バウム子爵家の嫡男(クラリス・イジー視点)
「……それは、ノビリス殿下がクラリスを愛人にするということですか?」
レーモンは一瞬だけ間を置いてから、口を開いた。
「なっ!」
ノビリス様はレーモンの言葉に驚愕していた。
でも、先ほどの台詞はレーモンの解釈が正しい。
私も、そういう意味だと思ったし。
ノビリス様の性格を知らなかったら、完全にそう思うだろう。
とても誠実で真摯な性格のノビリス様は、そういう意味で言ったわけではないのだと、私は分かっている。
彼は色恋沙汰に一線を引いている。
これは、マートル・キンバイとして生活している時も同じだった。
特に、女性に対しては慎重である。
ノビリス様は、自分が王族であることを十分に理解していらっしゃる。
王族だからこそ、誰よりも自分を律しているのだ。
王太子がいるとはいえ、ノビリス様にも王位継承権があるのだから。
それに、ローレル殿下と七歳しか年齢が違わないことも、慎重になっている理由の一つなのだろう。
ローレル殿下が王太子になられた時、王太子にはローレル殿下ではなく、ノビリス様の方が相応しいと主張した貴族がいたという。
王族同士で揉め事を起こしたくはないよね。
ノビリス様は、国王陛下である兄君とも、甥であるローレル殿下とも仲が良いし。
それに、王位争いなんてものが始まったら、ベイリーフ王国内が混乱してしまう。
民衆にとっても良くない。
ノビリス様が内々に王宮の外で、劇作家マートル・キンバイとして暮らしているのも、そのことが関係しているのだろう。
たかが準男爵の娘である私にだって、簡単に分かることだ。
「違うよ、レーモン。王子宮殿にノビリス様が私を連れてきた以上、ご自分が面倒を見るべきだと思われているんだよ」
「クラリス。違うんだ」
「?」
ノビリス様はレーモンから私へと視線を移して言った。
その表情は、戸惑っているように見える。
「ほら、レーモンが変なことを言うから。ノビリス様は、すごく誠実で真面目な方なの。私なんかを愛人にはしないよ」
「……クラリス」
レーモンは私の言葉を聞いて、頭を抱えた。
まるで、私に呆れているかのようだ。
「そういう意味で、ノビリス殿下は仰ったんだよ。クラリス、もっと人を見る目を養え」
レーモンの言葉に、カチンときた。
まるで私が、ノビリス様のことを何も分かっていないと言われたようなものだ。
今、初めてノビリス様に会ったレーモンに。
私はノビリス様と知り合って、もう一年以上経っている。
レーモンよりも、私の方が絶対にノビリス様のことを理解しているのだから。
「クラリスを愛人にしようなどとは、考えていない」
「ほら!」
ノビリス様の説明に、私は胸を張る。
私はマートル・キンバイを……ノビリス様を、とても尊敬しているのだ。
そんな低俗なことをなさる方ではない。
「クラリスを、私の妃に迎えようと思っている」
しっかりとした口調で、ノビリス様は言った。
「……え?」
最初、私はノビリス様の言葉の意味を理解できなかった。
ノビリス様の妃?
私が?
まさか、と思った。
しかし、ノビリス様を見ると、真剣な表情を私へと向けている。
「……?」
意味が分からず、頭の中が混乱してしまう。
私は首を傾げながら、改めてノビリス様を見た。
すると、ノビリス様の頬が赤い。
冗談を言っているようには見えない。
それでも、ノビリス様が私を妃にしようとしているなんて、わけが分からなかった。
準男爵の娘である私が、王族へ嫁げるはずがないのだから。
誰だって、少し考えればすぐに分かることだ。
きっと、レーモンが変なことを言ったせいで、ノビリス様は混乱しているのだろう。
レーモンは、こうやって、わざと場を混乱させることがある。
ある意味、レーモンの特技なのかもしれない。
「……クラリスを妃に、ですか」
レーモンは考え込むように呟く。
え?
ちょっと待って。
もしかして、レーモンはノビリス様が本気だと思っているの?
いつも先の先まで考えて行動する、頭の良いレーモンはどこに行ったのよ。
会わなかった三年間で、頭がおかしくなったの?
