第1話 白州の審判
【偽りの冷酷】
第1章 白州の審判
重々しい空気が、大講堂の板張りを凍りつかせていた。
門閥の権威を象徴する正面の雛壇。そこには、老い先短い長老たちが冷徹な眼光を並べ、傲然と腰を下ろしている。彼らの視線の先、冷たい床の上には、若き武人・修が一人、直立不動で立たされていた。任務の装束は破れ、彼が独断で一般人を救うために戦った、泥と血痕が生々しく残っている。
「規律を乱す危険分子に、生ぬるい処分は不要。今すぐその経絡を断ち、我が一族から追放すべし」
長老たちの容赦のない弾劾が広間に響き渡る。武術の根源である経絡を断たれることは、武人としての死を意味していた。
その怒号を切り裂くように、修の師匠である厳が、毅然とした足取りで前へ進み出た。長老たちを一瞥し、重厚な声を響かせる。
「長老一同の御前、こやつの独断専行は、我が門閥の顔に泥を塗る不届き千万な行為。しかし、ここで追放など生ぬるい。一族の掟を破ることがどれほどの苦痛を伴うか、今ここで、我が直伝の『肉体の監獄』をもって、皆様の御前で見せしめといたしましょう」
厳の冷酷な双眸が、修の汚れた衣服に止まった。
「長老たちの御前だ。その薄汚れた上衣を脱げ」
修は一瞬、戸惑うように目を見張った。昨日の死闘の傷を見せたくないのではない。門閥の最高権威たちの前で肌を晒すことは、武人にとって最大の恥辱に近かったからだ。しかし、見上げる師の目は、一切の情を排した氷そのものだった。
「……御意」
修は震える手で帯を解き、衣服を肩から滑らせた。
露わになったのは、白く、しかし極限まで鍛え上げられた細身の体躯。だが、その背中や脇腹には、赤黒く腫れ上がった無数の打撲痕と、血の滲む包帯が痛々しく巻き付いていた。長老たちの間から、かすかな息を呑む音が漏れる。
だが、厳は一歩も引かなかった。側近が運んできた三十キロの鉄鎖甲を、修に向かって容赦なく投げつけた。
ガシャァァンッ!!
重々しい金属音が大講堂に炸裂しながら、鉄衣が修の剥き出しの肩へと激突する。鉄の冷気と圧倒的な質量が、傷ついた生肌を直撃した。
「くっ……!!」
「着ろ」
修は歯を食いしばり、凄まじい重圧に耐えながら、鉄衣を持ち上げて腕を通す。衣服の隙間から、昨日の傷が容赦なく開き、一筋の鮮血が白い背中を伝って床へと流れ落ちた。
「伏せ。50回。1回でも姿勢を崩したら、俺がお前を終わらせてやる」
修は血を流しながら、静かに、だが獰猛な目で冷たい床を見据え、両手を突いた――。
執行が始まった。 最初の二十回、修の動きはまるで精密な鉄の機械だった。頭からかかとまで一直線に固定された姿勢には、一ミリのブレも、迷いもない。 肘をつき、手をつき、また肘をつく。静まり返った板の間に響くのは、メトロノームのように正確なリズムと鉄鎖甲の揺れる音だけだった。 長老たちは侮蔑の目で見ているだけだ。厳は腕を組み、冷徹な表情を崩さずにそのカウントを見つめ続ける。
三十回を過ぎたあたりから、物理的な限界が確実に修を蝕み始めた。すでに任務帰りで肉体は枯渇している。片腕で体重と三十キロの鉄衣を支える一瞬、深層の筋肉には数十キロの負荷が突き刺さり、乳酸が爆発的に溜まっていく。
額から大粒の汗が吹き出し、冷たい板の間にポタポタと黒い染みを作っていく。呼吸は「フッ……フッ……」と短く、鋭いものに変貌した。 肘を床につく瞬間、痛烈な衝撃が走り、修の端正な眉間が初めてピクリと歪む。だが、長老たちの前だ。弱みなど、死んでも見せられない。彼は歯を食いしばり、床を睨みつけた。
四十回直前。修の両腕は、目に見えてプルプルと小刻みに震え始めていた。上下するスピードが明らかに落ち、一回をこなすのに数秒のタイムラグが生まれ始める。 長老たちの嘲笑が、いつしか消えていた。ここで、厳の低く冷酷な声が、水を打ったような大講堂に響き渡る。
「どうした。お前が救ったあの命の重さは、その程度か。腰が落ちているぞ」
修は、師の言葉の奥にある真意を受け取った。
(――クソ喰らえだ)
消えかけていた瞳に、再び鋭い野生の光が宿る。絶対に崩れてまるか。彼は息を吸うことすら忘れ、喉の奥で「グ、ウ……」と獣のような呻き声を漏らしながら、血の気の引いた腕で爆発するような重力を押し返した。
最後の五回。 首筋には太い血管が浮き上がり、食いしばった奥歯の隙間から、かすかに鉄の味が広がった。上半身のすべての筋肉が限界を迎え、焼き付くように熱い。 四十九……五十。
最後の数値を脳内で数え終えた瞬間、修は床に崩れ落ちたい衝動を、武人としての意地だけでねじ伏せた。プランクの姿勢のまま、一秒、二秒と完璧に静止して見せ、それからできる限り静かに、膝をついた。
