第1章 薩摩の二人
【薩摩国・鹿児島城下】
進が目を覚ますと、そこは力強い潮の匂いと、時折響く桜島の地鳴りに震える木造の郷士屋敷であった。
己の身なりを見下ろすと、筒袖の着物に木綿の小袴を穿き、腰には実用本位の太刀を差した薩摩藩士の姿となっていた。
彼の目の前には、まだ何者でもない二人の若い薩摩藩士が、あぐらをかいて語り合っていた。
一人は、大きな眼光にぬくもりと圧倒的な包容力を宿した男——西郷吉之助(隆盛)。
そしてもう一人は、整った眉筋の奥に剃刀のような鋭い知性を秘め、静かに茶を啜る男——大久保正助(利通)であった。
「吉之助さあ、また『近思録』の解釈で郷中の若者が議論を戦わせておりますぞ。おい(私)としては、ただ議論を戦わせるだけでなく、現政の不備にどう切り込むかまで考えねば意味がないと思うのだが」
「ハハハ、一蔵(利通の通称・正助)さあは相変わらず固いことばかり言いもすな。じゃが、その冷静さがあってこそのおいと一蔵さあじゃ。なぁ、進?」
西郷が朗らかに笑いながら進の肩を叩く。
その大きな手の温もりと力強さは、この男が持つ底知れない人徳を物語っていた。
【精忠組の絆】
進の頭の中に、この時代の記憶が深く流れ込んでいった。
進は薩摩藩の下級武士(郷士)の家に生まれ、幼少期から大久保利通や西郷隆盛とともに「郷中教育」で心身を鍛え上げてきた幼馴染であり、もっとも親しい側近の一人であった。
当時の薩摩藩は、お家騒動(お由羅騒動)の激しい嵐の中にあった。
大久保の父が罰せられて流罪となり、大久保自身も謹慎処分を受けるなど、不遇と貧困の底にあえいでいた。
だが、そんな極貧の生活の中でも、西郷は大久保の家を足繁く訪れ、自家のご飯を分け与え、ともに語り合い、互いの支えとなっていた。
「おい達薩摩の下級武士が指をくわえて待っていても、この国も藩も変わりはせん。吉之助さあ、おまんの情熱とおいの一文の得にもならぬような理屈を合わせ、この暗雲を切り開くのだ」
「応とも! おいと一蔵さあ、そして進が一つになれば、成し遂げられんことなど何一つない!」
志を同じくする若き薩摩藩士たちが結成した「精忠組」。
その中心にいたのは、間違いなく熱血と慈愛の西郷と、冷徹なまでの先見性と実行力を秘めた大久保の二人であった。
二人はまさに「車の両輪」であり、互いの欠けた部分を補い合う、絶対の絆で結ばれていた。
【時代を動かす双璧】
甲突川のせせらぎを聞きながら、三人は貧しい芋を分け合い、夜更けまで日本の未来を語り明かした。
西郷の「人を惹きつける磁力」と、大久保の「現実を見据える冷徹な構想力」。
この二つの才能が重なり合った時、三百年続いた徳川幕府の歴史が崩壊し、新しい日本——「明治」という激動の時代が拓かれていくことを、当時の若き彼らはまだ知る由もなかった。
「進、見ておれよ。おい達の手で、必ずや薩摩を、いや日ノ本をひっくり返してみせる」
大久保は静かにそう呟き、黒々とした桜島の煙を見据えた。
その瞳には、やがて来る明治維新という未曾有の変革を推し進め、そしてその果てに訪れる「親友との凄惨な別れ」という残酷な未来など、微塵も映っていなかった——。




