第3章 長州藩との駆け引き
【京都・薩摩藩邸】
寒風が京の街を吹き抜ける冬の夜。
薩摩藩邸の最も奥まった一室には、異様な静寂と、息を詰まらせるような緊張感が満ちていた。
床の間の前に座すのは、長州藩の指導者・木戸孝允(桂小五郎)。
その面容には、第一次長州征伐で幕府と薩摩に打ちのめされ、賊軍の汚名を着せられた深い屈辱と、不信の影が刻まれていた。
対するは、薩摩藩の軍賦役・西郷吉之助(隆盛)。
そして、その傍らで一言も発せず、腕を組んで目を閉じている大久保一蔵(利通)であった。
両者を結びつけるべく奔走した坂本龍馬が、額に汗を浮かべながら声を張り上げる。
「桂さん、西郷さん! このまま薩摩と長州が争うていては、幕府の思うツボぜよ! 今こそ手を結び、日ノ本を生まれ変わらせる時じゃ!」
【屈辱の沈黙と、暗躍する冷徹】
しかし、談判は数日間にわたり難航を極めていた。
長州としては、かつて八月十八日の政変や禁門の変、そして寺田屋事件を経て長州を追いつめた薩摩に対し、自ら「同盟を結んでくれ」と乞うことは武士の面目にかけてできなかった。
「おい達から『同盟を』とは言えん。長州の誇りがそれを許さん……!」
木戸の瞳に滲む涙と憤怒。西郷はその情にほだされ、申し訳なさそうに頭を下げようとした。
その瞬間、大久保の冷ややかな視線が西郷を射抜いた。
大久保は言葉を出さず、ただ静かに扇子で己の膝を叩いて制した。
(吉之助さあ、情に流されるな。薩摩が頭を下げる必要はない。長州の喉から手が出るほど欲しい『武器』と『糧食』を握っているのは、おい達なのだからな)
大久保の手元には、イギリスの商人グラバーを経由して買い取った最新式のミニエー銃やゲベール銃、最新鋭の蒸気船の購入ルートが握られていた。
幕府の長州再征(第二次長州征伐)が目前に迫る中、武器の輸入を絶たれた長州は、薩摩の名義で武器を購入しなければ全滅を免れない。大久保はその「死に体」の足元を完全に見切っていた。
【真夜中の対峙】
談判が一時中断した深夜、別室へ下がった大久保のもとへ、冷えたお茶を運んだ進が近づいた。
「……一蔵さあ。木戸様の無念も無理はありません。薩摩がほんの少し頭を下げ、歩み寄れば、同盟は今すぐにでも成立するのではございませんか? 吉之助さあも胸を痛めておられます」
進が問いかけると、大久保は短く燭台の火を吹き消しかけ、暗がりの中で静かに進を振り返った。
「進。お前はまだ『武士の情け』で政治を見ているな」
大久保の声は、底冷えする真冬の井戸水のように冷たかった。
「おいが欲しいのは、薩摩と長州の『仲良しごっこ』ではない。幕府という巨大な化け物を解体するための、完璧な『破滅の機構』だ」
大久保は立ち上がり、窓の外の暗闇を見つめた。
「ここで薩摩が乞うて同盟を結べば、主導権は長州に渡る。長州に貸しを作り、長州を極限まで追い詰めさせた上で『薩摩の名義で武器を買い、薩摩が裏で長州を全面支援する』という密約に持ち込む。そうして初めて、長州は幕府軍を返り討ちにし、幕府の権威は完全に失墜するのだ」
「……そのために、木戸様や長州の自尊心をそこまで踏みみにじるのですか」
「自尊心で国が救えるなら、いくらでも踏みつけにしてやる」
大久保の瞳には、かつて郷中で西郷と笑い合っていた優しさの欠片も残っていなかった。
「長州の血と薩摩の牙、そして龍馬のような捨て駒を破滅の歯車として組み上げる。……幕府を倒すためなら、おい自身が陰険な泥をかぶるくらい、何とも思わん」
【薩長同盟の結実と、倒幕への決断】
慶応2年1月21日。
龍馬の決死の仲介と、大久保の冷徹な計算通り、六箇条からなる「薩長同盟(薩長誓約)」が密かに締結された。
長州は薩摩の名義で最新式小銃二千挺と艦船を購入し、幕府の討伐軍を迎え撃つ絶対の力を得た。
そして薩摩は、表面上は幕府に従いながら、裏では長州を全面的に支え、幕府を背後から突き崩す「二重の罠」を完成させたのだ。
同盟が成立した夜、龍馬は「これで日ノ本は助かった!」と大酒を煽って歓喜し、西郷も安堵の笑みを浮かべていた。
しかし、一人部屋の隅で書状に判を押していた大久保利通の顔には、一切の笑みがなかった。
「……これより、徳川三百年を終わらせる。血の海になるぞ」
大久保の呟きは、誰の耳にも届かない低さであったが、傍らに立つ進の耳には、それが討幕という名の未曾有の惨劇の始まりを告げる、地獄の鐘の音のように響いていたのだった——。




