第2話 千練巌
重々しい鉄門が閉ざされた瞬間、光は消え失せた。
『千練巌』――。
周囲をそびえ立つ岩壁に囲まれた、擂鉢状の巨大な決闘場。
上空のわずかな隙間から差し込む薄明かりが、赤黒く染まった中央の舞台を照らし出している。兵器の持ち込みは一切禁止。肉体と武技のみで命を奪い合う、門閥で最も原始的な処刑場。
修は、舞台の端にぽつんと立っていた。
すでに限界を迎えている足が、一歩踏み出すたびに小刻みに震える。先程の負荷で焼き付いた両腕は、鉛のように重く、指先を握りしめることすらままならない。背中の傷からは、今も執拗に血が伝い落ちていた。
「おいおい……死に損ないが運ばれてきたぞ」
対面から、地を這うような足音が近づいてくる。
現れたのは三人。門閥の暗部として、これまで数多の『不適格者』を屠ってきた実戦の狂人たちだった。万全の肉体、そして獲物をいたぶることに飢えた、冷酷な笑み。
「お白洲で長老たちに盾突いたガキがこいつか。立つのがやっとじゃないか」
「厳の秘蔵っ子だそうだ。骨の髄まで楽しませてもらおう」
三人が、一斉に修を包囲するように散る。
修はゆっくりと息を吐き出そうとしたが、肺が拒絶するように激しく咳き込んだ。口の端からボタボタと血が床に落ちる。
(動け、動け、動け――)
脳の命令が、乳酸と激痛にまみれた筋肉に届かない。
その一瞬の隙を、正面の男が見逃さなかった。
「死ねッ!」
空気を切り裂くような踏み込み。鋭い手刀が、修の喉元をめがけて突き出される。
まともな回避は不可能。修は反射的に残った力を振り絞り、両腕を交差させてガードした。
ドガァァンッ!!!
鈍い衝撃音が決闘場に響き渡る。
普段なら容易に受け流せるはずの一撃。しかし、極限まで破壊されていた修の腕は、衝撃に耐えきれず跳ね上がった。ガードをこじ開けられ、がら空きになった胸元へ、男の容赦ない前蹴りが突き刺さる。
「が、はっ……!」
修の細身の身体が、地面を何メートルも引きずられながら吹き飛んだ。岩壁に背中から激突し、昨日の打撲痕が悲鳴を上げる。包帯が弾け飛び、鮮血が壁にべっとりと付着した。
「ハハハ! 呆気ない! これが白州の天才か!」
嘲笑。包囲網が狭まる。
修は壁に寄りかかりながら、ずるずると膝をついた。視界が急速に狭くなっていく。頭が揺れる。
『這ってでも勝て』
脳裏に、師の冷徹な言葉がリフレインした。
(......ここで終わってたまるか)
修の喉の奥から、乾いた息が漏れた。
ゆっくりと顔を上げたその瞳から、完全に人間の理性が消えていた。血に染まった唇を吊り上げ、獰猛な狂気だけを宿した目で、迫り来る三人を見据える。
「あ?」
男たちが一瞬、その異様な気迫に足を止めた。
次の瞬間、動いたのは修だった。
おぼつかなかったはずの足が、爆発的な踏み込みを見せる。
「しまっ――」
先ほど蹴りを入れてきた男の懐に、修は一瞬で潜り込んでいた。
両腕は使えない。ならば、頭突きだ。
ゴンッ!!! と頭蓋が軋む凄まじい音が響き、男の鼻梁が粉砕される。男が怯んだ隙を逃さず、修は自らの身体の軸を独楽のように回転させ、遠心力を乗せた渾身の後ろ回し蹴りを男の側頭部に叩き込んだ。
バキィィンッ!
男の巨体が横転し、ピクリとも動かなくなる。一撃。
「このガキ、まだそんな力が――!」
残る二人が左右から同時に襲いかかる。左の男が修の負傷している脇腹を狙って拳を突き出し、右の男が首を狙って回し蹴りを放つ。
修は避けない。
左の拳をあえて自らの脇腹で受け止めた。グシャリと嫌な音がして激痛が走るが、修はその男の腕を、自らの脇腹と肘で強引に挟み込んで固定した。
「な、離せっ……!」
「離さないさ」
修は口角を吊り上げ、つぶやく。
固定した男の顔面を、右の男から放たれた回し蹴りの軌道へと強引に引っ張り込んだ。
ボカァンッ! と、右の男の蹴りが身内の顔面をクリーンヒットする。鼻骨を折られた男が気絶し、修の身体から崩れ落ちた。
「化け物めが……!」
最後の一人となった男の顔に、明らかな恐怖が浮かんだ。
修は一歩、また一歩と近づく。
その足元は、自らの身体から流れ落ちる血で真っ赤な足跡を作っていた。
喉からはヒュー、ヒューと壊れた笛のような音が漏れている。それでも、男を睨みつける眼光だけは、1ミリもブレない。
「くるな……来るなぁぁッ!」
恐怖に駆られた男が、大振りの拳を振り下ろす。
修はその拳を、最小限の首の傾げだけでかわした。すれ違いざま、男の顎の下へ、下から突き上げるような掌底を叩き込む。
ガキィンッ!
