第2章 利通、鬼と化す
【京都・伏見「寺田屋」の夜】
降りしきる春の雨が、京の街道を黒く濡らしていた。
かつて桜島の麓で、芋を分け合いながら「日ノ本を変えよう」と夢を語り合った若者たちの熱気は、いまや凄惨な狂気と政治の冷徹な計算へと姿を変えていた。
進は、薩摩藩国父・島津久光の本陣が置かれた京都・藩邸の暗がりに立っていた。
彼の目の前に佇む大久保一蔵(利通)の顔には、もはや郷中時代の素朴な青年の面影はなかった。
薄暗い灯火に照らし出されたその輪郭は、まるで能面のように冷たく引き締まり、隙のない威厳と殺気を漂わせている。
「……一蔵さあ。本当に……過激派の同志たちを斬る気ですか」
進の声が震えた。
寺田屋に集結しているのは、かつて大久保や西郷とともに「精忠组」を結成し、生死を共にすると誓い合った有馬新七らの同志であった。
彼らは朝廷や幕府のぬるま湯のような態度に業を煮やし、今すぐ挙兵して尊王攘夷の挙に出ようと煮えたぎっていた。
だが、大久保の手には、冷たい決意が握られていた。
「進。感情で天下は動かん」
大久保の声には、微塵の迷いもなかった。
「久光公の率兵上洛は、朝廷と幕府を強固に結びつけ(公武合体)、薩摩が天下の主導権を握る千載一遇の機だ。ここで暴走する過激派が勝手な挙兵を行えば、薩摩は朝廷から『朝敵』の烙印を押され、おいたちの悲願はすべて泡と消える」
【血の決断…同志殺しという「業」】
大久保は、自らの手で選抜した薩摩藩屈指の剣豪たち——道島五郎兵衛、奈良原喜八郎らを寺田屋へと派兵した。
目的は「説得」、聞き入れぬ場合は「上意討ち」——すなわち鎮圧であった。
「……有馬たちを説得するなど無理なことは、おいが一番よく分かっている」
大久保は静かに黒い羽織の袖を整えながら、吐き捨てるように呟いた。
「だが、ここで彼らを斬らねば、薩摩の政治的信用は地に落ちる。……天下を変えるという大義の前には、一個人の情など、捨て去らねばならんのだ」
進は大久保の横顔を見つめながら、背筋が凍りつくのを感じていた。
かつて父の流罪に泣き、西郷の温情に救われた男が、いまや「国家の主導権」という巨大な目的のために、己の愛する仲間を生贄として差し出そうとしている。
【悲劇の寺田屋…乱闘と凄惨な最後】
夜九ツ(午後10時頃)、伏見・寺田屋の二階で凄惨な刃傷沙汰が巻き起こった。
『上意! 帰藩せよ!』
『断る! 我らは国のために倒れる覚悟!』
叫び声とともに、薩摩示現流の鋭いチェストの掛け声と、骨を断ち切る鈍い音が雨音を突いて響き渡る。
有馬新七は相手の刺客を壁に押しつけ、『おいごと刺せ!』と叫んで刺殺された。
畳は血の海と化し、精忠組の志士9名が命を落とし、残る者たちも捕縛・謹慎へと追い込まれた。
報告が本陣へ届いた時、大久保は一瞬だけ目を閉じ、深く息を吐き出した。
しかし、涙の一滴すら流さなかった。
「……これで、久光公の朝廷に対する信用は盤石となった。薩摩が……天下を動かす足がかりができた」
【冷徹なる政治家への変貌】
大久保はこの寺田屋事件を経て、一人の「熱血の志士」から、手段を選ばぬ「冷酷なる政治家」へと脱皮を遂げた。
情に流され、正義感だけで暴走すれば、自分も仲間も、そして国そのものも破滅する。
目的を達成するためならば、たとえ「同志殺し」の汚名を着ようと、悪魔に魂を売ろうと、冷徹に刀を振るわねばならない——その哀しくも禍々しい覚悟が大久保の胸に刻み込まれたのだった。
「進。わしを冷血と罵りたければ罵れ」
暗い部屋で、大久保は冷めきった茶を一口啜り、進を直視した。
「わしはこれから、もっと多くの血を流すことになる。……明治という新しい国を創り上げるまで、わしの心が血で塗られようとも、歩みを止めることは絶対にせん」
その瞳に宿っていたのは、かつて桜島を見上げていた青年の光ではなく、国家という巨大な怪物に身を捧げた男の、孤高で恐ろしい「狂気」であった——。