床に手をついたまま、深く頭を垂れ、激しく肩を上下させて酸素を貪る。背中は汗と血で完全に色が変わっていた。 長老たちは気圧され、誰一人としてものを言えない。重々しい静寂が、大講堂の板張りを支配していた。厳は、静かに一歩前に出て、長老たちを見据えた。
「――ご覧の通り、一族の罰は執行されました。これ以上の処分は不要かと」
その視線の先では、修が両膝を突き、両手を床についたまま、深く頭を垂れていた。背中から滴る血は床に血溜まりを作り、脇腹の白い包帯には、じわりと新しい鮮血が滲んでいるのが見え隠れしている。
これで処罰は終わった。修は赦された――誰もがそう確信した、その瞬間だった。
「……ふん。なるほど、見事な見せしめであった、厳」
雛壇の中央、最も老いた長老が、涸れた声で不気味に笑った。その濁った眼光が、床に伏せる修の、激しく上下する背中に向けられる。
「しかるに、厳よ。お前が執行したのは、我が一族の『顔に泥を塗った罪』への罰に過ぎぬ。……我らが問題にしているのは、この者が『規律を乱す危険分子』かどうか、という点だ」
厳の眉が、わずかにピクリと動く。
「長老。それはどういう――」
「言葉通りよ。独断専行で一般人を救い、一族の秘密を危険に晒したその歪んだ正義感。我が門閥の武を継ぐ者として、本当に相応しい『器』であるかどうか。……それを証明せねば、断経路の処刑を免ずるわけにはいかん」
長老は痩せ細った手を、ゆっくりと大講堂の奥へと向けた。
「これより、この者をそのまま『千練巌』へ送り込む」
その名が響いた瞬間、広間の空気が一変した。
千練巌――そこは、門閥が誇る最高峰の若手でさえ、万全の状態で挑んでなお、九割が命を落とすと言われる実戦訓練用の決闘場。絶え間なく襲い来る鋭利な仕掛けと、一族が飼い慣らす狂暴な刺客たちが、入った者を文字通り肉片へと変える地獄の底だ。
「なっ……! 待ってください! 修はたった今、任務から戻ったばかりの身体で、三十キロの鉄衣を背負いし罰を終えたばかりです! このまま千練巌へ送るなど、死を命じるも同然――!」
厳の傍らに控えていた他の門弟が、思わず声を荒らげる。
だが、長老たちは冷酷に切り捨てた。
「不服か? ならば今すぐ経絡を断ち、破門に処すまで。……選ぶのはその若造だ」
長老たちは、修の執念に恐怖したのだ。だからこそ、この芽を今ここで、確実に摘み取ろうとしている。
「…………」
厳は拳を握りしめ、顎の骨が軋むほどに奥歯を噛み締めていた。ここでこれ以上長老たちに反論すれば、一族の造反とみなされ、それこそ修をその場で処刑せざるを得なくなる。さすがの厳も、一瞬だけ絶望の色が目に映った。
その時。
鉄の擦れる、重々しい音が床から響いた。
「……っ、は、……ふぅ……」
修が、ゆっくりと立ち上がっていた。
膝は震え、血の気の引いた顔は痛々しいほどに白い。息を吸うたびに、肺が引き裂かれるような喘鳴が漏れる。
だが、その瞳は――死んでいなかった。
修は震える手で、鉄鎖甲の留め金を外した。
ガシャァァン……ッ!!!
重い金属の塊が床に落ち、凄まじい衝撃音を立てる。上半身が血と汗にまみれ、立っていること自体が奇跡のような有様。
それでも修は、正面の長老たちを、じっと睨み据えた。その眼差しは、先程の従順な弟子のものではない。獰猛な、野生の獣のそれだった。
「……っ、喜んで、……試練をお受け、いたします……」
掠れた声だが、はっきりと広間に響渡った。
長老たちはその視線に一瞬怯み、すぐに忌々しげに顔を歪めて手を振った。「連れて行け」と。
大講堂の奥にある、千練巌へと続く黒鉄の重門が開かれる。そこから吹き付ける風は、凝固した血の匂いがした。
修は一歩、また一歩と、おぼつかない足取りで門へと歩みを進める。その背中は、今にも崩れ落ちそうなほどに脆く見えた。
そのすれ違いざま。
直立不動で前を見据えたままの厳が、唇をほとんど動かさずに、周りには決して聞こえないほどの低い地声で言い放った。
「……死んで戻ったら、俺はお前の死体を刻んで犬の餌にする」
その言葉に、修の足がわずかに止まる。
背後に組んだ厳の拳は、肉に爪が食い込むほどに握られていた。
「這ってでも勝て、修。お前を仕込んだのは、この俺だ」
修の青白い唇が、わずかに吊り上がった。
口元に溢れた鮮血を、上衣の袖で乱暴に拭い去る。
「――御意」
一言だけそう残すと、修は振り返ることもなく、決闘場へと足を踏み入れた。
背後で、重々しい鉄門が、ガギィィンと音を立てて閉ざされた。