脳を揺らされ、白目を剥いて崩れ落ちる男。
静寂が、再び決闘場を包み込んだ。
舞台の上に立っているのは、修ただ一人。
「……は、……っ、あ、……」
敵がすべて沈んだことを確認した瞬間、修の膝がガクリと折れた。両手を地面につき、激しく肩を上下させて血の混じった息を吐き出す。
上空の隙間から、見下ろしているであろう長老たちの、そして厳の視線を感じる。
修は口元の血を拭うと、誰もいない空間に向かって、何かが混ざった笑みを向けた。
「……勝ったぞ、クソ親父」
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鉄門が再び、重々しい音を立てて開いた。
千練巌から這い出してきた修の姿は、まさに生ける屍だった。
衣服はズタズタに裂け、元が白かったのかすら分からないほどに血と泥で黒ずんでいる。すでに立っている力は残っておらず、右肩を壁に預け、ずるずると足を引きずりながら、ようやく門の外へと一歩を踏み出した。
そこは、人気のない薄暗い石廊下だった。
長老たちの姿はない。ただ一人、壁に背を預け、腕を組んで待っている男がいた。
――厳だ。
修は、その姿を視界の端に捉えた瞬間、張り詰めていた何かが切れたように、壁を背にしてその場にへたり込んだ。頭を壁に打ち付け、虚ろな目で天井を見上げる。
「……遅い」
厳がゆっくりと近づいてくる。その足音が、石廊下に冷たく響く。
修の前に立ち止まった厳は、見下ろす視線を崩さない。その顔は相変わらず冷徹なままだが、その目は、修の全身の傷、特に新しく折られたであろう脇腹の歪みを冷徹に見極めていた。
「三人、片付けてきましたよ……」
修は掠れた声で笑い、口の端から溜まった血を吐き出した。
「あのクソ老害ども……万全の暗部を送り込んできやがった。……これで、文句はねえだろ、クソ親父」
厳は何も言わず、修の前に身を屈めると、懐からいくつかの小瓶と、清潔な白い晒を取り出す。お白洲にいた時から、用意していたのだ。
「口を動かすな。余計な体力を使う」
厳の手際が動いた。修のボロボロになった衣服の残骸を引き裂き、露わになった傷口に、一族秘伝の、焼けるように痛む気付けの薬膏を塗り込んでいく。
「――っ、づ、あ……ッ!!」
あまりの激痛に、修の身体が跳ね上がる。だが、厳はその細身の肩を、巨大な鉄の万力のような力で強引に床へ押さえつけた。
「暴れるな。気脈が狂えばそのまま廃人になるぞ。……それにしても、五十回の後に千練巌とはな。よく持ち堪えた。お前を仕込んだのが俺でなければ、最初の三分で肉片になっていたところだ」
荒い呼吸を繰り返す修の視界に、厳の大きな手が映り、一ミリの無駄もなく包帯を巻き直していく。
「長老たちは?」
修が、脂汗を流しながら尋ねる。
「お前が暗部を全滅させた報せを聞いて、全員、化け物でも見るような顔をして奥へ引っ込んだ。当面、お前に手出しはできまい」
厳は最後の結び目をきつく締め上げると、ようやく手を離し、立ち上がった。
「だが、これで完全に目を付けられた。次の一歩を誤れば、次こそ本当に死ぬぞ、修」
修は、新しく巻かれた強固な包帯の圧迫感に眉をひそめながらも、壁を支えにして、ガクガクと震える足でどうにか立ち上がった。
「上等だ……。次が来ようが、何が来ようが、全部噛み殺してやりますよ」
口元の血を親指で拭い、不敵に笑う。
厳は、その傲岸不遜な態度に、一瞬だけ口元を緩めた。だが、すぐに冷酷な顔に戻り、踵を返す。
「歩けるならついてこい。お前の独断専行で狂った予定を、これから叩き直す」
「……へいへい。人使いの荒いクソ親父だ」
修は毒づきながらも、その広い背中を追って、一歩、また一歩と、ゆっくりな足取りで暗い廊下を歩き始めた。
