第3章 密命失敗
【毒香の残り香】
香炉から立ち上る薄紫の煙が、舞台を優美に包み込んでいた。
遅効性の毒を含んだ沈香の香りが、今出川殿の高座へ向けて静かに漂っていく。
観阿弥の重厚な舞と、世阿弥の息をのむほど美しい舞。
皆が惹き込まれる幽玄の世界。
そこで、恐るべく密命が果たされようとしていた。
煙は静かに充満している。
あとは、高座の足利義満がその毒香を深く吸い込むだけであった。
しかし――天の戯れか、絶対者の運命か。
「……うむ。しばし待て」
舞が佳境に入ろうとしたその時、高座の義満がふと酒杯を置き、立ち上がった。
豪快に煽った酒のせいで厠に行きたくなった義満は、供の者を連れてあっさりと席を外してしまったのだ。
風が流れ、毒香は虚しく空へと散っていく。
面の裏で、観阿弥と世阿弥は静かに息を吐き捨てた。
徹底された警備の隙を突き、ようやく仕掛けた千載一遇の好機は、あまりにもあっけない生理現象によって潰え去った。
二人は動揺を一切顔に出さず、ただ静かに次の機を窺うしかなかった。
謀は失敗した。
用意周到な計画だったはずだ。
しかし、義満公は難を逃れた。
(権力者は、「持っている」のかもしれない)
進は、そう思わざるを得なかった。
それから数日後の深夜。
観世座が身を寄せる京の古寺の密室に、忍びの足取りで一人の男が訪れた。
顔を深く頭巾で覆ったその男は、朝廷からの密使であった。
「……観阿弥殿、世阿弥殿。もはや一刻の猶予もないぞ」
密使の声は、激しい恐怖と焦燥に震えていた。
将軍・足利義満の政治的野心は、いまや一線を完全に越えようとしていたからだ。
「義満公の企みは、もはや武家の棟梁の域を超えている。武士でありながら『太上天皇(上皇)』の称号を画策し、次男の義嗣様を親王同様に扱って皇位に就けようとしているのだ。さらには明の皇帝から『日本国王』に冊封され、天皇家すら下に見下そうとしている……! このままでは千年の歴史を持つ天皇家が途絶え、足利の血に塗り替えられてしまう!」
朝廷や反義満派にとって、義満の「皇位簒奪」は目前に迫った国家存亡の危機であった。
義満を排除しなければ、日本の王権そのものが崩壊する。
「今度こそ、確実に義満を討ち取ってもらいたい。朝廷の、いや、日本の未来がそなたたちの手に懸かっているのだ……!」
密使の切実な訴えに、観阿弥と世阿弥は重く頷いた。
「承知いたしました。能とは『まこと』を示すもの。天皇家を脅かす威権の亡者に、真の終焉を見せましょう」
二人は再び、完璧な暗殺計画の再構築へと動き出した。
今度は逃げ場のない、絶対に確実に死に至らしめる毒殺の手法を練り上げるために。
この密使との密会が幕府の目付や義満の密偵に知られれば、その瞬間に観世座は打ち首、一族郎党処刑である。
「進。表で見張りをせよ。何者たりともこのお堂に近づけるな」
世阿弥に命じられ、進は静まり返った境内の闇の中に一人立った。
声が出ず、叫んで異変を知らせることもできない進に課されたのは、全身の感覚を研ぎ澄ませて夜の静寂を見張る「寝ずの番」であった。
適応障害で横たわっていた現実の身体とは裏腹に、夢の中の進の神経は、命のやり取りという極限の緊張感によって針のように尖っていた。
(もし……誰かが来たら……俺はどうやって二人を守ればいいんだ……?)
竹林を揺らす夜風の音、草木が擦れ合うかすかな響きすらも、暗殺者の襲撃に思えて冷や汗が吹き出す。
日本史の裏に隠された「皇位簒奪の阻止」という壮大な陰謀の歯車として、声なき資格試験予備校講師・伊崎進の長い長い暗闇の夜が、静かに更けていった――。




