第1章 静かなる殺し屋の影
【幽玄の仮面、毒香の舞】
遮光カーテンが締め切られた暗い部屋の中、重苦しい静寂が漂っていた。
予備校のコマ数を大幅に削減され、生きるために始めた慣れない派遣労働でも打ちのめされた伊崎進は、適応障害と診断され、自室の布団から起き上がれなくなっていた。
今日また、予備校講師の仕事はない。
会社員は、仕事が休みだと嬉しい。
でも、進は違う。
公務員試験予備校講師は、皆、好きでやっている仕事だ。
仕事をもっとほしい。
でも、ないのだ。
公務員試験は最近、大きく変わった。
進が担当する法律科目は、もはや市役所試験ではほとんど出題されない。
だから、対策は要らなくなったのだ。
進の出番は、大きく減った。
仕方なく、副業で派遣の仕事を始めた進。
しかし、慣れない仕事は心労が絶えなかった。
適応障害と診断された進。
昨日は派遣の仕事を辞めてメンタルクリニックに行ってきた。
「予備校講師の仕事がしたい」
それが、進の寝言だった。
その日の夜。
枕元にそっと置かれたスポーツドリンクと、冷えピタ。
そして、すりおろしたリンゴの優しい匂い。
静かに扉が開き、妻の美智子が足音を忍ばせて入ってきた。
「進さん……お水、ここに置いておくわね。無理に食べなくていいから、少しでも横になっていて」
美智子は進の額にそっと手を当て、不安と深い慈愛の入り混じった眼差しで見つめていた。
声が出ない進は、申し訳なさと情けなさで胸が潰れそうになりながら、かろうじて目を細めて小さく頷くことしかできない。
自分を支え続けてくれる美智子の苦労を思うと、涙が溢れそうだった。
「大丈夫だから。焦らなくていいのよ」
美智子が優しく毛布を掛け直し、静かに部屋を出ていく。
彼女の足音が遠ざかるとともに、進の意識はゆっくりと、深い深い暗闇の底へと沈み込んでいった。
現実の重力が失われ、夢と現の境界が溶け出していく――。
――ふと気がつくと、進は見たこともない古い木造の楽屋に座っていた。
鼻を突くのは、古い木材と、どこか生臭い特異な香の匂い。
着ているのは、仕立ての古い小袖と袴だ。
手元には筆記用具ではなく、能舞台の小道具である鼓の袋や装装束の手入れ道具が置かれている。
(ここは……京都……? 室町時代……?)
声が出ない身体の感覚は、夢の中の進にとっても現実と同じだった。
戸惑う進の目の前で、静かに装束を整えている二人の男がいた。
一人は、重厚な存在感を放つ熟年の男――観阿弥。
もう一人は、透き通るような美貌と鋭い眼光を持つ若い男――世阿弥。
室町幕府三代将軍・足利義満に重用され、今や天下にその名をとどろかせる猿楽能の至宝。
二人は能の一座を率いる絶対的な頂点であり、進はその座員として彼らに給仕し、身の回りの世話をする立場にいることを、夢の中の脳覚が不思議なリアリティとともに理解していた。
「……進、仕度が整った。義満公のおわす今出川殿へ向かうぞ」
世阿弥が低く美しい声で言った。
その瞳には、芸術家としての情熱とは異質な、冷ややかな「殺意」が静かに揺らめいていた。
進は息をのんだ。
進はこの一座の裏の顔を知っていた。
彼らは単なる能楽師ではない。
表の顔で足利義満の寵愛を受け、その懐に深く潜り込みながら、裏では幕府の権力構造を裏から動かす「暗殺者」であった。
権力が絶頂に達し、神になろうとする足利義満。
その過剰な権力を危ぶむ影の勢力から依頼を受け、二人は義満の命を狙っていた。
しかし、将軍の暗殺が表沙汰になれば天下は再び大乱となる。
ゆえに、派手な刃沙汰は厳禁。求められるのは「病死」に見せかけた完璧な毒殺だった。
「今日の演目は『自然居士』だ。……世阿弥、準備はよいな」
観阿弥が静かに問うと、世阿弥は懐から小さな漆塗りの薬籠を取り出した。
「は。香炉にくべる『沈香』の内部に、遅効性の特殊な毒を仕込みました。舞の最中、舞台の熱気とともに香が立ち込め、義満公の鼻腔を微かに掠めます。効果が現れるのは三日後。血を吐くこともなく、静かに御不快を訴えられ、そのまま御不終となりましょう」
世阿弥は冷徹な笑みを浮かべ、その毒香を観阿弥に手渡した。
「能とは、無の境地を見せる業。……死もまた、幽玄の彼方へと消え去るのがふさわしい」
進は震える手で二人の衣装箱を抱え、彼らの後に続いた。
能舞台の静寂と、面の裏に隠された殺意。
声を出せない進は、足利義満という歴史の巨木が、幽玄の舞によって密やかに倒されようとしている陰謀の渦中に、確かに立っていた。
楽屋を出ると、そこには豪華絢爛な今出川殿の能舞台と、高座で酒を酌み交わす若き将軍・足利義満の鋭い眼光が待ち受けていた――。