まぁ、おかしいか、おかしくないかと言われれば、十分におかしい人だとは思うけど。
これは、レーモンの近くにいた人間ほど知っている事実である。
「……バウム子爵家としては、これ以上、王族や高位貴族と婚姻関係を結ぶことを望んでいないのですが」
レーモンの言葉に、私は違和感を覚えた。
メリッサは王太子であるローレル殿下と、すでに婚姻関係にある。
高位貴族ではなく、王族だ。
では、ほかにもバウム子爵家から高位貴族へ嫁ぐ人間がいるということだ。
つい数か月前、リモネンの婚約は破談になった。
これはリモネン本人の口から聞いたことだから、間違いない。
シトラールが婚約したことは知っている。
相手が平民であることも、本人の口から聞いた。
レーモン自身の婚約の話は、今まで聞いたことがない。
ヴィオレ様が、レーモンの婚約話を見逃すはずは絶対にないし。
イーズ侯爵家は、ヴィオレ様がレーモンへ嫁ぐことに反対していない。
だけど、まだ魔法学園に通っているヴィオレ様と、レーモンが今すぐ婚約することはないだろう。
しかも、ヴィオレ様は魔法学園の二年生になったばかり。
卒業まで、あと二年近くある。
レーモンは、そんなヴィオレ様を婚約で縛りつけるようなことをする人ではない。
……それ以前に、レーモンはヴィオレ様を、まだ可愛い妹分としか思っていない。
そのことが分かっているからこそ、ヴィオレ様も行動を起こしていないのだろう。
ヴィオレ様は、負け戦はしない。
きちんと勝機を確信してから行動するはずだ。
でも現在、バウム子爵家で婚約が決まっていないのは、レーモンとリモネンだけだ。
婚約破談から、こんなにも早くリモネンの新しい縁談が決まったのか。
しかも、それをバウム子爵家が了承している。
メリッサが王太子妃になったことで、リモネンに結婚を申し込む貴族は多いはずだ。
その中に、メリッサが王太子妃になったこととは関係なく、リモネン本人を大切にしてくれる貴族が現れた、ということなのだろう。
リモネンはソレイユ様に似て、誰もが振り返るほどの美人だし。
普段は認識阻害の魔法を使って、その美貌を隠している。
だから、普段のリモネンの顔は、ぼんやりとした印象しか残らないのだ。
「……リモネンの婚約が決まったの? 相手は?」
ぐだぐだ考えるより、レーモンに聞いた方が早い。
先ほどのレーモンの言い方からして、隠すつもりはないのだろうし。
そう判断して尋ねた。
「まだ、完全に決まったわけではない。婚約の打診さえ来ていないし、リモネン本人も、まだ何も知らない」
「でも、決まったも同然なんだよね? その言い方だと。バウム子爵家としては……レーモンが、その話を進めようとしているんでしょう?」
そう。
レーモンが、リモネンの結婚を進めようとしている。
もちろん、バウム子爵家は本人の意思を最大限尊重するけれど。
レーモンが、リモネン本人の幸せを考えないはずは絶対にない。
リモネンが一番幸せになれる可能性が高い相手だと、見越しているのだろう。
そこを見誤るレーモンではない。
レーモンは、バウム子爵家の嫡男だ。
弟妹たちのことを、誰よりも考えている。
「トスカナ公爵家のアレックス卿だ」
レーモンは、きっぱりと言った。
「思っていた以上に大物ーっ!」
私は思わず叫んでいた。
筆頭公爵家の嫡男だなんて、思ってもいなかった。
でも、トスカナ公爵家の嫡男の評判は良い。
悪い噂を聞いたことがない。
私も学年は違ったけれど、魔法学園在学中に、トスカナ公爵家の嫡男を直接見たことがある。
筆頭公爵家の嫡男だけあって、何をさせても完璧だった。
性格も良い。
リモネンの結婚相手として、確かに悪くない。
「アレックス卿は、魔法学園に通っていた時からリモネンに片想いしていたからな」
「リモネンに婚約者がいたから、当時は行動に出なかった。権力を使うこともしなかったってことか……」
「そういうことだ。そして、リモネンの婚約が破談になったことで、行動を起こしてきた。バウム子爵家に直接婚約の打診ではなく、リモネン本人の好意を得ようとしている」
レーモンの説明に、私も反対する理由がまったく浮かばない。
まぁ、レーモンがリモネンのことで決めたことなら、間違うはずはないと思っていたけれど。
リモネンが筆頭公爵家の夫人になれば、王太子妃となったメリッサとも会いやすくなる。
メリッサにこれからも気兼ねなく会えると説明すれば、リモネンは相手が誰であっても結婚を受け入れそうだ。
重度のシスコンだし。
しかも、アレックス卿はリモネンのことを以前から好きでいてくれて、結婚後も大切にしてくれるのは間違いない。
確かに、これ以上の相手はいないと思った。
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