第8章 尊氏、朝敵になる
【鎌倉下向と箱根・竹ノ下の足音】
勅許を待たず、髪を切り落としたざん切り頭のまま、足利尊氏は京を飛び出した。
自暴自棄の狂気と、弟や我が子を救いたい一心に駆られた尊氏の東下——その背中を追うように、朝廷に裏切られ怒りに震える何万もの東国武士たちが怒濤のごとく集結した。
相模国へなだれ込んだ足利軍は、北条時行の軍勢をわずか数日で破り、鎌倉を奪還。
北条時行を駆逐し、弟・直義や我が子との再会を果たしたものの、尊氏の心は依然として深い闇の中にあった。
『足利尊氏、朝勅に背き勝手に東下す。朝敵と成す』
京の後醍醐天皇は激怒し、新田義貞を大将軍とする数万の官軍を「尊氏討伐」のために東海道へ送り込んだ。
【自暴自棄の葛藤】
建武2年12月、箱根の山中に風雪が吹き荒れていた。
足利軍と新田率いる官軍が対峙する**箱根・竹ノ下の戦いの直前、尊氏は鎌倉の浄光明寺に引きこもり、一歩も出ようとしなかった。
「進……。わしは戦わん」
寺の冷たい畳の上で、ざん切り頭を抱えて丸まる尊氏の声は悲痛であった。
「わしが立ち上がれば、帝の御旗を倒すことになる。わしは朝敵にはなりたくないのだ! 新田殿の軍がこの鎌倉へ攻め寄せたなら、わしは自ら首を差し出す。……わし一人死ねば、天下の戦は収まるのではないか!?」
「尊氏様っ!」
進は尊氏の胸元を掴み上げ、激しく揺さぶった。
「寝言をおっしゃりまするな! 貴方様を信じて鎌倉に集まった何万の武士はどうなるのです! 直義様は今まさに箱根の雪の中で、官軍の刃に晒されながら貴方様を待っておられますぞ! 貴方様が首を差し出せば、足利一門も、従った武士たちも皆殺しです!」
「……わかっている! わかっているが……手が動かんのだ……!」
尊氏はボロボロと涙を流し、己の拳で床を叩き続けた。
自らの意志で覇王になろうとしたのではない。ただ武士たちの期待と、弟への情と、後醍醐天皇の冷絶の挟み撃ちとなり、自暴自棄のまま修羅の戦場へ引きずり出されているのだ。
【箱根・竹ノ下の決戦】覚醒と破竹の勝利**
直義軍が箱根で苦戦を強いられ、壊滅寸前との報が届いたその時、尊氏はついに立ち上がった。
「……進。馬を引け」
涙を拭った尊氏の瞳に、禍々しいまでの覚醒の光が宿った。
「わしを『朝敵』と呼び、我が弟を殺そうとするならば……もはや容赦はせん。帝だろうと、新田だろうと、わしの前に立ちふさがる者はすべて薙ぎ払ってやる!」
尊氏が箱根・竹ノ下の戦場に姿を現した瞬間、足利軍の士気は天を突いた。
『足利武蔵守(尊氏)様のお出ましだ!』
『尊氏様のために命を捨てよ!』
雪煙が舞い散る激戦地。尊氏はみずから太刀を振るい、鬼神のごとき凄まじさで官軍の陣列へ突撃した。
尊氏の圧倒的なカリスマと猛攻の前に、新田義貞軍は総崩れとなり、大敗を喫して京へと散り散りに逃げ延びていった。
【武家政権への決意】
戦いが終わり、血と雪に染まった竹ノ下の陣において、尊氏は馬上で遠く西の空——京の方角を見つめていた。
「勝ってしまったな、進……」
尊氏の呟きは、勝利の歓喜ではなく、深淵の絶望を孕んでいた。
「わしはついに、朝廷の軍を打ち破った。……もう二度と、元の場所には戻れん」
傍らに駆け寄った弟・直義が歓喜の声を上げる。
『兄上! 今こそ京へ上り、我ら武士の手による新たな幕府を創るのです!』
尊氏は深く息を吐き出し、進の目をまっすぐに見つめた。
「進。わしは決めたぞ」
「……武家政権を、樹立されるのですか」
「そうだ。公家どもの気まぐれな政治に踏みにじられてきた武士たちのために、わしが新たな世を創る。……後醍醐帝がわしを朝敵と呼ぶならば、わしは新たな帝を立て、わしの手でこの国に『武士の都』を築いてみせる」
武士たちの歓声が山々にこだまする中、足利尊氏はついに「逆賊」の汚名を背負い、武家の覇王として京へ向けて進軍を開始した。
しかし、その先には九州への都落ち、湊川の戦い、そして楠木正成との凄惨な決戦という、更なる試練と血の歴史が待ち受けていたのである——。




