第6章 世阿弥の正体
【明かされた秘密】
今出川殿へ向かう道中、雨上がりの湿った風が京の街を吹き抜けていた。
急ぎ足を強める座員たちの先頭を歩く、重厚な観阿弥の後姿。
その隣を歩く世阿弥が、そっと身を寄せ、進の目の前に一枚の紙を差し出した。
『進……お前にはまだ隠していたことがあった。動揺せずにお聞きなさい』
世阿弥の文字は、静かだがどこか哀切を帯びていた。
世阿弥は歩みを止めず、声を出さずに唇と目線だけで、進に衝撃的な真実を伝えた。
(……父上は、もうこの世の者ではないのだ)
進は息を呑み、思わず観阿弥の背中を見つめた。
観阿弥(観世三郎清次)は、すでに数年前に三河の地でこの世を去っていたのだ。
今、一座とともに歩み、暗殺計画を指揮していた観阿弥の姿は、息子の世阿弥が放つ凄絶な「幽玄」の執念と、天皇家を守らんとする強い念が生み出した、この世ならぬ幻影——生霊、あるいは霊魂であった。
(だから……あの時、毒香も毒粥も効かなかったんじゃない。父上がこの世の者ではないから、現世の毒の理が歪んでいたのだ……)
言葉を失う進に対し、観阿弥の幻影がそっと振り向き、温かい眼差しで優しく微笑みかけた。
その身からは、どこかこの世のものとは思えない特異な香が漂っていた。
今出川殿の奥深く、重苦しい薬の匂いと死臭が漂う寝所。
かつて天下を統べ、神になろうとした足利義満は、激しい熱と苦悶の中で床に伏していた。
その傍らに、世阿弥と観阿弥、そして進が静かに着座した。
「世阿弥……か。観阿弥も……おるのだな……」
焦燥と病魔に侵され、うわ言を漏らす義満の眼前に、世阿弥は静かに面をあてた。
演目は、かつて義満が最も愛した『自然居士』。
鼓の音が静寂を切り裂く。
世阿弥の舞は、まさに天上の舞であった。
そしてその隣で、姿なきはずの観阿弥が寄り添い、二人の舞は一体となって死の床の義満を包み込んでいった。
刃も、毒も、もはや不要であった。
能とは、生者と死者が交錯する「幽玄」の境界。
観阿弥というこの世ならぬ存在が舞う圧倒的な美と死の気配は、衰弱した義満の魂を、静かに、そして確実にあの世へと手招きしていった。
義満は恍惚とした表情を浮かべ、深く、最後の息を吐き出した。
舞を終え、古寺の楽屋へと帰りついて間もなくのことだった。
「ご報告いたします! たった今、今出川殿にて……将軍・足利義満公がご逝去されました!」
使い番の叫びが、静まり返った境内に響き渡った。
応永十五年五月六日。皇位簒奪の一歩手前まで上り詰めた絶対者は、ついに病死という形でその生涯を閉じたのだった。
悲報を聞いた観阿弥の威厳ある姿が、ゆっくりと振り返った。
「……そうか」
静かに呟いたその声は、風の音のようにかすかだった。
観阿弥の体が、足元からゆらゆらと透明に透け始めていく。
世阿弥は静かに涙を流し、深々と畳に平伏した。進も胸を突かれるような哀切に包まれ、去りゆく偉大な能楽師の姿を目に焼き付けようと見つめ続けた。
「世阿弥……能を、まことを頼むぞ……」
その言葉を残し、観阿弥の姿は光の粒子となってじわーっと空気の中に溶け込み、完全に消え去った。
あとには、観阿弥が纏っていたあのほのかな、優しくも寂しい香りのみが、密室の中に静かに立ちこめていた。
――ハッと息を呑んで、伊崎進は目を覚ました。
そこは、暗い自室の布団の上だった。
身体はまだ重く、適応障害の現実がそこにあったが、夢の中のあの凄絶な「幽玄」の余韻が、進の胸の奥底に確かな温もりを残していた。
(……第一夜・完)




