第3章 鎌倉幕府に反旗
【東海道・三河国矢作宿】
都へ向かう行軍の途上、三河の矢作宿(現在の愛知県岡崎市)で夜を迎えた足利軍の陣営は、異様な静けさに包まれていた。
篝火の爆ぜる音が重苦しく響く本陣の幕内。
足利高氏は甲冑を脱ぎ捨て、薄暗い行灯の灯りの下で畳に両肘をつき、深く頭を垂れていた。その前に座す進の手には、足利家から届いたばかりの訃報の書状が握られていた。
「高氏様……。鎌倉の父君・貞氏様が……ついに隠れあそばされました」
高氏は動かなかった。ただ、膝の上に乗せた拳が、皮膚が弾けそうなほど強く握りしめられた。
「……父上は、最期まで北条の顔色を窺い、足利の家を守るために命を削られたのだな」
【北条家からの屈辱と人質】
父・貞氏の危篤の報が届いた際、高氏は幕府に病気全快まで出陣の猶予を乞うていた。
だが、得宗・北条高時や内管領・長崎高資らの返答は凄惨を極める冷酷なものであった。
『足利が病を理由に出陣を渋るは、反逆の兆しか。ただちに西国へ立ち出でよ。さもなくば、鎌倉に残る嫡男・千寿王(後の義詮)の命はないものと思え』
喪に服することすら許されず、我が子を人質に取られたまま、北条の捨て駒として出陣を強制されたのだ。
「父の葬礼にすら立ち会えぬか……。これほどまでに足利を蔑み、怯え、狗のように扱うか、北条は……!」
高氏の口から、漏れ出たのは血を吐くような呻き声であった。
「高氏様、北条の暴虐はもはや限界を超えております」
進は身を乗り出し、声を潜めて肉薄した。
「得宗家は足利の名望を恐れるあまり、高氏様を戦場で死なせる気です。このまま六波羅探題の軍に合流して帝の軍を討てば、足利は源氏の誇りを完全に失い、北条の手先として歴史に恥を晒すことになりますぞ!」
【密謀の夜】
高氏はゆっくりと顔を上げた。
その瞳から、これまで彼を苛んでいた「迷い」や「優しさ」が跡形もなく消え失せ、底知れぬ凄絶な決意の光が宿っていた。
「進……。お前の言う通りだ」
高氏は行灯の火に手元の書状をかざした。
紙が赤々と燃え上がり、一筋の黒煙となって天井へ消えていく。
「わしはこれまで、正室である登子への情、義兄・守時殿への義理、そして足利の家を守るために北条に従順を装ってきた。……だが、奴らはわしの優しさを踏みにじり、我が子を人質に取り、父の死すら侮辱した」
高氏は腰の太刀を引き抜き、三尺の刀身を行灯の光に照らした。
「もはや猶予はない。京へ入ったならば……わしは六波羅探題を攻め滅ぼす」
「高氏様……! ついに、討幕の旗を挙げられるのですか!」
進が目を見開くと、高氏は深く頷いた。
「そうだ。後醍醐帝より密勅はすでに届いている。わしが京の六波羅を叩き潰せば、東国でも新田義貞らが起ち上がり、鎌倉の北条は一溜まりもなく倒れるはずだ。……わしは、北条に引導を渡す『悪魔』となる」
【葛藤の果ての暗雲】
しかし、その決意の口調とは裏腹に、高氏の胸の奥には深い暗雲が立ち込めていた。
(だが……わしが六波羅を滅ぼせば、鎌倉にいる登子はどうなる? 義兄の守時殿は……わしを『裏切り者』と呪いながら死んでいくのではないか……?)
「進。わしは……血で塗られた乱世の扉を開けてしまうのだな」
「高氏様。それは貴方様だけに課せられた、源氏の棟梁としての『業』にございます。私めが、どこまでもお供いたします」
「……ありがとう、進」
高氏は静かに太刀を鞘へと納めた。
三河の夜風が陣幕を激しく揺らし、篝火の火の粉が暗闇の中へと舞い散っていく。
足利高氏という男が、ついに鎌倉幕府百五十年の歴史を切り裂く「反逆の覇王」として覚醒した瞬間であった——。




