第2章 鎌足の拘りの正体
【正義はどこに】
山背大兄王の一族を死に追いやった蘇我入鹿の警戒心は、狂気的なまでに跳ね上がっていた。
自邸を要塞化し、常に武芸に秀でた私兵を従わせる入鹿は、ちょっとやそっとの隙も見せない。
進麻呂は声が出ない身を生かし、目立たぬ手下や探りの者を京に放ち、蘇我氏の動向や民の評判を影から探らせた。入鹿の命を狙う策を練るための情報収集のはずだった。
しかし――探りを入れれば入れるほど、進麻呂の心に重い疑念が兆し始めた。
(……本当に、蘇我氏はただの暴君なのか……?)
世間では「横暴」と叩かれる蘇我氏だったが、集まってくる実態は予想とは大きく異なっていた。
先進的な仏教文化を取り入れ、東アジア諸国との外交を力強く推し進め、官僚機構を整えて税や土地の管理を近代化させようとしていたのは、紛れもなく蘇我蝦夷・入鹿の父子だった。
彼らが強権を振るったのは、旧態依然とした氏族たちの権力闘争を抑え込み、倭国を一つの強力な国家としてまとめるためという「義」があったからだ。
絶対的な悪など存在しない。ただ「国づくりの手法」が急進的すぎただけなのだ。
探りを入れるほどに浮き彫りになるその事実に、進麻呂の胸は痛んだ。
(蘇我氏宗家を滅ぼすことが……本当にこの国にとっての『正義』なのだろうか……?)
現実のコールセンターで、相手の言い分を聞かずに「詐欺師だ」と決めつけられ、怒鳴り散らされた痛みが脳裏をよぎる。一方的な正義の押し付けが、どれほど残酷かを進麻呂は知っていた。
【鎌足の執着】
迷いを深める進麻呂の前に、ある夜、忍びの足取りで中大兄皇子の隠れ家を訪れる男があった。
顔を覆っていた布を外したのは、鋭い知性と、どこか冷酷な野心を瞳に宿した男――中臣鎌足であった。
「皇子、今夜もご無事で何よりです」
法興寺の蹴鞠の会で、中大兄皇子の脱げた沓を鎌足が拾って捧げ持ったことから始まった二人の出会い。
二人は互いの内に潜む「熱」を感じ取り、一気に意気投合していた。
以来、打倒蘇我氏に向けた秘密の講義や密談を幾度となく重ねていたのだ。
鎌足は滑らかな弁舌で、蘇我入鹿をいかに油断させ、暗殺の舞台へ引きずり出すかを熱弁した。
その論理的で完璧な謀略の数々に、中大兄皇子は深く感銘を受けていた。
しかし、進麻呂は蚊帳の外でそれを見つめながら、強い違和感を拭えずにいた。
(なぜ、この人はここまでして蘇我氏を憎むんだ……?)
密談の合間、進麻呂は木の枝で地の上にそっと文字を刻み、鎌足に問いかけた。
『鎌足殿。あなたが命を懸けてまで蘇我宗家を滅ぼさんとする「まことの理由」は何ですか』
鎌足は進麻呂の文字をチラりと見下ろすと、薄く冷ややかな笑みを浮かべた。
「我が中臣の家系は、古くから神事を司る家柄。かつて祖父・中臣鎌子の時代、仏教を受け入れんとする蘇我馬子によって権力を奪われ、神道の威信を貶められた。……我が家に与えられた屈辱の歴史を拭い去り、中臣の家名を再び国の頂に押し上げること。それ以上に重い理由などあろうか」
進麻呂は絶句した。
(私怨……? 遠い昔の祖父の代の復讐と、家格を上げるためのプライドなのか……?)
中大兄皇子は「自分が消される前に国を守る」という生存本能と危機感で動いている。
だが、黒幕として糸を引く鎌足の原動力は、個人的な復讐心と権力欲に過ぎなかった。
国家の改革を推し進めようとする蘇我氏の「義」。
命の危険を感じて追い詰められる中大兄皇子の「焦燥」。
そして、過去の恩怨に執着する鎌足の「野心」。
混ざり合うそれぞれの思惑。何が正しく、何が間違っているのか。
正義の概念が混沌と溶けていく飛鳥の夜陰の中で、進麻呂は深い迷いの暗闇へと引きずり込まれていった――。