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薬草の匂いが混じった湯気の漂う風呂場。
「入れ」
厳は修のほうを見向きもせず、ただ短く命じた。
修は震える手で、辛うじて身体に張り付いていた衣類の残骸を剥ぎ取るように脱ぎ捨てた。鉄鎖甲の重みで紫に変色した両肩。肉が擦り切れた肘。そして、千練巌の死闘で刻まれた無数の裂傷。
湯船に溜められた湯に、ゆっくりと身体を沈める。その瞬間、修の喉から、声にならない悲鳴が漏れた。傷口という傷口に熱湯が容赦なく侵入し、神経を狂わせるような激痛が走る。
「……っ、く、……あ、……」
歯を食いしばり、湯の縁を血の気の引いた指で強く握りしめる。
修の身体から、瞬く間に汚れが溶け出していった。任務の道中で浴びた泥や塵。あるいは、お白洲の冷たい板張りの床から擦りつけられた木屑。しかし何よりも濃く湯を染めたのは、大量の血だった。
赤黒く固まっていた昨日の傷から流れ出す、自身の血。そして、暗部たちの、どす黒く生温かい血。
それらが熱い湯の中で混ざり合い、渦を巻き、排水溝へと流れ落ちていく。修はその様子を、ただ泥のように濁った瞳で見つめていた。湯面に映る自分の顔は、驚くほど酷い有様だった。
湯殿の戸の向こうから、厳の冷淡な声が響く。
「長老たちの手前、生ぬるい治療はできん。湯から上がれば、すぐに一刻の瞑想に入れ。狂った気脈をその時間で整えられねば、明日の朝には廃人だと思え」
「……御意」
修は、湯殿の壁の向こうにいる師へ向けて、低く、しかしはっきりとした声で応じた。
湯から上がり、新しく用意されていた黒い道着に身を包む。
まだ傷口からはかすかに血が滲み、着衣に張り付いたが、修は厳の部屋の座敷へと進み、床の上で足を組んだ。
厳は部屋の隅に座し、ただ静かに、冷徹な眼光でその様子を見つめている。手元には、泥のように苦い回復薬の入った器が置かれていた。
修は深く息を吸い、そっと瞼を閉じる。激痛を呼吸でねじ伏せ、暴走する気流を体内へと巡らせる。彼の意識は急速に、静寂の深淵へと沈んでいった。
――瞑想が始まって半刻が過ぎた頃。
張り詰めた静寂の中で、修の規則正しかった呼吸が、一瞬だけ不自然に詰まった。
「……っ」
引き締まった胸板が大きく波打ち、喉元がせり上がる。お白洲でも、千練巌の死闘の最中でさえ、敵の前で決して見せまいと喉の奥で強引に飲み込み続けていた限界の澱が、内功による気流の巡りに押し出されるようにして一気にせり上がってきたのだ。
「……ガハッ!!」
修の口から、どす黒い血の塊が畳の上へと激しく吐き出された。
黒い道着の胸元が、さらに深い黒に染まる。修は激しく咳き込み、床に両手をついた。せっかく洗い流した血の匂いが、再び生々しく部屋に充満する。視界がグニャリと歪み、そのまま意識を失いかけるほどの衝撃が内臓を駆け抜けた。
「……、……ふぅ……」
口元からどす黒い血を滴らせながらも、修は床に落ちた己の血溜まりを見つめ返した。
そして、乱れた呼吸をわずか数回で強引に統制すると、何事もなかったかのように再び足を組み、瞑想へと戻った。
再び閉ざされる瞼。その顔は、先ほどよりも微かに血色が戻り、呼吸の深さが増していた。
部屋の隅でその一部始終をじっと見届けていた厳が、静かに、しかし確かな満足を乗せて呟いた。
「……内臓の瘀血を自力で押し出したか。やはり、並の器ではないな」
厳は立ち上がり、足音もなく修の傍らへと歩み寄ると、泥のように苦い薬湯の入った器を床に置いた。
「一刻が過ぎたらそれを飲み干せ。今の不始末、明日の朝の帳面でしっかりと叩き直してやる」
修は答えず、ただ深く、深く、静謐な呼吸の奥へと沈んでいった。




