第3話 亀裂
翌朝、夜明け前の木霊が響くほどに静まり返った道場。
板張りの床には、まだ薄暗い朝もやが低く立ち込めていた。
修は、新しく巻き直された包帯の圧迫感に耐えながら、一人で正座していた。
昨日の命の危機は脱したものの、全身の筋肉は繊維の一本一本が燃え尽きたように軋み、呼吸を深く吸い込むだけで昨日折られた脇腹が鋭く主張する。道着の擦れるかすかな摩擦すら、傷口には万力で絞められるような激痛だった。
ギィ……と、重い板戸が開く。
音もなく入ってきた厳は、昨日のお白洲での豪奢な衣服ではなく、着古された灰色の稽古着を纏っていた。その手には、ずっしりと黒光りする素振り用の重木刀が握られている。
厳は修の正面に立つと、冷徹な眼光を突きつけた。
「立て、修。昨日の不始末、帳面を合わせるぞ」
「……御意」
修は歯を食いしばり、床を押して立ち上がった。膝が笑いそうになるのを、強引にねじ伏せる。自分の木刀を執り、正対して構える。
その刹那、風が爆発した。
残像すら残さぬ厳の踏み込み。黒木刀が、修の脳門めがけて一直線に振り下ろされる。
修は本能的に己の木刀を斜めに掲げ、受け流そうとした。しかし、相手は厳だ。万全であっても防ぎきれるか怪しい一撃が、満身創痍の腕にまともにかかる。
「ぐ、うっ……!」
凄まじい衝撃波が腕の骨を伝い、肩が悲鳴を上げた。修はたまらず数歩後退するが、厳は追撃の手を緩めない。間髪入れずに放たれた足払いが、修の軸足を正確に払った。
ドサリ、と派手な音がして修の身体が板の間に叩きつけられる。
背中と脇腹の傷が同時に開き、道着の裏にじわりと赤いシミが広がっていく。
「……何だその無様な受けは。昨日の千練巌の再現のつもりか」
厳は倒れた修を見下ろし、木刀の先を床に突き立てた。
「上で全て見ていた。……おい、あのやり方はねえだろ」
修は口内の血を床に吐き捨て、這うようにして再び立ち上がろうとする。
「……やり方、ですか」
「そうだ。懐に潜り込んでの頭突きに、あえて脇腹を殴らせて肉を切らせる骨断の戦法。あれではただの飢えた野良犬の噛み合いだ。お前は我が直伝の武技をどこへ捨ててきた? 」
修はよろめきながらも木刀を構え直し、師の鋭い視線を正面から見据え返した。
「綺麗事じゃ……あの状況は生き残れませんでしたよ、師匠」
掠れた声に、隠しきれない揺れが混じる。
「相手は万全の暗部が三人。対する俺は、師匠の『お心尽し』のせいで肉体が焼き切れる寸前だった。あそこで型通りの美しい武技なんて気取ってたら、最初の三分で本当に肉片にされてました。――sれがあの場で、俺にできる唯一の正解だったはずだ!」
「口が減らないな」
厳の目が、わずかに細められた。
「ならば、その野良犬の戦い方が、この俺に通じるかどうか試してみろ」
次の瞬間、厳の姿が完全に視界から消えた。
修の背後に、冷徹な気配が立ち上る。気付いた時には遅い。厳の木刀の柄頭が、修の背中の「気脈の要衝」へと容赦なく突き込まれた。
「が、はっ……!?」
痛烈な衝撃。しかし、その激痛と同時に、不思議なことが起きた。
昨日から体内の奥深くで滞り、鉛のように重く燻っていた経絡の詰まりが、厳の一撃によって無理やり風穴を開けられたように、一気に弾け飛んだのだ。
体内を駆け巡る気流が、一瞬にして正常な軌道へと還流していく。
厳は息を荒くする修から一歩引き、木刀を肩に担ぎ直した。
「頭突きも、肉を切らせる戦法も、己の肉体という資産をドブに捨てる愚者の戦いだ。二度とあんな無茶な戦い方をするな。お前が死ねば、俺の帳面が赤字になる」
そう言い捨てると、厳は踵を返し、道場の出口へと歩き始めた。
「今日の稽古は終わりだ。すぐに食事を摂れ。狂った気脈は今の一撃で叩き直してやった。……それともう一つ」
厳は戸に手をかけたまま、振り返らずに言った。
「泥塗れの不細工な勝利だったが、……生きて戻ったことだけは、褒めてやる」
バタン、と静かに戸が閉まる。
道場に残された修は、木刀を杖代わりにしながら、ようやく深く、正常になった呼吸を肺いっぱいに吸い込んだ。身体の芯から、じわりと熱い力が戻ってくるのを感じる。
修は閉ざされた扉に向かって、不敵に、しかしどこか憑き物が落ちたような笑みを浮かべた。
「……お心のこもった治療、痛み入りますよ、師匠」




