母上も君を気に入ってくれたし、礼儀作法も問題ない」
「リモネンと二人で泣きながら母上に礼儀作法を習っていて良かったな」
レーモンは声を上げて笑う。
笑い事ではない。
本当にソレイユ様はスパルタだったのだから。
「しかし、バウム子爵家としては、これ以上、王族や高位貴族との婚姻は避けたい。イーズ侯爵家あたりの養女となってから王弟殿下に嫁ぐのが無難だろう」
レーモンの説明に私は頷いた。
「クラリス。バウム領出身であることを隠す必要はない。そこだけは覚えておいてほしい」
その言葉から、私の意思を尊重してくれているのだと伝わってきた。
「ありがとう、レーモン」
気付けば、自然とお礼の言葉が口を衝いていた。
「あ、でもノビリス様! 『青薔薇の賢妃』と、その続編だけは絶対に私が演じたい。それだけは譲れないから」
「分かっているよ。クラリスが演じることを前提に『青薔薇の賢妃』と、その続編を書いているのだから」
ノビリス様の返答に、私はほっと息を吐いた。
私は、バウム領出身の女優、クラリス・イジー。
絶対に『青薔薇の賢妃』を成功させる。
そう強く決意した。
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