第7章 朝敵への道
第九夜:乱世の覇王と、散りゆく華(七)
【建武2年(1335年)8月】京・足利二条殿の緊迫
建武2年8月、東国からもたらされた報せは、京の朝廷と足利陣営に凄まじい衝撃を与えた。
滅びた北条高時の遺児・北条時行を旗頭とする北条の残党が信濃で蜂起。
圧倒的な破竹の勢いで東海道を駆け下り、鎌倉を守る尊氏の弟・足利直義を破って鎌倉を奪還したのである。
——中先代の乱の勃発であった。
「直義が鎌倉を追われ、鎌倉に残していたわが子・千寿王の身も危うい……!」
足利二条殿の奥間。尊氏は着物の胸元をかきはだけ、青ざめた顔で立ち尽くしていた。
鎌倉には、かつて命がけで北条の炎から逃れさせた妻・登子や子どもたち、そして足利の多くの家臣たちが取り残されていた。
「進! ただちに帝へ拝謁を賜り、わしに『征東将軍』の号を与え、出陣の許可をくださるよう願い出るのだ!」
【後醍醐天皇の冷絶と拒絶】
だが、内裏からの返答は、尊氏の僅かな希望を完膚なきまでに打ち砕くものであった。
後醍醐天皇と側近の公家たちは、時行の乱そのものよりも、尊氏が軍を率いて東国へ向かうことを恐れたのだ。
『足利尊氏が鎌倉へ下れば、そのまま関東の武士を束ねて朝廷に反旗を翻すのではないか』という深い疑心暗鬼である。
『征東将軍の号は与えぬ。尊氏の単独での関東下向は許さぬ。討伐軍の将には、成良親王(天皇の皇子)を充てる』
使者からその宣旨を聞かされた瞬間、尊氏は凍りついたように動かなくなった。
「……わが弟が殺されようとしているのだぞ。わが妻や子が、北条の残党に命を狙われているのだぞ……!」
尊氏の声が激しく震えた。
「武士の命を何とも思わぬばかりか、家族の危機に駆けつけることすら許さぬというのか……! 帝にとって、わしは……わしら足利は、それほどまでに信用できぬ敵なのか!?」
【絶縁と絶望】
その夜、二条殿の仏間。
ろうそくの灯火がゆらゆらと揺れる中、尊氏は仏前で膝を折り、呆然と壁を見つめていた。
「尊氏様……。勅許を待たずに鎌倉へ出陣なさるか、それとも朝廷の命に従い京にとどまるか……。直義様からは『一刻も早く東下されたし』と早馬が届いております」
進が痛切な面持ちで問いかけると、尊氏は力なく首を振った。
「進……。わしはもう、どうすればよいのか分からん」
尊氏の瞳から、ボロボロと大きな涙がこぼれ落ちた。
「出陣すれば、帝から『朝敵』の烙印を押される。出陣しなければ、弟や子、そして武士たちを見殺しにすることになる。……どちらを選んでも、わしの前には血の海と地獄しか残されていないのだ」
尊氏は突如、脇差を引き抜いた。
「尊氏様!? おやめください!」
進が咄嗟に飛びつこうとしたが、尊氏が向けたのは己の喉元ではなく、己の豊かな黒髪であった。
ジョキ……ジョキ……っ。
鋭い刃の音が静かな仏間に響き渡り、尊氏の束ねた髪が次々と床へと散り落ちていった。
「尊氏様……! なんということを……!」
「わしは頭を丸め、出家する」
ざん切り頭になり、涙と墨にまみれた顔で、尊氏は仏を見上げながら力なく呟いた。
「武士の棟梁などもはや嫌だ。帝と戦うのも嫌だ。……わしは仏門に入り、ただ静かに北条の死者たちの菩提を弔って暮らしたい。進……わしをこの修羅の世から解放してくれ……」
【自暴自棄の覚悟】
出家して浮世の義理と責任から逃れようとする尊氏。
優しすぎるゆえに自らを破壊し、絶望の深淵へと自ら沈んでいく主君の姿に進の胸は引き裂かれそうであった。
「……尊氏様。貴方様が髪を切ろうとも、時代は貴方様を放してはくれません」
散らばった黒髪を抱きしめながら、進は固く拳を握りしめた。
「帝が許さずとも、東国の武士たちは貴方様を待っております。……お逃げになってはなりません。たとえ朝敵と呼ばれようと、修羅の道を歩むことこそが、貴方様の宿命なのです」
髪を失い、生ける屍のようになった足利尊氏。
しかし、この後醍醐天皇の冷酷な拒絶と尊氏の絶望こそが、ついに足利軍を無断で鎌倉へ下向させ、朝廷との不可逆な全面戦争——「南北朝の動乱」へと突き進ませる引き金となったのだった——。




