第8章 西郷星
【東京・赤坂の内務卿邸】
西南戦争が終結した秋、東京の夜空には不気味なほど赤く眩い火星が急速に地球へと接近していた。
庶民の間では、その妖しく輝く赤星を「西郷星」と呼び、その傍らに揺らめく小さな光を「桐野星」と噂した。
城山で自刃した西郷隆盛と、最期まで死闘を繰り広げた桐野利秋の魂が星となり、自分たちを追い詰めた明治政府を天から睨みつけているのだと——。
赤坂の大久保邸。
庭に面した濡れ縁に、大久保利通が静かに佇んでいた。
その手には冷めきった茶器が握られ、落ち窪んだ瞳は夜空に浮かぶ赤い巨星をじっと見つめていた。
傍らに控える進が、静寂を破るようにそっと声をかけた。
「……一蔵さあ。夜風が冷え込んできました。お身体に障ります、中へお入りください」
大久保は動かない。ただ、その長い影が月光に引かれ、まるで漆黒の棺のように庭石へ伸びていた。
「……進。街では何と言っておる」
低く、掠れた声であった。
「……西郷星、にございます。吉之助様と桐野様が星となり、天下の不平を映しているのだと、市井の者たちが噂しております」
「そうか。吉之助さあが……星になったか」
大久保は自嘲気味に、短く吐き捨てるように笑った。
「天下の民は吉之助さあを愛し、神と崇め、わしを冷血の悪魔と呪う。城山で死んだ吉之助さあは綺麗な英雄となり、生き残ったわしは泥をかぶって死ぬまでこの国の怨嗟を背負い続ける……。実によくできた話ではないか」
【「鬼」となった男の孤独】
「一蔵さあ……!」
進は堪えきれず、大久保の正面へと立ち塞がった。
「なぜそのようにご自分を責め立てるのです! 貴方が吉之助様を討ちたくて討ったのではないことなど、おいが一番よく知っております! 閣議で吉之助様の訃報を聞いた時、人目をはばからず号泣されたのは誰ですか! 自室に閉じこもり、吉之助様の手紙を抱いて泣き叫ばれたのは誰ですか!!」
進の叫びにも、大久保の表情は能面のように動かなかった。ただ、握りしめた茶器の手がギチギチと音を立てて震えていた。
「黙れ、進」
「黙りません! 街の者どもは何も分かっていない! 殖産興業も、富国強兵も、欧米列強の脅威からこの日本を守るために、貴方がたった一人で悪名を被って進めているのではないですか! なぜそれを……『わしは悪魔だ』などとおっしゃるのです!」
大久保はゆっくりと顔を上げた。その瞳の奥には、底知れぬ漆黒の闇と、痛切なまでの絶望が揺らめいていた。
「……なら、問うがな、進」
大久保の声が重く響く。
「吉之助さあを殺し、桐野を殺し、薩摩の数万の若者を血の海に沈めてまで創り上げたこの『明治』に、どれほどの価値がある? 武士の誇りを奪い、ただ欧米の真似事をして富を追うこの国が、本当に吉之助さあの命と引き換えにするに値するのか?」
「それは……」
「わしには分からんのだ!」
大久保が怒号を上げた。あの冷静沈着な内務卿が、初めて魂を削り取るように声を荒らげた。
「吉之助さあは、わしの心そのものだった。あの男の器量、あの男の慈愛が届かぬ場所を、わしの冷徹な理屈と暴力で埋めてきたのだ! 西郷隆盛という太陽を失ったわしは、ただの影だ。機械のように国を動かすだけの、冷たい屍に過ぎん!」
大久保は夜空の「西郷星」と、その横で控えめに光る「桐野星」を指さした。
「見よ。吉之助さあも、桐野も、わしを睨んでいる。……いや、笑っているのだ。『一蔵さあ、おまん一人でどこまで行けるか見ものじゃ』とな」
【死を待つ覚悟】
進は大久保の足元にひざまずき、涙を流した。
「一蔵さあ……。吉之助様は、貴方を恨んでなどいません。吉之助様はご自身の運命を受け入れ、貴方にこの国の未来を託して去られたのです……」
大久保は静かに視線を落とし、ひざまずく進の肩にそっと手を置いた。その手の冷たさと、微かな温もりが進の肌に伝わった。
「……進。わしの仕事は、もう長くは続かん」
大久保の声は、再び静寂を取り戻していた。
「吉之助さあが星になり、桐野が追いかけ、天下の士族たちの憎悪がこの赤坂の屋敷に集まっている。……わしが殺されることで、この維新の乱世は終わるのだ」
「一蔵さあ……!」
「泣くな。わしは倒れるその瞬間まで、内務卿としての責務を果たす。この国が二度と内乱で滅びぬよう、盤石の基礎を遺す。……それが、わしから吉之助さあへの、たった一つの手向けだ」
夜空に輝く西郷星の赤き光が、大久保利通の横顔を妖しく照らし出していた。
死を目前にした絶対の孤独。己の命を薪として燃やし尽くし、近代日本の礎となろうとする男の決意が、静かに、そして凄惨に深まっていったのだった。




