第1章 揺れる北条一族への思い
【鎌倉・足利館】
湿り気を帯びた相模湾からの潮風が、鎌倉の街並みを撫でて吹き抜けていた。
進が目を覚ますと、そこは重厚な木組みと矢の匂いが漂う、武家館の一室であった。
己の姿を見下ろすと、直垂を纏い、腰には研ぎ澄まされた太刀を差した鎌倉御家人の装いとなっていた。
目の前には、太刀の手入れをしながら庭の青葉をじっと見つめる一人の若き武将がいた。
名門・足利家の当主、足利高氏(たかうじ・後の尊氏)である。
その顔立ちは気品に満ち、瞳には人を包み込むような不思議な温もりと優しさが宿っていた。
だが、その深く澄んだ瞳の奥底には、いまや鎌倉を覆いつくそうとしている黒い暗雲への、言いようのない不安と葛藤が影を落としていた。
「進……。また東勝寺の方角で、得宗(北条本家)の手先どもが無理な取り立てを行ったと聞く。御家人たちの怨嗟の声は、もはや抑えきれぬところまで来ておるな」
高氏は静かに目ぬきを改めながら、掠れた声で呟いた。
【名門の矜持と、北条一族の婚姻】
進の脳裏に、この時代の記憶が激しく流れ込んできた。
進は足利家に代々仕える側近であり、高氏が幼少の頃からその苦悩と成長を一番近くで見守ってきた男であった。
足利家は、源義家(八幡太郎)の血を引く清和源氏の嫡流であり、東国武士たちの間では絶大な名望を誇る名門中の名門である。
しかし、現在の鎌倉幕府を牛耳っているのは、得宗家を中心とする北条一族であった。
執権・北条高時の母方の伯父にあたる赤橋守時(北条守時)の妹——赤橋登子が高氏の正室として嫁いできたのは、つい先頃のことである。
「登子は心優しき女子だ。北条の家に生まれながら、常に足利の家とわしの身を案じてくれておる……。だがな、進」
高氏は刀を鞘へと納めると、膝を突き合わせて座る進の目をまっすぐに見つめた。
「わしが登子を慈しめば慈しむほど、わが足利の血と、北条への義理の間で胸が引き裂かれそうになるのだ」
【御家人たちの不満と、深まる葛藤】
「一族の婚姻は、得宗家による足利への懐柔と監視にほかなりません」
進は低く、抑えた声で応えた。
「高氏様……。蒙古襲来以来、幕府は御家人たちへ十分な恩賞を与えられず、内管領(北条家の執事)の長崎円喜・高資父子が権力を貪っております。諸国の御家人たちの不満は限界に達しておりますぞ。『足利様こそが源氏の棟梁として立ち上がるべきだ』と、密かに血判状を寄せてくる者も後を絶ちません」
高氏は苦しげに顔を歪め、ぎゅっと両拳を握りしめた。
「分かっておる! 北条のやり方が限界に来ていることなど、わしが一番よく分かっておるのだ!」
高氏の叫びは、静かな館の部屋に重く響いた。
「だがな、進……。わしが立ち上がれば、それは義兄である守時殿を裏切り、妻である登子の実家を滅ぼすことを意味する。足利の誇りを貫けば北条への義理を破り、北条に従い続ければ東国武士たちの信頼を失って足利は滅びる……。わしはどうすればよいのだ!?」
優しすぎるゆえに迷い、源氏の血脈という重責に押し潰されそうになる高氏。
大久保利通のような冷徹な決断力とは真逆の、あまりにも人間的で繊細な武将の苦悩が進の胸に痛く刺さった。
「高氏様……。時代は、否応なく貴方様を『時代の中心』へと押し上げようとしております」
「……ああ。わかっている。わしのこの迷いと優しさが、やがてこの日の本を未曾有の乱世へと巻き込んでいくのだな……」
高氏はぽつりと呟き、遠く鎌倉の空を見上げた。
三方を山に囲まれた天然の要塞・鎌倉。
その百五十年の歴史が、いま激しい音を立てて崩壊しようとしているのを、二人は肌で感じていたのだった——。




