第1章 飛鳥の権力闘争
【血濡れた真珠、飛鳥の暗雲】
深い暗闇の底から浮上するように、伊崎進は現実の意識を取り戻した。
締め切られた遮光カーテンの隙間から、薄寒い光が差し込んでいる。
身体は鉛のように重く、指一本動かすのすら億劫だった。
布団に横たわったまま天井を見つめていると、不意に胸の奥がキュッと締め付けられ、激しい動悸が襲ってきた。
(あの声だ……)
脳裏に蘇ったのは、予備校の仕事が減って始めた、あの派遣コールセンターでの苦い記憶だった。
営業事務として顧客リストへ電話をかけ、インターネットの通信プランの見直しを丁寧に提案していた時のことだ。突然、電話口の男性が狂ったように怒鳴り散らした。
『お前、振り込め詐欺だろ! 嘘ついて年寄り騙そうとしてんじゃねえよ! 警察に突き出してやるからな!』
どれだけ誠実に説明しようとしても、理不尽な暴言と怒声が耳の奥を刺した。
あの瞬間の恐怖と屈辱、激しい心拍数の上昇――それがトラウマとなり、進の心を完全に折り砕いたのだった。
呼吸が浅くなり、冷や汗を流す進の枕元に、足音を忍ばせて妻の美智子が近づいてきた。
「進さん、大丈夫? 苦しいのね……」
美智子は優しく背中をさすりながら、メンタルクリニックで処方された頓服薬と水の入ったコップを差し出した。
「これ、飲んで。ゆっくり深呼吸してね」
進は頷き、差し出された薬を水で呑み込んだ。
美智子の温かい手に触れられているうちに、少しずつ荒い呼吸が落ち着き、薬効とともに心地よい強烈な眠気が全身を包み込んでいった。
(美智子……いつも、ありがとう……)
感謝の想いとともにまぶたを閉じると、進の意識は再び現実の重力を離れ、遥かなる古代の時空へと落ちていった――。
――風が、青く澄み渡った大和の空を吹き抜けていた。
耳に届くのは、小鳥のさえずりと、遠くで聞こえる木槌を打つ音。
ふと気がつくと、進は青々とした草が生い茂る丘の上に立っていた。
着ているのは、麻で織られた古代の服飾と革の帯。腰には小刀を差している。
(ここは……飛鳥……? 奈良か……?)
頭の中に、この世界での「自分」の記憶が怒涛のように流れ込んできた。
この時代での進の名は、伊崎進麻呂。
弱冠二十代前半の若き皇子――中大兄皇子に影のように従う、側近にして知恵袋の一人であった。
進麻呂(進)が眼下を見下ろすと、そこには巨大な宮殿の建設に励む民たちの姿と、その宮殿の主である蘇我氏の威容があった。
時に飛鳥時代。
朝廷の権力は、蘇我蝦夷・入鹿の親子によって完全に牛耳られていた。
彼らは自らの屋敷を「宮」と呼ばせ、我が子を「皇子」と呼ぶなど、もはや天皇をもしのぐ破格の権勢を誇っていた。
「……進麻呂。またあの屋敷を見下ろしているのか」
後ろから声をかけてきたのは、鋭い眼光と気品に満ちた顔立ちの青年であった。
彼こそが、後の天智天皇となる中大兄皇子だった。
中大兄皇子の表情には、若々しさの裏に、生死をかけた激しい鬱屈と強い緊張感がへばりついていた。
「入鹿のやり方は、もはや度を越している。古人大兄皇子を次の天皇に据えるためなら、どんな血を流すことも厭わん……。あの山背大兄王様の一族を襲い、斑鳩宮ごと自害に追い込んだ惨劇を、私は忘れることができぬ」
中大兄皇子は拳を固く握りしめ、歯噛みした。
「次は……私だ。蘇我に従わぬ皇族は、容赦なく消される。殺される前に、こちらが殺すしかないのだ……!」
中大兄皇子の言葉に、進麻呂は冷や汗を拭った。
聖徳太子の子である山背大兄王一族の滅亡という凄惨な事件を目撃し、中大兄皇子は「次は自分が狙われる」という強烈な危機感を抱いていた。
電話口で怒鳴られただけで心が折れてしまった現実の進とは対照的に、この飛鳥の青年皇子は、己の命と国の未来を懸けた極限の「暗殺と政治工作」の渦中に立っていた。
声を出せない進麻呂は、地面に木の枝で静かに文字を刻んだ。
『皇子、焦りは厳禁にございます。蘇我の目を盗み、同志を募らねばなりませぬ』
中大兄皇子は進麻呂の文字をじっと見つめると、深々と頷いた。
「分かっている、進麻呂。……だが、時がないのだ」
古代の青空の下、蘇我氏一強の絶対的支配を打ち破るための、血塗られた暗殺計画が静かに動き出そうとしていた――。




