第2章 権力者の威光
【幽玄の仮面、毒香の舞】
今出川殿の能舞台を囲む庭園には、極限の緊張感が漂っていた。
高座に君臨する足利義満――。
彼は武家最高の権力者である征夷大将軍にとどまらず、公家社会をも圧倒し、更には仏教界の頂点をも手中に収めつつある「日本の絶対者」であった。
長年続いた南北朝の分裂を終わらせ、天下統一を成し遂げた英主。
しかしその合一の実態は、南朝側を言いくるめて神器を奪い取った半ば「騙し打ち」に等しいものであった。
ゆえに、義満を恨む者は数知れない。
南朝の残党、権力を奪われた有力守護大名、追いやられた僧侶たち――。
義満自身、その恨みの深さを誰よりも自覚していた。
彼の身辺警備は狂気的とも言えるほど苛烈を極めていた。
立ち並ぶ警護の武士たちは一分の隙もなく目を光らせ、膳が出されれば三人の毒見役が別々の刻限に味を確かめる。
義満の喉元に刃を届かせることも、その口に毒を盛ることも、いかなる暗殺者にとっても絶対不可能な「至難の業」であった。
だが――神のごとき絶対者・足利義満にも、たった一つだけ「隙」が存在した。
それが、能楽(猿楽)への狂信的な愛好であった。
義満は幼少期に見た観阿弥の舞に深く魅了されて以来、観世座を異常なまでに重用していた。
殊に、美貌と天賦の才を兼ね備えた若き世阿弥に対しては、特別な寵愛を注ぎ込んでいる。
無骨な武将や猜疑心に満ちた臣下を遠ざけ、唯一、義満がその警戒の鎧を脱ぎ捨て、素顔を晒して無防備になる瞬間――それこそが、観世座の舞を鑑賞している「幽玄の時間」であった。
「……いよいよだな」
舞台袖の影で、世阿弥が低く呟いた。
その美しい横顔には、義満の前で見せる寵愛された能楽師の面影はなく、冷徹な暗殺者の眼光だけが宿っていた。
観阿弥がゆっくりと頷き、腰に差した小道具の文箱にそっと手を触れる。
その中には、先ほど精調された遅効性の「毒香」が仕込まれている。
義満の徹底された毒見システムも、口に入れない「空気(香)」からの毒殺には対応できない。
能舞台という至高の密室で、義満が舞に見とれて深く息を吸い込んだ瞬間こそが、天下の権力者を死に至らしめる唯一無二の狙い目だった。
「進、面を差し出せ」
世阿弥に命じられ、進は震える手で『翁』の面が入った文箱を捧げ持った。
声を出せない進は、心の底で激しい恐怖に打ち震えていた。
目の前にいるのは、教科書の中にしか存在しなかった歴史上の大人物・足利義満。
そしてその命を、自分が給仕する観阿弥と世阿弥が、幽玄の舞に乗せて奪おうとしている。
もしこの計画が露見すれば、自分も含めた座員全員がその場で切り刻まれ、一族郎党処刑されることは免れない。
(この人たちは……本当に将軍を殺すつもりなんだ……)
能楽という芸術の陰に隠された、あまりにも静かで、あまりにも血生臭い暗殺劇。
進の心臓の鼓動が、舞台裏の静寂に虚しく響き渡っていた。
やがて、鼓の音が「ポン……」と一音、今出川殿の庭園に高く澄み渡った。
舞台の幕が上がり、観阿弥と世阿弥が静かに一歩を踏み出す。
高座で酒杯を手に、恍惚とした表情で世阿弥を見つめる足利義満の鼻先へ、運命の「香」が焚かれようとしていた――。




