第2章 高氏の出陣
【鎌倉・幕府出陣の前夜】
京において、隠岐を脱出した後醍醐天皇が再び挙兵の狼煙を上げた。
それに呼応するように、河内の山中で一人の異端の武者——楠木正成が蜂起し、赤坂城、千早城を舞台に圧倒的な幕府の大軍を翻弄し続けていた。
鎌倉幕府の得宗家は、西国の反乱を鎮圧するため、ついに東国の御家人たちを総動員する決定を下す。
その西国派遣軍の総大将の一人に選ばれたのが、足利家当主・足利高氏であった。
鎌倉館の一室。
鎧櫃の前に座す高氏は、重く冷たい漆黒の腹巻鎧を見つめながら、深いため息をついた。
「進……。幕府からの命は絶対だ。……だが、京へ向かい、討つべき相手はあの帝、そして楠木正成のような『朝廷と結ぶ者たち』ではない」
高氏の声音には、逃れられない運命の鎖に縛られた者の深い絶望が滲んでいた。
【破滅的な心理】
「なぜわしが、朝敵を討たねばならぬのか」
「高氏様、お心を強くお持ちくだされ」
進は鎧の紐を結びながら、主君の震える肩に触れた。
「幕府の命に背けば、足利一門皆殺しは免れません。北条一族は今や疑心暗鬼に囚われております。出陣の拒絶は、即ち反逆とみなされますぞ」
「分かっておる……分かっておるのだ!」
高氏は頭を抱え、床板に突っ伏した。その両手は自分の髪をかきむしり、激しく震えていた。
「わしは北条の犬として、源氏の血を引く者たちを、帝のために命を懸けて戦う者たちを、自らの手で屠らねばならぬのか……! なぜだ。なぜ足利が、北条のために同じ武士の血を流さねばならぬのだ!」
高氏の脳裏には、正室・登子の優しい笑顔が浮かんでいた。
北条一族の血を引く妻を愛すれば愛するほど、幕府という巨大なシステムが足利家を圧殺しようとする矛盾が、高氏の精神を狂気へと追い詰めていた。
「もし京に上り、帝の御旗を目の当たりにした時……わしはこの刀をどちらに向けたらよいのか、進、お前には分かるか?」
高氏のその問いは、単なる弱音ではなかった。
それは、すでに破滅へと傾き始めた鎌倉幕府の命運を断ち切り、自らの意志で全く別の歴史の扉を開いてしまうかもしれない、恐ろしい「決断の予感」そのものであった。
【京へ向けての出陣】
元弘3年(1333年)3月下旬。
足利高氏は、苦悩と絶望をその胸の奥底に押し込め、鎌倉を出発した。
沿道で見送る民や御家人たちの目は冷ややかだった。
彼らは「また北条の手先として、足利が使い捨てにされるのだ」と囁き合っていた。
だが、その行軍の先にあるのは、幕府の勝利でも、足利の忠義でもなかった。
——京の都。後醍醐天皇の密使、そして運命の男・新田義貞との邂逅が、高氏の心の底にくすぶっていた「反逆の炎」を激しく煽り立てることになるのを、高氏はまだ知る由もなかった。
「進……。行くぞ。わしらの進む先に、一体何が待っているのか……」
重い足取りで馬に跨がり、西へと向かう高氏の背中は、まるで自らの葬儀に向かう罪人のように、痛々しく孤独に濡れていた。




