第6章 建武の新政の闇
【建武の新政始まる】
鎌倉幕府が炎の中に消え去り、都には後醍醐天皇による新たな政治——「建武の新政」が眩いばかりの光とともに訪れたはずであった。
しかし、京の街に漂っていたのは、歓喜ではなく異様な混迷と冷ややかな失望であった。
足利二条殿の広い広間。
庭の若竹が青々と揺れる中、足利高氏は直衣姿で文机に向かっていた。
後醍醐天皇より「尊」の一字を賜り、名を尊氏と改めた彼は、鎮守府大将軍・参議という破格の位に就いていた。
だが、その顔には名誉を喜ぶ色など微塵もなく、痩せこけた頬と深いクマが、ただならぬ心労を物語っていた。
「尊氏様……。本日もまた、東国の武士たちが門前に押し寄せております。『恩賞方の決定に納得がいかぬ、足利様から帝へお口添えを』と、血判状を抱えて号泣する者もおります」
進が重い報告を告げると、尊氏は握っていた筆を力なく落とした。
墨が紙に黒々と滲んでいく。
【公家優遇と武士の落胆】
後醍醐天皇の目指す新政は、「醍醐・村上両帝の昔」への回帰——すなわち、公家を中心とした絶対的な天皇親政であった。
命を懸けて鎌倉を攻め落とし、血を流した武士たちに与えられた恩賞は驚くほど僅かなものであった。
それどころか、恩賞方は大混乱に陥り、討幕に何の功もなかった公家や、帝のお気に入りである寵妃・阿野廉子らに広大な領地が恩賞として与えられていた。
『恩賞は公家ばかり。命を捨てて戦った武士は捨て扶持か!』
『これでは、北条の得宗政治より酷いではないか!』
京の市中には『二条河原の落書』が貼り出され、新政の乱脈ぶりが嘲笑された。
諸国の武士たちの憤怒と失意は、やがて「武士の棟梁」である足利尊氏への烈しい期待と圧力となって集中していったのである。
「進……。わしは帝を尊奉し、朝廷のために北条を裏切った。だが、帝がご覧になっているのは『武士』の姿ではない。ただの使い捨ての刃物に過ぎぬのだ……」
尊氏は両手で額を叩き、深く呻いた。
【板挟みの狂気】
「わしはどうすればよい」
「尊氏様」
進は尊氏の前に進み出で、低い声で言った。
「武士たちの不満は限界です。『足利様が武家政権を再興し、我らの棟梁となってくださるなら、帝の公家政治など叩き潰す』と、弟の直義様のもとへも密使が引きも切らず訪れております。このままでは、武士たちが尊氏様を見限り、別の旗頭を立てて再び乱世へと突入いたしますぞ」
「言われるまでもない! 直義からも、毎日同じことを責め立てられている!」
尊氏は突然声を荒らげ、畳を激しく拳で叩いた。
「だがな、進! わしにどうしろと言うのだ!? 帝に背けば、わしは二度目の『逆賊』となる! 北条を裏切り、今度は帝を裏切れば、わしは天下に類のない朝敵・奸賊として未来永劫、歴史に汚名を晒すことになるのだぞ!」
尊氏の瞳に、再びあの錯乱に近い狂気が宿りはじめていた。
君主としての後醍醐天皇への「忠義」と、己を信じて命を託そうとする何万の武士たちへの「責任」。
その二つの巨大な板挟みとなり、尊氏の精神はメリメリと音を立てて引き裂かれそうになっていた。
「帝はわしを警戒しておられる。鎮守府大将軍という名ばかりの位を与え、京に留め置き、武士たちの信望を恐れておられるのだ……。わしが何をしても、誰も救われん!」
「尊氏様……」
「わしはもう疲れ果てた、進。……いっそのこと、すべてを捨てて僧となり、深山に隠れ住みたい……」
尊氏は泣き出しそうな顔で、力なく呟いた。
優しすぎるゆえに誰も傷つけたくない男・足利尊氏。
しかし彼が望むと望まざるとにかかわらず、歴史の巨大なうねりは、彼を「天皇に背く武家の覇王」としての修羅の道へと強引に引きずり込もうとしていたのである——。




